其の五 少女、恋に落ちる

 時をさかのぼって、イシュナグが地下の書庫への螺旋階段を降りていた頃。


 ギシュタークの下手くそな笛の音が、例の崖の側で響き渡っていた。


 ビョォオオオオオオオブォオオオオオオ……


 聞くに堪えない音だ。

 とてもとても、楽の音と呼べない。


 青々とした草原の中に、ひょっこり顔を覗かせた岩にギシュタークとティーゲルは並んで腰掛けている。


「だぁかぁらっ、もっと、そっと息を吹き込むんだよ」


「えー、そっと吹いてるつもりなのにぃ」


 喚くように指摘されたギシュタークは、練習用にとわたされた縦笛の吹き口から離した唇を尖らせる。


 楽器が扱える男は、モテる。

 獣人族の常識だ。

 ギシュタークだってモテたい。女性中心の社会である獣人族で、モテない男ほど、辛いものはない。

 翼人族の女たちのように、可愛がられたくない。

 獣人族らしく、たくましく頼りがいのある男としてモテたい。


 フィイイイイフョロロロロロロロロロロ……


「だからぁ、もっと優しくだって」


 ヒュルゥゥゥウウウウウウルゥウウウウ……


「もっと、息を太く」


 ビュゥウウウボォオオオ……


「…………」


 ただ息を吹き込むだけだというのに、どうしてこんなに下手くそなのか。ティーゲルは、頭を抱えた。できれば、耳も塞ぎたい。


「ねぇ。僕、やっぱり向いてないのかなぁ」


 頭を抱えたティーゲルに、ギシュタークは三角の耳をペタンと垂らしてうなだる。


「おう。悪いけど、諦めたほうがいいぜ。明日どっか行っちまうんだろ」


「うん」


 崖に向かって風が吹き抜けた。

 ほんの短い付き合いだとわかっていたのに、昨日始めて知り合った仲とは思えないほど親しくなってしまった。『親友』と言葉にしてしまうと、二人とも別れづらくなるような気がしている。

 適度な距離を計算しての付き合い方を、少年たちはまだ学んでいなかった。


「ねぇ、ティー、ちょっと訊きたいことあるんだけど……」


「んー?」


 水筒の水を飲んでいたティーゲルは、口を袖で拭う。


 さり気なく、さり気なくと、ギシュタークは早くなる心臓に落ち着かせようと言い聞かせる。


「リルアっていう女の人、知らない?」


「……」


 ティーゲルは、すぐに答えなかった。ギシュタークが口にしたリルアが自分が知る女性か、慎重に考えているようだ。


「茜色の翼の人らしいんだけど、生きてたら多分、百歳は超えているはずなんだけど……」


「…………ギーシュ、お前、飛翔館で俺以外の誰かに同じこと訊いて回ったりしてないだろうな」


 二人きりだとわかっているはずなのに、誰にも聞かれたくないように声の調子を下げたティーゲルに、ギシュタークは首を横に振りながら、盗み聞きした通りだったと確信した。ティーゲルは確かにリルアを知っているが、イシュナグがリルアを探しに来たことまでは知らなかったようだ。というよりも、イシュナグが獣人族の要人と思いこんでいる。


「そうか。ならいいんだ。てか、その名前は飛翔館で絶対に口にするなよ。特に、父上に聞かれたら……」


 ティーゲルの体がブルリと震える。


「なんで、ウームルさまに聞かれたら困るの?」


「なんでって、お前。……どこで聞いたか知らないけど、興味本位で確かめたいんだろ?」


「ひゃい?」


 ますますわけが分からなくなって、ギシュタークは首を傾げる。

 ギシュタークがリルアという女のことを知っていて確かめようとしているものだと、ティーゲルは思いこんでいたらしい。彼は舌打ちし一つして、再度あたりに誰も居ないことを確認する。


「だから、リルアが父上の………………」


「えーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」


 ギシュタークの驚きの声が崖の上に響き渡る。

 つぶらな菫色の瞳はこれでも見開かれ、三角の耳も尻尾もピンと立ってしまうほど、ギシュタークには衝撃的な内容だった。


「……あれ? お前、知らなかったとか?」


「…………」


 驚きのあまり固まってしまっているギシュタークの様子に、ティーゲルは余計なことを教えてしまったと頭をかく。


「あー、ギーシュ。今のはなかったことに……できないよな。うん。わかる。俺もそうだったからなぁ」


 ティーゲルのやっちまったなとボヤく声は、ギシュタークに届いてなかった。


 崖の向こうに向かって吹き抜けた風が、ふいに向きを変えた。




 ◆◆◆


「ちょっとぉおおおお! なんなのよっ! このポンコツ!」


 バンバンと、ヤーシャは魔法陣が赤く光る操縦卓を叩いた。


「落ちるんじゃないわよ。ポンコ…………っ! きゃぁああっ、ごめんなさいごめんなさい。ポンコツって言ってごめんなさい」


 ガクンとヤーシャ専用の飛行魔車が傾いて、彼女は慌てて操縦卓を叩くのをやめた。


 すべて、順調だったはず。

 誰でもいいから、崖の上の住人を攫って憎き聖王を呼び出す計画は、計画を立てたヤーシャがびっくりするほど順調だった。

 いつもなら人っ子一人いない崖の近くで、子どもが二人いた時点で、彼女は有頂天になっていた。

 誰の目にも映らない仕様のヤーシャ専用の飛行魔車の攻撃で気絶した獣人族の少年を飛行魔車に乗せ、脅迫状を残したあたりまでは、本当に順調だったはず。


「お願いだから、飛んでよぉおお!!」


 まさかの重量超過。

 当たり前といえば当たり前だ。

 小さなヤーシャ一人乗りとして造られた飛行魔車なのだから、いくら子どもとはいえ二人分の重量に耐えられるわけがなかった。


「もう、ポンコツって言わないからぁああ……っ」


 一度は持ち直したかに見えた飛行魔車は再度大きく揺れたかと思うと、操縦卓の魔法陣の光が消えた。


「〜〜〜〜〜〜〜!」


 グルグルと回転しながら、飛べないヤーシャ専用の飛行魔車は魔の森に墜落する。


「〜〜〜〜〜〜〜!」


 命の危機だと本能が悟り目をつぶった彼女は、ふいに誰かに抱きかかえられたような錯覚を起こす。


 それは、ほんの一瞬の出来事。

 落下が上昇に変わったことに気がついて、ヤーシャが恐る恐るまぶたを押し上げる。


「大丈夫? 僕に掴まってて」


「……」


 それは、ほんの一瞬の出来事。

 自分を抱きかかえて飛行魔車の硝子を突き破って外に飛び出した人質の少年に、ヤーシャは恋に落ちてしまった。

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