第36話


 わたしという人間は、なんというめんどくさい人間なのだろう。自分というものがないから、別人格が代わりに出てきて助けてくれる。宇野の話を聞いていて、思わず、自分のことくらい自分でちゃんとやれよと、怒鳴りつけたくなり情けない思いがした。


「ようするに、わたしは自分らしく生きるということができない人間なんですね。自分のできないことを認められなくて、無駄に悩んでしまったり、嫌なことをはっきりと嫌だと言えずに我慢してしまい、別人格が爆発してしまう。先生の話を聞いていて思いました。完璧に何でもやりたいのに、それができないと、どうしていいのかわからなくなり、逆に何もできなくなってしまう。完璧にできない自分のことが許せない。わたしは保育園のときに、担任の先生に酷いことをされました。わたしは、あんな人間には絶対にならないと思って生きてきました。だけど、成長していくにつれ、自分の中に悪があることが見えてきたんです。もしかすると、わたしも何かの拍子に、人に酷いことをしてしまうのではないか、あの先生を責められる人間ではないのではないか、責められるほどの良い人間ではないのではないかと、思うようになってきたんです。わたしの心の中にある悪の心が怖いんです。わたしは全ての人を平等に見ることができないし、平等に接することもできません。あの先生と同じような人間なんです」


「それは絶対に違います!」


 宇野が珍しく、強い口調でわたしにそう言った。


「有坂さんは、言わば被害者なんですよ。今の有坂さんは、真逆の考え方になってしまっています。あの先生のせいで、有坂さんが酷く傷ついてしまった為に、解離性同一性障害という病気になってしまったんですよ。それを忘れてはいけません。あんな酷いことをする人と、有坂さんが同じ人間なわけがないでしょう?有坂さんは他人に対して、あんな酷いことをする人ですか?違うでしょう?あの先生が何故あんなことをしてしまうような人間になったのかはわかりません。何かがあってあんなことをする人間になったとしても、それは私たちが考えてあげる必要もありません。何があったとしても、有坂さんが傷つけられるなどという理不尽なことが許されることはないのです。だけど、過去に戻って起こってしまった悲しい出来事を取り消すことはできません。今、あの先生を探し出し、過去のことを謝ってもらっても解決しないことだと思います。覚えていない可能性が高いですし、逆にまた有坂さんが更に傷つけられる恐れがあります。」


 宇野は、そこまで言うと、ふぅ、とため息をついた。そしてまた話を続ける。


「長くなるので、肩の力を抜いてゆったりとした気持ちで聞いてくださいね。何度でも言いますが、有坂さんは何も悪くありません。過去を変えることはできませんが、私たちができることは、有坂さんの心の傷が少しでも治るようにと考えていくことです。人と人が関わると、嫌なこともあります。無視したくなることもあります。どんな人とでも仲良くする、などということはできるわけがないのです。人間は、ひとりひとり考え方も環境も、できることもできないことも、何もかも違います。合う人合わない人がいて当たり前なんです。この人とは合わないなとか、好きじゃないと思っても、自分を責めなくていいんです。わたしにだってありますし、どんな人にもそれはあるんです。合わない人と出会う度に、自分を責めていては、人は生きていくことはできないんです。有坂さんが、自分を責めてしまう理由は、人を傷つけたくないという思いがあるからなんです。人を嫌ったり、全ての人に対して、一生懸命向き合っていけないとき、人を傷つけてしまうと思ってしまうんですね。それはとても素晴らしいことですが、限界があります。嫌なことを言われたら怒ってもいいんですよ。むしろ怒るべきです。喧嘩をする必要もありません。嫌なことを言う人は、相手のことを考えていません。責めるばかりで話になりませんから、その人とは関わらなくていいんです。嫌なことを言われる自分が悪いからだとか、批判をされたときに、それを受け入れることが自分の為になるなんて思わなくていいんです。謝らなくてもいいし、ましてやお礼なんて言う必要はありません。批判を受け入れて自分をもっと向上させようとか、批判を受け入れるべきとか、そんなことを有坂さんに言う人のことも無視してください。その人はそれができるか、もしくは我慢のできる人かもしれませんが、有坂さんは、批判やちょっとした言葉でも傷ついてしまう人なんです。有坂さんはもう傷つく必要はありません。もう一度言います。有坂さんは、人から傷つけられる必要はありません。自分がワクワクすること、楽しいことをやってください」


 宇野の言葉にわたしは泣いた。わたしは傷つかなくていい。わたしはもう傷つかなくていいんだ……。


「ありがとうございます先生。気持ちがすごく軽くなりました」


「愛子が出てこなくても、有坂さんは充分、人に優しくできる人です。それ以上に人に優しくする必要はないんです。それがわかると、自然と愛子は出てこなくなると思います」


 今ならわかる。子供の頃から、時々出てきていた愛子の存在が。わたしが大切に集めていた色とりどりの消しゴムやシール、大事にしていたリカちゃん人形、漫画の本、洋服までもが、いつの間にか友達やクラスメイトの手に渡っていた。最初は友達が盗んだのかと驚いたが、みんなからありがとうと言われ、自分があげたのだと知った。


 みんなが欲しがるから、あげたい気持ちと、自分の大切な物を手放したくない気持ちで迷ったときに、手放したくない気持ちが勝つ自分のことを、なんてケチな人間なんだと嫌になることがあり、その後気付くと、友達が喜んでいる姿を見て、みんなが嬉しそうにしているのなら、あげて良かったと思ったのだ。あげたことは覚えていなかったけれど、結果的に人を幸せにできたのだから、それでいいんだと思えた。


 自分が傷つきたくない気持ち、そして、人を傷つけたくない気持ちが、愛子という人格を作りあげたのだろう。自分を犠牲にしてまで、自分の楽しみをなくしてまで、人にしてしまう愛子。そんなことはしなくていいし、思わなくていいという宇野こ言葉で、心が軽くなった。


「愛子の存在を知って、子供の頃からの周りで起こった不可解な出来事が、少し判明しました。優し過ぎる愛子、攻撃的な葉月、それからまだお話を聞いていませんが、恋愛体質の京香、この3人が、今までのわたしの人生で、いつ現れたのかは、だいたい想像できる気がしています。自分らしく生きていけば、別人格たちは現れなくなりますか?」



 そう言うと、宇野は右斜めを向き、う〜んという声のようなため息のようなものを漏らした。


「完全にはいなくならないと思いますし、完全にいなくなる必要もないと思いますよ。むしろ、少しは出てきた方が人間らしいのではないですか。解離性同一性障害というのは、やはり難しい病気ですし、別人格を完全に排除してしまおうとすると、それがまたできないと悩んだり苦しんだりしますから。別人格は有坂さんの一部分なのですから、怒ったりしてもいいし、たまには人に親切にし過ぎて後悔してもいいし、恋愛に失敗したっていいんですから。なんでも完璧にと思わないことが大事ですよ」



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る