9.強く深く、そして
気がつくと、既に
「凛子」
言葉が途切れる。
伊織の膝に置かれている手は、強く握られ、拳が白くなっている。
「俺は凛子をこの屋敷から逃がし、助けたい。五年間、ずっとそう思っていた」
頷き、伊織の目を見る。
だが彼は、私と目が合うと、顔を逸らすように俯いた。
「ただ屋敷から連れ出したって駄目だ。一生追われる身になるし、凛子が『翡翠』だとばれたら、叶様に食べられるより遥かに悲惨な目に遭う」
「うん。分かっている。だから結局私は」
「だけど、もし、吸血族のいない世界に行けたとしたら?」
再び顔を上げ、私の瞳を覗き込む。
「あの世界は秦家の、恐らく限られた人しか知らない。奥様も知らないと思う。あそこなら叶家や警察に追われることもない。翡翠の血を狙う有象無象の吸血族もいない。親切な知り合いがいる。俺にも働ける場所があるから、凛子を食べさせるくらいならなんとか出来る。だから」
そこまで一気に言った後、伊織は急に声を落とした。
言葉は徐々に、夜の沈黙の中に吸い込まれてゆく。
「……だから俺と一緒に、向こうの『東京』へ行こう。……そう、言う、つもりだったんだ」
深く、深く、溜息をつく。
伊織の目は、いつも濡れたように潤んでいる。けれども今、私を見つめる目の奥には、いつもと違う光が、零れ落ちそうに揺れている。
「本当、俺って、ばかだよなあ」
ふっ、と息を吐き、顔を隠すように俯く。
言葉の端が震えている。
「お屋敷に来るまで疑いもしなかった。凛子を吸血族から救いたい。奴らの手の届かない所に逃して、ささやかな幸せに満ちた、長い人生を送らせたい」
言葉は擦れ、私の心に爪を立てる。
「その人生を、俺が傍で守れるって、どうして思っていたんだろう……」
ブン、と低い音を立てて、ストーブが止まる。
私は立ちあがり、伊織の傍に跪いた。痺れを伴う冷気を膝に感じながら、彼の強く握られた拳に触れる。
私の指先が触れた時、彼の拳が僅かに震えた。
「私、最近、つくづく自分が嫌になって」
伊織は私を見て首を傾げた。
「鈍感で、自分一人が可哀想な子のつもりになって、大切な人の心を
「なんの話?」
なんの話であるかは、恥ずかしくて言えなかった。だから問いには答えず、話を戻す。
「違う世界の東京の事はね、はっきり言って、信じられない。それは今の話に出てきた人たちの気持ちと同じ。だってあり得ないもん。でも、伊織が言うんだから本当なんだろうなあって、今は思っておく」
「ありがとう」
彼の唇の形だけが微笑んだ。
「でもさ、今の話って、生まれ育った世界じゃない所へ行こうっていう話でしょう? そんなの怖くない? 伊織は井村さんや嶋田さんに頼りにされているんだから、このままこのお屋敷にいれば、平和な暮らしが」
「凛子を
伊織は私の言葉を遮り、声を荒らげ、睨み据えた。思わず身を引き、彼の拳に触れていた手を離す。その私の様子を見て、彼は「ごめん」と呟いた。
「凛子は叶様が好きなんだろう?」
彼の問いかけに、私は曖昧な頷き方しかできなかった。
――あなた、主人を独占したいとか、主人のために何かしたいとか、考えたことある?
――あなたの『好き』って、その人を見て顔赤くして好き好きーって思うだけのものなの?
怜様のことは好きだ。でも、この間の美那様の言葉を聞いてから、私にとっての「好き」というものがなんであるのか、揺らぎはじめている。
「凛子が叶様を好きだろうとなんだろうと、縛ってでも向こうの『東京』へ連れて行こうって、思っていたんだ。でも、もし、俺が凛子の立場だったら……」
彼はそこで言葉を切り、もう一度深い溜息をついた。
立ち上がり、私を見る。
微笑む。
泣き出す直前のような、潤んだ微笑だった。
「で、これだけ長々と語った話の結論、実は出ていないんだよ。なんかごめん。今日はもうおしまいにする。そういうわけだから、もしここから逃げたいならいつでも逃げられる、っていう事だけ頭の中に置いておいて。じゃあ、おやすみ」
作られた明るい声でそう言うと、鍵をポケットにしまい、扉の方へ歩き出した。
「待って」
私の声に伊織が振り返った。
彼の顔を見て一瞬たじろぐ。だが、言葉を続ける。
どう聞いたらいいのか、頭を巡らせる。
「私の話の続き。もし、私が『逃げたい』って言ったら、一緒に向こうの東京へ行ってくれるんでしょう?」
「うん」
「でも、私、世の中の事を何も知らないような奴なんだよ。きっと色々困らせちゃうと思う。なのにどうして……」
「どうして、って」
私が言いよどんでいると、伊織の言葉が私にぶつかってきた。
口調が一気に鋭くなる。
「決まっているだろ」
体を私の方へ向け、大きな目で見つめる。
頬から耳にかけて、ふわりと淡い紅が差す。
「凛子の事が、好きだからだよ」
拳を握る。息を一つ呑んで、言葉を続ける。頬の紅が深くなるにつれ、口調が強くなる。
「どう言ったら伝わるんだ? 『好き』じゃ分かってもらえない? 好きだから。大好きだから。仲間とか、友達としてじゃなく、一人の女性として、凛子の事を、愛しているから」
声が大きくなる。早口になる。強い口調なのに、触れると壊れそうに震える言葉の一つ一つが、私の胸に突き刺さる。
「凛子は叶様が好きだって言う。見ていて確かにそうなんだなあと思う。凛子の『好き』は、柔らかくってきれいだ。俺のとは違う」
拳が震えている。少し躊躇うように俯き、顔を上げる。
「凛子のことがどうしようもないくらい好きだ。だから凛子のためならなんだってするし、自分の全てを捧げたいし」
鳶色の瞳が揺れ、私の体の奥を掴む。
「俺は凛子の、全てが欲しい」
最後の言葉の後、夜の深い静寂が、ゆっくりと私達の間を通り抜けた。
暫くの沈黙の後、伊織は少し首を傾げ、嗤うように口の端を歪めた。
「俺の『好き』は、凛子のよりも、ずっとずっと、強くて、深くて、そして、
おやすみ、と言って、彼は私の心を置き去りにしたまま扉を閉じた。
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