3.想いを受け止める

1.何故、私を

 思わず目を開ける。

 伊織は既に私から離れ、机の方へ向かっていた。声を掛けるタイミングを逸し、私は毛布の端から目を出した。

 机上の灯りをともし、彼は作業を再開した。淡い光の中に浮かび上がる真剣な表情には、先刻の囁きの余韻など何も見当たらない。ただ黙々と鉛筆を走らせ、算盤を弾いている。


 ――愛している。


 聞き間違いではない。伊織は確かに「愛している」と言った。今まで何度か「好きだ」とは言われていたが、「愛している」なんて、面と向かって言われた事はない。

 友達として、だろうか、という考えが頭の片隅から浮かび上がり、潰れていった。


 分かっている。

 さすがに分かった。

 彼は、この言葉を、親愛表現として使ったわけではない。

 そしておそらく、今まで何度か言ってくれた「好きだ」も。


 心臓が暴れる。顔が火照る。頭の中が大きく渦巻く。

 まさか、という言葉が浮かび上がる。彼に対して嫌な気持ちは勿論ない。なのになぜか、私の頭の片隅が、彼の言葉の意味を否定しようともがく。

 

 もう一度伊織を見る。顔を伏せ、紙に書かれたものを読んでいる。暫くすると「よし」と呟いて少し笑い、机の上を片付けて立ち上がった。

 慌てて目を閉じる。彼は「おやすみ」と囁いて部屋を出、扉を閉じた。




 扉の閉じる音がしたのと同時に目を開け、ベッドから起き上がった。もう、眠気なんかどこかへ吹き飛んでしまった。


 今まで伊織が私に掛けてくれた言葉、接してくれた態度を思い出す。それこそ農場を脱走した夜から思い出す。

 あの時彼が言った「凛子のことが、好きだからだよ」というのは、恋慕の情の告白だったのではないか。

 あの時、私はどうしたか。

 そうだ、確か、彼の言葉を笑い、想い自体を否定したのではないか。


 たとえ自分が相手を友達としか思っていなかったとしても、十四歳にもなれば、普通は相手の恋慕の情くらい気がつくんじゃないか。

 あの時気がついたからといって、私に彼と同じ想いが芽生えたかと言えば、それは分からない。だが、たとえ拒むにしても、想いを受け止めたうえでの拒否であれば、意味合いは変わる。

 私は、彼から捧げられた心を、宙づりにしたまま否定した。


 自分の為に人生を歪めてしまった、大切な大切な人にしでかした、己の仕打ちを思い、頭に血が上る。

 再会してからのことを思い出す。私は伊織が再び伝えてくれた「好き」を否定し、自分の恋を滔々とうとうと語り、彼の想いを他人事として同情した。


 伊織の想いの伝え方が控えめだったから分からなかった、という言い訳が頭に浮かぶ。そしてそんな言葉が思い浮かぶ自分に呆れる。

 二度もはっきり伝えてくれたじゃないか。その後控えめになったのは、私があんな形で二度とも想いを否定したせいだ。


 手で顔を覆い、深く溜息をつく。

 そうだ、ご隠居のこともあった。私は自分の思い込みだけで人を見て、言葉を深く聴かず、分かった気になって人を退ける。

 最悪だ。


 もう一度溜息をついた時、付き人部屋から物音がした。扉に目を向けると、取り付けられた錠前が、月明りを受けて鈍く光っている。


 明日から、伊織にどう接したらいいんだろう。


 彼の気持ちが分かってしまった。でも私は怜様が好きだ。今まで通りにした方がいいんだろうか。ああ、でも、分かったと言っても、本当の本当の本当に恋慕の「愛している」なのか面と向かって聞いていない以上、うかつな事は言えない。さり気なく尋ねることは出来ないか。で、出来ない。無理無理無理。本当に確かめたい事って、なかなか訊けないものだ。でも私の命は残り三カ月なのに、このままうやむやにしていていいのか、いや、三カ月だからこそうやむやにした方がいいのか、でも彼の気持ちを受け止めたい、でも私は怜様が、でも今のままではひどすぎる、いや、でも……。


 でも。そういえば。


 ごちゃまぜの思いを飲み込み、ベッドに横になる。

 目を閉じる。一つの思いを、心の中で噛みしめる。


 私はひどい奴だ。伊織の想いに気づかず、ご隠居に負の感情を抱き、嶋田さんや美那様を羨む。そんな人間だ。

 もし、伊織が私に、本当の本当の本当に、こ、恋をしているのだとしたら。

 人生を歪めるほどに、私を想ってくれているのだとしたら。


 伊織は何故、こんな私を好きになってくれたのだろう。




 私は健康だ。だからよほどの事がない限り、朝は来る。それは分かっている。

 分かっているが、来てしまった、朝が。


 軽やかに扉を叩く音がした後、朝食をワゴンに載せて伊織が入って来た。私と目が合うと、いつものように「おはよう」と言って微笑む。


「おはよ……」


 伊織にとってはいつもの朝だが、私にとってはいつもの朝ではない。私と彼の関係は何も変わっていないし、何も変わらないのに、私の心の中だけが勝手に激変してしまっている。


 テーブルに朝食が配膳される。今日は胡麻をふった五分き米と味噌汁、根菜の煮物、青菜の和え物だ。これもよくある献立。お米と醤油の匂いに反応して私のお腹が鳴るのもいつもと同じだ。


 私が食べている間、伊織は傍らの椅子に座って待っている。いつもなら食事の間、伊織が食べたという、牛乳で作ったアイスクリームや豚肉の揚げ物の話なんかを聞いて面白がるのだが、今日は何の話題を振ったらいいのか分からない。

 伊織は基本的にこちらから話しかけないと雑談をしないので、私一人が勝手に気まずい気分の沈黙が流れる。

 あまりに気まずいので、とりあえず何の考えもなしに声を出してみる。


「伊織、外ではさ……」


 好きな人とどう出会ったの? という話題を振ったことを思い出す。

 あの時彼は曖昧に笑い、「どう出会ったのかなんて忘れたよ。気がついたら、いつも一緒にいた」と言った。そして私が深入りするのをやんわりと拒絶した。

 その意味を理解し、照れ、落ち込み、後悔する。ばかばか私のばか、一体伊織はどんな気持ちで私の質問に答えていたのだろう。


「外では、何?」

「……外では、葱を食べたことある?」


 ばかばかばか、それ、昨日聞いたばかりの質問じゃないか!




「昨日の事、気にしている?」


 食器を下げながら、伊織は私の顔を覗き込んで言った。


「き、昨日の事?」

「うん。なんか、今日の凛子、変だから。気にしているのかなあって」

「気にしているって? え!」

「ああ、そうなんだ、やっぱり」


 伊織は困ったような顔をして少し笑い、椅子に座ったまま身を引く私の目の前にかがみ込んだ。

 ぽん、と私の頭に手を載せる。


「ご隠居の事も奥様の事も、そんなに気にしないほうがいいよ。忘れる事は出来ないだろうけど、ね」


 ああ、そうだ。

 なんで今、「あの」事だと思ったんだろう。


 勿論それも全部気にしている。思い出すと、胸が痛い。


「ありがとう。ごめんね。伊織」


 伊織、優しいね、大好き。

 昨日までなら出てきた言葉が、喉の奥でもじもじと隠れている。

 私の心は変わっていない筈なのに、言葉の意味だけ変わってしまう、奇妙な感覚に戸惑う。




 もうすぐ怜様が来る時間だ。

 怜様が私の血を吸いに来る。吸血の間、伊織は部屋の隅で立って見ている。それは毎朝の繰り返しなのに、今日はなんとなく抵抗がある。


 怜様に私の気持ちが知られてしまった。その上で、怜様の腕の中で血を吸われるのはやはり恥ずかしい。

 それに、なんとなく伊織に吸血される姿を見られたくない。


 そんなことを考えていると、怜様が部屋に入って来た。


「おはようございます」


 伊織と二人で挨拶をする。怜様が部屋に入って来ると、いつも胸が鳴るのだが、今日の胸の音はいつもと少し音色が違う。怜様は私に微笑みを向けた後、伊織を見た。


「伊織の体、すぐに良くなると思ったのに、なかなか良くなりませんね。もとの体質も影響しているのでしょうが」


 怜様は伊織の顎をつまんで顔を引き寄せた。


「あの刑務所には困ったものです。ばれないと思っているのか、ばれてもどうせ罪人だからいいと思っているのか。彼らは、私が伊織を掬い上げた時、気が気じゃなかったでしょう」


 伊織は怜様から目を逸らした。その時私と目が合ったが、私からも目を逸らす。


「さて」


 怜様は急に興味を失ったように伊織から離れ、私を見て微笑んだ。

 目を細め、口角をきゅっと上げる。

 昨日の事など何もなかったかのような、いつもと全く変わらない、私を見る目。

 「おいしい食事」を目の前にした時の笑顔。

 私はベッドに腰かけ、俯いた。怜様も、伊織も、見えないように。

 怜様が私のそばに腰かけた時、胸の奥がちくりと痛み、怜様と伊織の両方に対して、複雑な恥ずかしさがこみあげて来た。

 肩を抱かれ、引き寄せられた。


「叶様っ!」


 怜様が顔を近づけた時、井村さんが転がり込むように部屋に入って来た。

 怜様の瞳から光が失せ、何事かと顔を上げる。井村さんは怜様のもとに駆け寄り、跪いて怜様を見上げた。


「何事ですか。ノックもせず」

「も、申し訳……、あ、あの、叶様、ご」


 一度息を呑み、呼吸を整える。

 怜様を見る。


「ご隠居様の、意識が……」

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