36「ここにいますか?」

 エリは暖炉の前で縮こまった。


 濡れたスカートを火に当てながら、手袋を取って両手もかざす。じんわりと熱が伝わってきた。


「濡れたままはいけないわ。着替えはある?」


 迎え入れてくれた婦人がエリの頭に手を伸ばしてくる。「あ」と声をあげたけれど、間に合わない。スカーフを取り去った婦人が顔色を変えた。


「――どうしたの、この髪」


 エリの髪の毛は、男の子のように短かった。腰まであった髪を襟足でバッサリ切ってしまったのだ。


 視線から逃れようとエリは顔をうつむける。すぐにそんな必要はないと思い直して、婦人と目を合わせた。


「売りました」


 かつらや人形の髪の毛を作るために、長い髪の毛は結構な額のお金になる。そのことを知ったとき、迷いに迷ってから床屋で切ってもらった。


 女の髪は長いもの、というのが常識で、そこからはずれることは勇気が必要だった。


 けれど髪はいずれ伸びてくるし、スカーフで隠せる。


 自分の髪が商品になるなら、それを売ってお金を得ることは少しも恥ずかしいことじゃない。紙を売るのも髪を売るのも同じこと――そう考えたのだった。


「そう……マフラーを取って。ケープも。替えの服はある?」


 エリが着ているケープの紐を、婦人がほどきはじめる。その手つきが優しいから、エリは涙ぐんでしまった。


 短い髪の毛を見ても軽蔑する様子はなく、詮索もせず、まず濡れた服を着替えさせようという婦人の態度が胸にしみた。


「いいえ。……ごめんなさい」

「どうして謝るの」


 婦人が眉根を寄せた。穏やかな声でたしなめ、エリの涙をぬぐってくれる。 


 着替えの服も、ドラファンを出たあとに売ってしまった。ほかにも食器や燭台などを売って、お金に換えた。髪の毛を売る前の話だ。


 荷物を軽くしたかったし、トールが残してくれたお金をなるべく使いたくなかったのだ。


 そんなエリを見かねたのか、旅の途中で親切な人がマフラーと手袋を譲ってくれた。それだけではなく、なんとランタンもくれた。


 さすがにこれらを売り飛ばすことはできず、大事に使いながらここまで来たのだ。


「わたしの服を貸してあげる。ちょっと大きいかもしれないけど」


 そう言って婦人は隣の部屋からワンピースを持ってきた。


 知らない人の前で着替えるのは恥ずかしいけれど、婦人の好意だ。断るのは失礼だと思った。


「ありがとうございます」


 着替えてみると、裾を引きずってしまった。袖も少し長いから、腕を下ろすと手がすべて隠れてしまう。


 それでもエリはうれしかった。乾いた服に着替えただけなのに、息を吹き返したような心地がしたのだ。


 部屋の明かりは暖炉の火影だけだ。まわりを見渡すにはそれで十分で、テーブルの上に料理が並んでいることにエリは気づいた。


 この部屋に入ったときからおいしそうな匂いがしていたけれど、夕食を作っていたところなのだろうか。


 婦人はエリが脱いだ服を椅子にかけて、早く乾くようにと暖炉のそばに置いてくれた。


「さ、こちらへ」


 椅子をもうひとつ暖炉の前に持ってきて婦人が言う。すすめられるままに座ったエリの体を毛布でくるむと、部屋を出て行ってしまった。


 神様みたいな人だ、と思った。


 神様という言葉につられて、マザーの面影が頭をよぎった。神様みたいな婦人は、マザーのように優しくて、マザーよりも、やわらかい雰囲気を持っている。


(これから、何をどうすればいいのかな)


 炎の揺らぎをじっと見つめて考えた。とりあえずは、あの親切な婦人にちゃんとお礼を言って、そして質問をしよう。


 しばらくして婦人が戻ってきた。手には湯気の立つカップを持っている。スプーンも添えて渡してくれた。


「どうぞ。温まるわよ」

「ありがとうございます」


 湯気が顔に当たる。シナモンの香りがふわっとただよった。口をつけると予想以上に熱くて、エリは何度も息を吹きかけてから飲んだ。


「おいしい」


 甘い味が口の中にひろがる。喉を通った熱が、おなかに落ちていくのがよくわかった。


「よかった」


 婦人が微笑んだ。細められた目が、どことなく寂しそうだった。


「ちょっと準備が間に合わなくて、いつもと違う味になっちゃったの。あなたの口に合ってよかったわ」


 カップの底に沈んでいるレーズンをスプーンですくったエリは、あ、と思った。


「きょうは、冬至祭ですか」

「そうよ。気がつかなかったの?」


 意外そうな婦人の顔を呆然と眺めた。視線は婦人をすり抜けて、背後の食卓をとらえる。


 木製の、がっしりとしたテーブルだ。並んでいる料理はただの夕食ではなく、冬至祭のための夕食なのだ。


 このあと家族で食べるのかもしれない。こんな日にやってきた自分は、なんて間の悪い客だろうか。


(そっか、だから……)


 どこの店も閉まっていて、外に人の姿がまったくなかったのは、そういうわけだったのだ。


 来る途中で家の戸口に飾りつけがされているのを見たけれど、あれも家主の趣味ではなく冬至祭だから、だったのかもしれない。


 エリはカップに目を落とした。


 これはグルッグだ。温めた果実酒の中にシナモンやアーモンドなどを加えた飲み物で、女子修道院では冬至祭のときに作っていた。ここでも冬至祭のときに飲むものなのだろう。


(……冬至祭ということは)


 ドラファンを出発してから、およそ、ひと月になるということだ。


(もうそんなに経ってしまったなんて) 


 不安と焦りで胸の内側が塗りつぶされていく。トールはどうしているのだろう。どこにいるのだろう。本当にまた会えるのだろうか。


「わたしと一緒ね。わたしも、人に言われるまで冬至祭を忘れていたの」


 婦人はにっこりと笑い、腰を屈めてエリと目の高さを揃えた。


「ロルフを捜しているの?」


 頭の中を見透かされた気がして、息が止まりそうになった。


 婦人の薄青い瞳を見つめ返す。ぬくもりのある目だ。そう思ったら、また涙がこみあげてきた。


「はい、そうです。知っていますか? あの、わたし、お昼前にこの町に来て、最初に見つけたおうちでロルフ・クヌッセンさんのおうちを聞いて、それで」

「お昼前に来た?」


 婦人の目がまるくなった。


「もう四時を過ぎてるのよ? いったい何時間、歩きつづけたの?」

「朝早くに出発したから……ええっと……あの、迷っちゃったんです。この町、道がよくわからなくて、別の道に行っちゃったみたいで、それで……」


 婦人が溜め息をついた。いたわるような顔をしてエリの肩に手を置く。毛布の上からでもわかる、優しい重みだった。


 気が焦って何から説明すればいいのかわからなくなっていたエリは、その手の静けさに口を閉じた。


 婦人がエリの目をまっすぐ覗きこんでくる。化粧っ気のない、痩せた頬がふるえるように動いて、婦人は告げた。


「ここは確かにロルフ・クヌッセンの家です。わたしはロルフの母、カレン・クヌッセン。あなたのお名前は?」


 それを聞いたとたん、エリの胸は熱くなった。視界がにじんで、息を吸うのも苦しい。それでもどうにか、質問に答えた。


「エリ・アーベルです」


 ああ、とカレンは吐息を漏らし、そっとエリの頭を抱き寄せた。


 手に持ったカップから中身をこぼしそうになって、あわててエリは身をよじる。カレンも体を離し、両手でエリの顔を包みこんだ。


「来てくれたのね」


 感極まったような声でカレンが言う。


 エリにはその姿がぼやけてよく見えなかった。こらえきれずにこぼれた涙が、エリの頬とカレンの指を濡らした。


「トールは、ここにいますか?」

「トール? ああ……そう名乗ってたみたいね。それもわたしの息子よ。トールっていうのは、ロルフのお兄ちゃんの名前なの。ロルフが産まれる前に死んでしまったんだけれど、どうしてその名前を使ったのか……」


 瞬きをすると、目の前に憂い顔のカレンがいた。どこか遠くを見ていた目が、エリの視線に気づいて、ふっと細められる。


「ロルフに会いに来てくれてありがとう。でも、あの子はここにいないのよ」


 嫌な予感がした。


(トールのお母さんがここにいるってことは、トールは……)


 カレンの指がエリの目元をぬぐってくれる。そうして今度はカップを持つ手を包みこんできた。エリを気遣うような、控えめなぬくもりが伝わってくる。


「ハリンにいるわ」

「ぶじ、ですか」


 エリの顔をじっと見つめたまま、カレンは微笑んでうなずいた。


 エリはあえぐように息を吐く。


(よかった)


 ハリンなら地図で見たことがある。ここからもうひとつ先の町だ。


(間違ってなかった)


 ロッベンを目指してよかった。もう少しだ。もう少しで、会いに行ける。


「話をしたいけど、冷めないうちにグルッグを。体を温めないとね」


 エリの両手を持ち上げるようにしてカレンが促す。


 エリは声を出す余裕がなかった。うなずきだけを返してレーズンを口に含む。体がぽかぽかしてきた。すべて飲み干すころには涙も止まってくれた。


「あなたのこと、少し聞いているわ。ロルフと一緒にいたって。だけど――どこだったかしら。どこかの町で別れてきたって」

「ドラファン」

「そう、そんな名前の町」

「トールは――ロルフさんは、急にいなくなっちゃったんです」

「何も言わずに?」

「いいえ、置き手紙があって、でも理由は書いてなくて。だけど、きっとゲオルクさんが来たからだって思って、それで」

「落ち着いて。ゆっくり話しましょう」


 からっぽになったカップをエリの手から取って、カレンは立ち上がった。テーブルに近づき、蝋燭に火をともす。まだ手をつけられないままの料理がやわらかく照らされた。


 物欲しげな顔になっていないだろうか。エリは空腹を隠すために食卓から目をそらした。


 蝋燭が加わって明るさの増した居間をぐるりと見まわす。エリがトールと過ごしたアパートの部屋にくらべると、倍以上の広さがあった。


 暖炉前の空間はゆとりがあるし、食卓は五人か六人ぐらいは囲める大きさだし、隅には肘掛け椅子が寄せられている。


 それでもまだ余裕を持って人とすれ違うことができる広さだった。わずか一歩でベッドとソファに辿り着けた部屋とは大違いだ。


 出入り口の壁燭台にも火をともしたカレンは、隅にあった椅子を暖炉の前に持ってきて並べた。


 腰を下ろすカレンを見たとき、「あ」とつぶやいてエリは立ち上がった。毛布が肩から滑り落ちる。


 カレンが怪訝そうに見上げてきた。かまわず暖炉に近づき、そばで乾かしてもらっている荷物をまさぐった。


 背負ってきた袋は雪で濡れていたけれど、中にしみこんではいないようだ。目当ての物をつかみ出して、急いで振り向く。


「これ、ロルフさんがわたしに置いていってくれたんですけど」


 差し出した小袋を見て、カレンの目がたちまち潤んだ。


「この、Rの刺繍。これって、ロルフ、の頭文字ですか? もしかして、この刺繍をしたのは……」


 カレンの右手が小袋に伸びる。左手で口元を覆って小さく何度もうなずいた。


「ええ、そうよ。わたしが縫ったの」


 涙ぐむカレンを見つめながら、エリはトールのことを考えていた。


 ここにトールがいない理由を、カレンがこんなにも寂しそうに泣いている理由を、考えていた。


 まるで火を吹きつけられたような、じりじりとした熱いものがこみあげてくる。トールに会いたかった。今すぐ、会いたかった。


 冬至祭の始まりを告げる鐘が聞こえてきた。


 カレンが涙をぬぐい、「お祈りをしなくちゃね」と微笑む。


 エリは息を整え、聖歌を歌った。声がよく伸びなかったけれど、真心をこめて歌った。


 エリがゲオルクと再会したのは三日後、冬至祭が終わってからのことだった。

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