7.罪の経緯(2)
伊織はそこまで話した後、深く息をついて上体を屈めた。
「大丈夫? 少し休もうか」
疲労のせいか話している内容のせいか、彼の顔は紙のように白くなり、額に汗が滲んでいる。汗を拭こうと私がハンカチを額に当てると、彼は一瞬体を強張らせた。
「大丈夫。ごめん、本当、いつも……情けない」
私は黙って首を横に振り、彼の前にかがんだ。
怪しい行動をする院長先生。
倉庫からいきなり出てきた赤ちゃん。
そして地下室の扉の向こうにあるという、別の『東京』。
伊織の話はあまりにも非現実的で、驚きの感情すらうまく湧き起こらないくらいだ。内容も、正直に言って理解できない部分がいくつもある。
でも、この状況で彼が嘘を言うとは思えない。まずは全て話を聞こう。突っ込みだの、質問だの、そういった私の混乱を伝えるのは後だ。伊織が顔を上げたのを見て、私は椅子に座り直した。
彼は再び話し始めた。
「その部屋には、何もなかった。――」
その部屋には、何もなかった。部屋自体には灯りもなく、長い間誰も使用していない事は一目瞭然だった。
俺はその部屋の窓の向こうにあった、光の洪水に目を奪われた。
向かいの建物の壁には、光り輝く映像が動き回っていた。
窓よりも巨大な人の顔が、生きているように動き、喋っている。顔の周りには光が点滅し、文字が踊り、激しい音楽が撒き散らされている。
前に映画を見たことがあるが、あんな白と黒の映像ではなく、鮮やかな色が溢れ、禍々しいほどに美しかった。
一体、ここはどこだ。
腹の底に響くような激しい音楽と光の洪水に包まれながら、まず思ったのはそれだった。
どう考えても倉庫の地下室の光景ではない。部屋を見回すと、今来た扉の他にもう一つ扉があったのでそこを出、階段を降りた。
地下室に入っていたはずなのに、古いビルの三階に繋がっていた。
外に広がっていた世界は。
今まで見たどの繁華街も比較にならない程の、夥しい数の人間。
あちこちで点滅する鮮やかな光。
大音量の声、音楽。
巨大なガラスの塊のようなビル。
人間の目鼻立ちは東京人と同じ感じが多いが、髪の色は様々で、皆、派手で奇妙な服を着ている。
多くの人は掌くらいの薄い板を手にしていて、それを覗き込みながら歩いたり、耳に当てながら一人で話したりしている。
話している言葉は東京国のものとほぼ同じようだ。街中に溢れる文字も似ている。だが、東京国の文字をもっと簡単にしたようなものが多く、読めそうで読めない。
時間も東京国とは異なるらしい。その時は夏だったが、空は僅かに太陽の光を残していた。
吐き気がする。
何がどうなったのかまるで分からない。兎に角、僅かな共通点はあるものの、今、ここの世界とは明らかに異なる世界に、俺は迷い込んでいた。
人の波に流されるように歩いていると、地下に繋がる通路があった。地上に疲れ切った俺は地下に入ってみたが、人ごみと、光と音の暴力は、地下でも殆ど変わらなかった。
今、この状態では、とても農場や誘拐の事を調べることは出来ない。取り敢えず一度、もとの場所に戻って考えよう。
でも、と、手にした鍵束を見る。
もし一度もとの場所に戻って、改めてここに来るとなると、鍵が必要だ。だが鍵が盗まれたことはすぐに気づかれるだろう。そうなったら、鍵を取り換えられたり、扉になんらかの策を講じられるかもしれない。
これ、一度元に戻し、また盗まないといけないのか。そうそう何度も上手くいくだろうか。針金を使った鍵の開け方は教わったが、この小さな鍵の穴も、同じように開けられるのかは分からない。
合鍵があればいいのに、と、ちらりと思った。
だが、俺の思考はそこでいきなり途切れた。
おかしな世界に迷い込んでしまった混乱と、人ごみと、光と音の暴力、濁った空気にあてられて、本当に情けないが、激しい吐き気と眩暈の後に、目の前が真っ暗になって、そのまま気を失った。
どこかの物置みたいな場所で目を覚ました。
「あ、起きた。大丈夫ですか? 『きゅうきゅうしゃ』呼びます?」
目の前に、東京人の顔立ちに派手な金茶色の髪の、女性の顔があった。
俺は地下にあった服飾店の人に助けられていた。
鍵束も無事だった。まだ気分は悪かったが、俺はお礼を言ってその場を去ろうとした。
「その鍵、珍しいですね」
その人は俺が手にした鍵束を見て言った。
「すっごい昔のタイプの鍵ですよね。博物館とかにありそうで逆にカッコいいかも。でも一つだけ普通の鍵ってのが、なんか笑える」
「なんか笑われた」鍵が、この鍵だった。
言われて改めて鍵を見る。一見安っぽいけれど、かなり精巧な作りだ。こんな細かな細工の小さな鍵が、この世界では普通なのか。
ああ。
この鍵は、この世界の鍵なのか。
「この鍵、この世界では普通に使われているものなんですか?」
「この世界、って? まあ、普通ですよね。てか古いくらいじゃない?」
「じゃあ」
気を失う直前に思いついたことを口にした。
「これの合鍵って、作れるものなのでしょうか」
「作れますよ、多分すぐに」
俺が何かを考える間もないくらいすぐに返事をされた。
俺は咄嗟に適当な理由をつけて、合鍵を作りたいと言ってみた。その人は特に何かを怪しんだりすることなく、掌くらいの板をいじった後、合鍵の作れる店を教えてくれた。
「『せんえん』くらいかなあ」
価格の事だろうか。俺が手持ちの紙幣を見せると、その人は不思議そうな顔をして紙幣を見た。
「あ、外国の方だったんですか? 『にほんご』上手だから分かんなかった。え、どこのお金? 外貨使えるかなあ。カードあります?」
よく分からなかったが、俺の持っている紙幣は、この世界では使えないようだ。
仕方がない。じゃあ、一度農場に戻して再度盗むしかない。そう諦めようとした時、その人は鍵を手に、微笑んだ。
「じゃあ、これ、私が作ってあげます」
「え?」
「いいですよ、困っているんでしょ? そのかわり、何か『えすえぬえす』やっていたら、『にほんじん』親切だったって広めて下さいね」
「えすえぬ……はあ」
「でも、そんな大事な鍵、なくしちゃだめですよ。本当は付け替えた方がいいんだろうけど。これから一緒に暮らす彼女さんにあげる鍵なんでしょ。ああ、でもいいなあ。私も彼氏欲しい」
俺が咄嗟に吐いた矛盾だらけの嘘を受けて、その人は鍵を作ってくれた。思っていたより高額だったらしく、「よんせんえんとか、ありえないんだけど」だかなんだかとずっと言っていた。
俺は親切な人を騙して高額な出費をさせてしまった事に罪悪感を抱きながら、何度も礼を言って「もとの世界」に戻った。
……あ。
……えーと。
合鍵作るときに吐いた嘘は、本当に咄嗟に出た、適当なものだから。
本当、適当だから。流していいから。
べっ別に俺の隠れた願望がうっかり出ちゃったわけじゃないからなっ。
……どんな嘘だったかって? あ、その辺、流して聞いていた?
うん。それでいい。続けるよ。
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