18 カレンが求める未来
カレンはヘンドリーの腕を引いた。
とたんに激しく振り払われて、突き飛ばされるように転んでしまった。衝撃で目の前が白くなる。
テーブルの角に頭をぶつけてしまったらしい。でも痛みはなかった。
「母さん!」
ロルフの悲鳴が聞こえた。
大丈夫よ、と言うために顔を上げようとした。でもできなかった。痛みはないのに、頭がくらくらして思うように動かせない。
床が見えた。テーブルの脚が見えた。体を支える自分の手が見えた。そこに落ちる赤い液体も見えた。
(血? わたしは怪我をしたの?)
「カレン……」
困惑したようなヘンドリーの声が聞こえた。肩に触れてくる手の感触が、久しぶりのように思えた。うれしかった。ヘンドリーに心配されることがうれしかった。
だって、この優しさがヘンドリーだもの。わたしが好きになった人だもの。
だいじょうぶよ、いっしょにこれからのことを考えましょうね。娘さんのことも、ちゃんと話し合いましょうね。もっと頼ってほしいの。ひとりで抱えこまないで、後悔も不満もぜんぶ話してほしいのよ。
そういう思いが一瞬で胸の中を駆け抜けた。自分に起きていることがよくわからなくて、不安で、喋る余裕がなかった。
床が血で汚れていく。目眩がする。
頭を押さえると手がべっとりと赤くなった。さっきまでは平気だったのに、今は痛い。頭の痛みが強くなっていく。
「もうあんた死んでよ。どっか行ってくれ」
冷たい声が耳を打った。
(ロルフ? いまのはロルフが言ったの?)
流れ落ちた血のかわりに、焦りが体の中を満たしていくようだった。大きな手の感触が消える。ヘンドリーが離れる。
(だめ。いかないでヘンドリー)
ロルフが近くでしゃがんだ。不安と目眩に耐えて、カレンは顔をめぐらせた。
「ロルフ」
名前を呼ぶと、ロルフはびっくりしたような顔で見つめ返してきた。
そんなに傷がひどいのだろうか。ますます不安になったけれど、ヘンドリーのことも心配だ。姿を探すと、台所へ向かったのが見えた。
(待って)
「母さん、怪我の手当てしないと」
立ち上がろうとしたらふらついてしまって、ロルフに止められた。カレンはすがるような気持ちで息子を見つめた。
「ヘンドリーは病気なのよ。お願い、様子を見に行って」
病気なのだと強く言えば、いくらヘンドリーに愛想を尽かしていてもロルフは動いてくれるはず。カレンはそう期待した。
ロルフはためらう顔をした。
けれど、やっぱりロルフは優しい子だ。カレンの思ったとおり、ヘンドリーを追ってくれた。
テーブルの脚にもたれかかったカレンは、傷口を押さえて目眩が消えるのを待った。座っているのにふらふらして、誰かに頭を揺さぶられているようだ。
台所のほうから何か話し声が聞こえてくる。よく聞き取れないけれど、言い争っている感じではなかった。
くれぐれもヘンドリーを責めないで、と願った。責めれば、ヘンドリーはますます荒れる。ロルフもそのことは知っているはずだ。
手についた血を眺めた。気分が悪い。このまま血が止まらなかったらどうしよう。まさか、死んでしまうなんてことは。
(だいじょうぶ、これくらいじゃ死なないわ)
しばらくじっとしていた。
痛みは引かないけれど、ひどくなっているわけではない。揺さぶられているような不快感も遠のいてきた。これなら歩けるかもしれない。
ヘンドリーとロルフのことが気になる。でもその前に、まず鏡を見たいと思った。
テーブルを支えにしながら立ち上がった。血がついている手のひらで触らないようにと、そんなことを気にするくらいの余裕もあった。
居間とつながっている寝室に入り、化粧台の鏡に顔を映す。赤黒く染まった襟元や、血に濡れた耳を見たら、ぞっとしてしまった。
でもよく見ると、首についた血は乾きはじめていたし、新しい血がだらだらと流れている様子もない。思っていたほどの怪我ではなさそうだ。
傷口を探したけれど、血と髪の毛でうまく見えなかった。ひとまず手拭き布で傷口のあたりを押さえて、居間に戻った。
二人のことが気がかりだった。
だいぶ時が経っているように思う。ロルフは怒りを収めてくれただろうか。ヘンドリーは、反省してくれているだろうか。
台所に向かう途中で、変なにおいがしてきた。生臭いのだ。食べ物の生臭さではない。自分の血のにおいだろうかと思った。
嫌な気分のまま台所に入ると、しゃがみこんでいるロルフがいた。その膝元で、ヘンドリーが体を折り曲げるようにして倒れている。何か赤い汁をこぼしたみたいに、床が真っ赤に濡れていた。
カレンは悲鳴をあげた。ロルフが振り向いて、体をねじる。
ヘンドリーのおなかが真っ赤に染まっていた。床の赤い液体は、血溜まりだ。ヘンドリーの血だ。
無我夢中で駆け寄った。早くお医者に診せないと血が流れつづけると思った。でもこんな状態で歩いてもらうことはできない。
持っていた手拭き布をヘンドリーの傷口にあてがってみた。みるみる真っ赤に濡れて、とても止血にはならない。
早く診療所に連れて行かないと、ヘンドリーが死んでしまう。
何かないかと顔をめぐらせたとき、包丁が目に飛びこんできた。立ち上がったロルフが、赤く濡れた包丁を握っていたのだ。
(それは何?)
カレンの目の前で、ロルフが包丁を落とした。石の床に当たる、硬い音がした。
「俺がやったんだ」
凍りついたような顔でロルフがつぶやいた。
何があったの、と尋ねようとしたとき、うめき声がした。
荒い呼吸を繰り返していたヘンドリーが、定まらぬ目をカレンのほうに向ける。涙が一筋、ヘンドリーの目頭から鼻の上を通って落ちていた。
「ヘンドリー」
カレンの呼びかけに応えようとしているのか、ヘンドリーの唇が動いている。どんなに小さい声でも聴き取ろうと、カレンは耳を寄せた。
ヘンドリーは懸命に何かを言おうとしていたようだけれど、言葉を発する前に、呼吸が途絶えた。
「ヘンドリー?」
不気味な静けさが訪れた。
「ヘンドリー、返事をして」
抱き寄せた体からは、命の気配がしなかった。からっぽになってしまった。
「どうして?」
信じたくなくて、カレンは首を横に振った。あまりにも急すぎる。どうしてこんなことになってしまったのか。何が起こったのか。
「ごめん」
ロルフが小さな声で謝った。誰に対して? 何に対して?
「どこに行くの」
背を向けて歩き出す息子を呼び止めた。ロルフは返事をしなかった。まるでいつもどおりの歩き方で、カレンの視界から消えてしまった。
ヘンドリーを横たえて、のろのろと立ち上がる。もういちど唇が動かないかと見つめてみたけれど、変化はなかった。
(どうしよう……どうしてこんなことに)
ロルフを追って、二階に上がった。足が宙に浮いているようだ。
開け放たれた部屋では、ロルフが荷造りをしていた。血で汚れた服をバッグに詰めている。手には乱暴に血を拭き取った跡があった。
「ほんとにロルフなの? ロルフが刺したの?」
「そうだよ」
肯定しないでロルフ。
「どうして?」
「嫌いだった。我慢できなかった」
人を刺したというのに、ロルフの目も声も静かだった。静かに怒っていた。
「俺は逃げるよ。捕まりたくない」
ああ、どうしたらいいの。
ヘンドリーを刺したのがロルフなら、警察に連れて行くべきなんじゃないの?
(だけど、殺人なら死刑になっちゃう)
ヘンドリーを失って、さらにロルフまで失うなんて耐えられない。
(どうしてなのロルフ)
どうしてこんなことをしてしまったの。ヘンドリーは優しい人よ。本当のヘンドリーを知ればロルフだって。
ヘンドリーは会いたかっただけなのよ、娘さんに。会って許してもらいたかったのよ。その機会はこれから作れるはずだったのに。
「ロルフ……ヘンドリーは……ヘンドリーには娘がいるの」
「それが?」
ロルフの声は冷たかった。こんなにとげとげしい声を出す子だったろうか。
「どうせ迎えに行くつもりがなかったんだから、死んだって一緒だろ」
「そうじゃないわ。そうじゃない」
「じゃあ何」
どう言えばいいのだろう。
ロルフは怒っている。これまでロルフはヘンドリーの暴力に耐えてきた。一年だ。あんなに優しかった子が、こんなふうに睨むようになるには十分な時間だ。
ヘンドリーは元に戻れるはずだった、そのために娘さんを迎えに行くつもりだった、手紙だけでももらってくるつもりだった。
そんなことを言っても、もうロルフは取り返しのつかないことをしてしまった。今さら話し合ってヘンドリーを理解してもらうなんて、そんな時間なんて。
「もう行くよ。人が来たら面倒だから。母さんもちゃんと怪我、診てもらってね」
ロルフが荷物を肩にかけて階段を下りていく。
止めたほうがいいのだろうか。罪を犯した息子に、母としてどうしてやるのがいいのだろう。捕まれば死ぬ、本人は逃げるつもりで、わたしはロルフを。
「ロルフ。ごめんなさい。――これを」
玄関を出ようとしていたロルフに、お金が入った袋を渡した。
いつかロルフが結婚するとき、もしくは急にまとまったお金が必要になったときにあげるつもりで、ずっと貯めてきたものだ。これだけはヘンドリーに使われないように、必死に隠して守っていた。
正しい母は、息子を止めるべきなのだろう。
けれどカレンはロルフに死んでほしくなかった。罪を犯してしまっても、ロルフは永遠に自分の子だから。ロルフがこんな罪を犯したのは、カレンのせいでもあるのだから。
ロルフはずっと我慢していた。母親ならば、もっとロルフに目をかけてあげるべきだった。あるいはキンネル行きをもっと早く決断できていればよかったのかもしれない。
だめな父親とだめな母親。親が至らないせいで子供に罪を犯させてしまった。
(ごめんなさい、ロルフ)
ロルフは小さな声でお礼を言ってくれた。
その顔に少し血がついていることに気づいて、カレンは腰に巻いたエプロンでぬぐってあげた。川で洗うよ、とロルフはつぶやいた。
夕暮れどきの庭は薄青い闇につつまれていた。
この時間ならもう外に出ている人はいないはずだ。きっと誰にも見つからない。そうであってほしい。
(どうか、体だけは元気で。ああ誰か、あの子を助けてあげてください)
姿が見えなくなるまで見送ったあと、台所に戻った。
カレンは、ヘンドリーに近づけなかった。血溜まりが二人を隔てるようにひろがっている。床に落ちた包丁も血溜まりの中にあったし、手拭き布も血溜まりに沈んでいた。
(ヘンドリー、ごめんなさい)
わたしのせいだ。わたしだけがこうなることを防げたはずなのに。
(ごめんなさい)
頭の中がぐちゃぐちゃしていた。目眩がして、自分がちゃんと立っているのかわからなかった。気持ちの悪い浮遊感に、吐き気がした。
そのあとの記憶はない。カレンは白いベッドの中で目をさました。
お店が閉まっていることに気づいた隣家のおばさんが、家まで様子を見に来てくれたらしい。
門は開けっ放しで、呼びかけても返事がないし、玄関ドアの鍵もかかっていない。だから心配して家の中に入ったのだと聞いた。
診療所のベッドで警察に質問された。何があったのかと。
ひとつひとつを思い出しながら、カレンは話した。
ヘンドリーがカレンを突き飛ばし、台所に消えたこと。カレンは自分の血を見て怒りと悲しみがわいたこと。またお酒を探しに行ったのだろうと思って、ヘンドリーを追いかけて、包丁で刺したこと。そして気を失った。
息子はどうした、と訊かれた。
わからないと答えた。
以前からヘンドリーを激しく罵り、もうこの家にいたくないと言っていたから、きっと家出したのだろう。夕食は一緒に食べた。それからいつ出て行ったのかは知らない。そう答えた。
ヘンドリーの葬儀はしめやかに行われた。
町長さんが取り仕切ってくれたようだ。家の中も近所の人たちがきれいにしてくれたらしい。ヘンドリーが最後に飲み干していたお酒の空き瓶は、処分したと言われた。
ありがとうございました、とカレンは言った。それしか言えなかった。
診療所から警察署に移され、そこから馬車で隣町に連れて来られた。この地方の罪人はみんなここに運ばれる。裁判所があるからだ。
ロルフの行方は知れない。
刑事さんが捜してくれているようだけれど、見つけないでいいと心から思う。
女囚たちがともに過ごす鉄格子の中で、カレンは死刑執行の日を待っている。
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