第6話 日常少女 《荒野ライフ》

 赤土に覆われた丸太小屋ログハウスの斜め前、階段状に並んだ二つの貯水槽みずがめの隣に、ルドルフさんの調理場はあった。


 獲物の解体も可能な大きく平たい石の調理台と、レンガで造った頑強な二連かまど、乾いた荒野の真ん中にもかかわらず、二つの貯水槽みずがめは、常に水で満たされている。

 浮きそりの洗浄を済ませたルドルフは、二つ目の貯水槽のレバーを引いて、流れ出る水を木製のコップに注いだ。

 コップから溢れる透き通った水は、彼の力作「ろ過装置付き二段水槽」と、はるか彼方からつづく「水の道」から生み出されたものだ。


「美味い……」

 その一言に込められるのは、成し遂げた者の達成感、そして、快適な生活は過酷な労働のもとに成り立っている、という実感である。


 水の道あんなものをつくろうと考えたかつての自分は、どこかおかしかったのだろうか。


 水の道を見て、「クレイジー!」、「ブラックカンパニーサラリーマン!」、「アオノドウモンのゼンカイオショウ!」、そう叫んだ少女の顔を思い出す。言葉の意味は不明だったが、それが素直な称賛でないのは何となくだが理解できた。


「働き者が感染うつる!」と言って、逃げるのはどうかと思うが。


 労働否定派に属しているらしいその少女は今、調理台の上でせっせと包丁を研いでいる。


 青い上着に短めのスカート、可愛さがいささか過剰な点――ルドルフ主観――を除けば、どこにでもいる普通の少女。しかし、食材を見つめる黒い瞳には、食いしん坊特有の食に対する異様な執着、いうなれば狂気が宿っている。


 そして今も、時折横目で食材ウォルテムストを見ては、「チャイナ……マンガンゼンセキ……ククク」と呪文のような呟きを漏らしている。

 これは、ひとこと言っておくべきだ。ルドルフはそう思い、少女に近づき声をかける。


「シーナ、私は浮きそりを倉庫に戻してくるが、つまみ食いなどせぬようにな。螺旋獣ウォルテムストの肉は生では食えないぞ」

 

「しない、しない、神に誓う。あとそれ浮きそり違う、『ライラプス号』、名前で呼ぶこと」

 

「ああ、すまない……では、ララライ……スプ……号を置いてくるから、くれぐれもつまみ食いはしないように、この間の『抱腹絶倒茸クラックアップマッシュルーム』で懲りたと思うが、君は何でもすぐ口に入れるから――」


赤子ベイビー扱いやめて」

 ぷう、とほっぺを膨らます少女は、相も変わらず可憐である。この可愛らしいお嬢さんが、道端で毒キノコを拾い食いするとは、誰も夢にも思うまい。


 しかし、彼女はやるのだ。


 この可憐な少女は、魔獣の生肉で腹を壊し、毒のキノコで死にかける。

 なぜ得体のしれないものを口にするのか、というお説教に対しても、「そこにキノコがあるからさ……」などとうそぶくあたり、このいやしんぼ、反省する気もないらしい。


「しつこいようだが、螺旋獣ウォルテムストの肉を生で食うと腹をこわすぞ。戻ったら美味しく調理してやるから、大人しく待っていなさい」

 幼女に言い聞かせるようにして、ルドルフは少女に念を押す。


「ルドえもん、私、信じろ」

 力強く答えた黒瑪瑙オニキスの瞳は、怪しい光を放っていた。




「ライラプス号か……」

 倉庫に向かう道すがら、ルドルフはポツリと呟いた。

 道具に名前を付ける習慣はなかったが、こういうのも案外悪くないと彼は思う。その名の由来が異界の神話にでてくる猟犬の名というのは少しばかり気にくわないが、「ライラプス」と呼んだところで浮きそりが犬に変わるわけでもないのだし、気にすることでもないだろう。


 それに、シーナが付けてくれた名前だしな。


 イヌ科全般に苦手意識を持つ「猫人ニャーマン」の習性もどこへやら、ルドルフは、飾り気のない船体に書かれた異界の文字――「LAILAPS」をなぞって表情を緩める。

 船体に並んだ七つの文字は独特で赤蠍虫ルフスカルピオから抽出した赤い染料が美しかった。

 少女が書いたその文字は「アルファベット」というらしい。これを「ライラプス」と読めるのは、広い世界で彼女と自分、二人だけなのかもしれない。


「二人だけの文字か……」

 そんな風に考えれば、ただの文字さえ特別なものに思えてしまう。わずらってしまった恋の病が悪化していることを自覚して、ルドルフは言い訳するよう小さな声で呟いた。


「仕方ないではないか」

 もとより見た目は一目惚れするほど好みなのだ。そんな子が「ルド、ルド」と、ニコニコ笑って話しかけてくるのだ。


「ルド、ごはんつくって」、「ルド、お風呂沸かして」、「ニャンコ先生、魔法教えて」、「ルドえもん、なんか魔道具だしてよう」、なんとなく要求ばかりの気もするが、頼られるのは嫌ではないし、上目づかいでお願いしてくる少女の可愛さは、控えめに言っても女神級だ。


 あれを拒否できるオスなどいるものか。

 

 もしそんな奴がいるならば、そいつはどこかに欠陥があるに違いない。

 それに、「優れたメスは、オスの器量と余力を正しく判断したうえでわがままを言う」らしい。幼き日、彼の教育係が言っていた。


 優れたメスは、その鋭い洞察、あるいは直感的なものを以て、オスの限界を正確に見抜くという。そしてぎりぎりのところで、オスの限界を試しつづけるのだ。


「恐ろしい、そんなメスは絶対イヤだ」

 そう答えたルドルフ少年に、彼は笑ってこう言った。


「出会えばわかる」と。


 良いメスの存在は、つがいの力を高めつづける。彼女らは容赦をせず、かといって実現不可能な無理も言わない。必死でやればなんとかなる、そんな願いを時折口にし、甘く優しい声で「あなたなら出来る」と囁くのだ。


「まるで悪魔ではないか、そんなメス、どこが良いのかさっぱり分からん。それに、死ぬ気で願いを叶えたとして、見返りは何だ。その『優れたメス』とやらは、そんな良いものをくれるのか。王族である私は、つまらないものでは納得しないぞ」

 声高に言うルドルフの頭を撫でながら、彼は答えた。


「笑ってくれるのだよ……ニッコリとな」


「ふざけるな!」


 あのとき自分はそう怒鳴ったが。

 今となっては、分かり過ぎるほどよく分かる。ルドルフの脳裏に浮かぶのは、花のように笑う少女の顔。彼はもう知っている。その笑顔一つでどんな苦労も報われることを、そして彼女が誰よりも優れたメスであることも。


 ゆえに彼は嘆くのだ。


「彼女はなぜ、人間なのか」と。





「人間ごじゅうねん~、下天の内をくらぶればぁ~、夢幻のぉごとぉくなぁりぃ~……」

 少女は舞っていた。なにゆえか、と問われれば、浮かれていたから、としか答えようがない。


「約束とは、破るためにあるのだ」

 悲しいけれどそれが現実、人の意思など欲望の前では無力なのだ。この世の真理に「悲しいなあ」と笑いつつ、少女は一人「敦盛あつもり」を舞いつづける。


「飽きた。ごとくなりーの先、分かんないし……」

「敦盛」を選んだことに理由はあれど、「敦盛」を舞うことに必然性はない。今から食するこの珍味、チャイナで噂の高級食材が、少女に「信長」を思い起こさせただけなのだ。


「ああ、疲れた」

 冷静と情熱の間で揺らめく精神を少しばかり落ち着かせ、少女は静かに左手を見る。こぼさぬようにと慎重に持ったそれは、手のなかで小刻みにプルプル震えていた。

 

「よく考えたらこれ、約束も破ったことにならないんじゃないかな」

 言い訳という名のアイデアを閃き、少女は軽い興奮を覚える。出来ることなら好感度の失墜は避けたいし、欲望を満たしたうえで信頼を失わずに済むというなら、それは喜ばしいことである。


一休いっきゅう的とんち理論、別名屁理屈へりくつによれば、そうなる可能性は高い」

 このはし渡るべからず、に対する解答が「真ん中歩いちゃった」で済むのがこの理論。「肉を食べるな」と言われたからお肉は食べませんでした。違うところは食べたけどね! 

  

「……ダメかな」

 少しだけ冷静になった少女は、当然の答えにたどり着いた。


「こんな屁理屈言われたら、普通は発狂するもんだ。我慢強いね義満は、私なら一休をサツガイしているよ」

 さすが名君、大した器だ。少女は室町幕府第三代将軍に心から敬服するとともに、一休に軽い殺意を覚えた。


「さて、そろそろ食べよう。遊んでいるうちにニャンコ先生が戻ってくる、なんてことになったら目も当てられない。それこそ私にとっての『本能寺の変』だ」

 右手に包丁――ではなくスプーン、左手には、綺麗に切り落とした頭蓋骨の頭頂部、中身はもちろん魔猿さるの脳みそ。

 髑髏どくろさかずき、とくれば「信長」である。そんな安易な発想から始まった小芝居も、もう終わり。

 

「明智ルドルフ光秀は、私がこれを食べることを許すまい」

 確かにゲテモノ、病気の危険性もある。チャイナでは食べるんだよ、といっても彼はおそらく信じまい。


「ならば、隠れて食べるまでよ」

 織田少女信長はスプーンを握りしめ、頭蓋骨のなかに突っ込み、ついでにグルグルかき混ぜる。

 

「私のあとに天下を狙うなど千年早いわ秀吉サルめ! 脳みそ食ってやる!」

 この瞬間、天下布武系少女の戦国絵巻は「信長が秀吉サルの脳みそを食う」という猟奇的な結末を迎えたのであった。




「うう、お口くさい……」

 多くの偉人達の人生が悲劇で幕を閉じるように、少女の小芝居もまた、悲劇で幕を閉じようとしていた。


 猿脳といえば「満漢全席」にも供される一品、美味いことなど分かっている。それは愚かな小娘の妄想であったと、少女は今、身を以て思い知る。


 あるいは、普通の猿ならいけてたのかもしれない。生で食べたのがダメだったのかもしれない。胸をかすめる後悔の言葉は、嘔吐物の海に沈んで消えた。


 もはや、不味いだなんだと言う気力もない。呼吸をすると口の中にうんこの臭いが漂うのだ。口内が便所になったような感覚に、少女はこの場所こそが「本能寺」であったとついに悟る。

 心は折れ、立ち上がる気力もなく、ただグズグズと泣きじゃくる少女の視界にサファイアブルーの瞳が見えた。


「すまぬ光秀、約束を破った……」

 筆舌に尽くしがたい臭いのなか、これだけは言わねばならぬと少女は呟く。


「ミツヒデ……?」

 サファイアブルーの瞳が困惑の色を示す。それもまた当然だろう。彼は光秀であって、光秀ではない。


 ネコである。


「ルドえも……ん、助けて……ごめんなさいするから」

 もはや、恥も外聞もない。この地獄が終わるなら、土下座だってしてみせる。いさぎよくも見苦しい覚悟をもって、少女は猫人ニャーマンの戦士に頭を下げた。


「つまみ食いはしない。そう神に誓ったのではないか?」


 問いかける彼に、少女はゆっくりと首を横に振り、息も絶え絶えに答える。


「神は……いない」と。





 次話予告。


 愛ゆえに人は、悩み、惑う。

 その絆は本物、それでも心の奥底までは知りえない。すれ違い、傷つけあった二人は一つの決断を下す。


 次話「ラヴ少女」


 その包丁でも斬れぬもの、それは愛。

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