03 ゲオルクの使命

 隣町のロッベンからハリン警察署にカレンが移送されてきた。


 発見されたときにはもう頭部の出血は止まっていたらしく、ゲオルクと対面したときには包帯もしていなかった。


「はじめまして、カレンさん。ゲオルク・ランゲです」


 カレンはゲオルクと目を合わせて、口元だけで笑った。


 やつれてはいるが、やわらかい雰囲気の女性だ。とても人を刺したとは思えない、細い体つきだった。


 茶色い髪をうなじでひとつに束ねているさまも、まじめでおとなしい印象を受ける。薄い青の瞳にも凶暴な光は浮かんでいない。むしろ不安そうで、ゲオルクの視線から逃げるようにうつむいてしまった。


 カレンと向かい合って腰を下ろした。


 薄暗く狭い部屋の隅で、記録係が待機している。ふたつの机に置かれたオイルランプが三人の顔を照らし出した。


 ここにガス灯が入るという話を聞いたが、まだ先なんだな、とゲオルクは少しがっかりした。ガス灯ならランプより明るいらしいから、わずかな表情の変化を観察するのも楽だろうに。


「あなたが旦那さんを刺したというのは、事実ですか?」

「ええ」


 カレンは小刻みにうなずきながら答えた。あいかわらず視線は机に落ちたままだ。


「なぜ?」


 会話を書きとめる音が室内に響く。カレンは静かに話しはじめた。


「困ってたんです。ヘンドリーは酒飲みで、お店のお金も勝手にくすねてお酒を買いに行くんです。うちは裕福じゃないから、やめてほしかった。注意したら、逆上されて、わたしは怪我を」


 頭に手を当てて、ちらりとゲオルクを見る。ゲオルクは無言で笑窪を作り、続きを促した。カレンはまた視線を落とす。


「怖かったんです。殺されると思った。だからわたしは、無我夢中でヘンドリーを刺したんです」

「以前から殺そうと思っていた?」

「いいえ」


 即答したあと、恐れるようにカレンは顎を引いた。


「では殺意はなかったと? 身を守るための、とっさの行動だったと?」


 何かを言おうとカレンは口を開きかけた。けれどそのまま顔を横の壁に向けて、まるで諦めるかのようにうなずいた。


「……はい」


 ゲオルクはわざと黙った。


 沈黙のなかでカレンはそわそわとしはじめ、ほつれた髪を耳にかけなおし、折り曲げた指の関節を唇に押し当てた。そして息を吸いながら顔を上げ、付け足すように告げた。


「あの、でも、嫌いでした。殺すつもりはなかったけど、酔ったあの人は、嫌いだったんです」


 ゲオルクが返事をせずに見つめていると、カレンは戸惑った様子でうつむいた。


 殺意がなかった、それを主張して少しでも刑を軽くしてもらおう。そう考えたかとも思ったが、どうもその様子は感じられない。自白したときから今も変わらず、すべて観念しているのか。あるいは――


「刺したとき、旦那さんはどんな様子でしたか」

「どうって……酔ってたから」

「暴れたり、逃げようとしたり、とかは?」

「いいえ。その場でうずくまりました」

「まったく抵抗されなかったんですか?」

「ええ……あの、酔ってたから、足元もふらついてて、体当たりしたら、刺しちゃって……」

「刺してから、旦那さんはどれくらいで亡くなったかわかりますか」

「どれくらいって」

「刺してすぐに亡くなりましたか」


 カレンの目が泳ぐ。ややあって、


「少しは、生きていました」

「旦那さんが動かなくなるまでのあいだ、あなたは何をしていたんですか?」


 カレンは答えなかった。唇に指を押しつけて、うつむいている。


「殺意がなかったのなら、助けようとするんじゃないかと思って。動かなくなるまでのあいだ、何をしていましたか?」

「……気が、動転してて」


 か細い声だった。伏せたまつげの奥で、おののくように光が揺れたのをゲオルクは見逃さなかった。


「なるほど」


 再び沈黙が落ちた。カレンはうつむいたまま、じっとしている。


 カレンの頭の中で、いったいどんな光景が繰り広げられているのだろう。そこでどんな言葉が交わされ、どんな感情が動いているのだろう。


「ところでカレンさん。あなたには息子さんがいますね?」

「ええ」


 カレンはわずかに顔を上げた。その視線はゲオルクの顎のあたりにとどまっている。


「おいくつですか?」

「息子は……ロルフは十八歳です」

「来年は成人ですね。お子さんはひとりだけ?」

「いいえ。ロルフは次男で、長男は二歳で死んでしまいました」

「それは、お気の毒です」


 カレンが目を上げる。短く黙禱したゲオルクと目が合うと、感謝を伝えるように微笑を浮かべた。ランプの灯りが目の中に映りこんで、まるで星がきらめきをこぼすように光る。


 泣き疲れたあとに無理に微笑むような、悲しみと諦めと、捨てきれぬ愛情とが綯い交ぜになったような笑顔だった。


 ゲオルクはハッと気を取り直して話を続ける。見とれている場合ではない。


「あなたは再婚しているそうですが、二人とも前の旦那さんのお子さんですか?」

「ええ、そのとおりです」

「ロルフくんは、どこにいるんですか?」

「さあ……」


 カレンが再び目をそらす。壁を見ればそこに答えが書いてあるかのように。けれど壁に映っているのは頼りない影だけだ。


「知らないんですか」

「家出したんです。都会に行きたいって言ってたから、たぶん大きい町に向かったんだと思います。あの子は、ヘンドリーの酒癖の悪さを嫌ってたから」

「なるほど」


 相槌を打ちながら、違和感に気づいた。


(あの子は、と言ったか)


 あの子は、ヘンドリーの酒癖の悪さを嫌っていた。カレンはそう言った。


 しかし、カレンも嫌っていたんじゃなかったか? 酔ったあの人は嫌いだった、さっき確かにそう言った。それなら、あの子も、と言うのではないだろうか。


(考えすぎか?)


「カレンさんは、ロルフくんに会いたいですか?」

「そりゃ……」


 カレンが顔をゆがめた。悲しそうに、悲しさに耐えるように。それきり黙ってしまった。


「ヘンドリーさんが亡くなられたことを、知らせたいですか」


 唇を引き結び、視線をそらし、カレンは返事をしない。


「いつ、ロルフくんが出て行ったかわかりますか。カレンさんとヘンドリーさんが口論になる前か、後か」


 カレンは小さく、しかしはっきりと頭を左右に振った。


 その後もいくつか質問したが、報告書に書いてある内容を補強するだけにとどまった。






 翌日、ゲオルクはロッベンに向かった。


 事件の起きた町であり、カレンの生まれ育った町だ。林業と農業が主体の、のどかな田舎町だった。


 まずカレンの自宅を訪ね、中の様子を見てまわった。


 カレンが頭を打ったというテーブルは木製の頑丈なもので、大人が六人くらい座れそうな大きさだった。


 設置されている椅子は三脚しかなかったが、部屋の隅に予備の椅子が寄せてあるから、家族以外の人を呼んで食事をすることもあったのかもしれない。


 ためしにテーブルを押してみた。


 ひとりでは持ち上げることも難しいほど重い。テーブルの角は直角だから、ここに頭をぶつければ怪我をしてしまうのも納得できる。


 目立たないが、床には小さな血痕があった。おそらくカレンのものだ。拭き取るときに見落としてしまったのだろう。


 居間の隣が台所だ。扉を開けると足元にサンダルが置かれていた。居間は木の床だが、台所の床は石を敷き詰めてある。サンダルを借りて足を踏み入れた。


 細長い造りになっていて、奥には薪をくべて使う竈、壁際には食材を調理するための台と、椅子と水甕があった。


 調理台の横には食器が収められた棚があり、反対側の壁には調理器具がぶら下がっている。その上にも棚がしつらえられていて、鍋などが置かれていた。


 ヘンドリーが血溜まりを作っていたのはこの棚の下だ。


 床の石の色が、棚の下と竈の周辺とでは異なっている。棚の下の石が薄い赤茶色なのは、拭き取っても落としきれなかった血の色だろうと想像がついた。


 この場所で包丁を握り、振り返るカレンを思い浮かべた。


 ヘンドリーが壁を背にして倒れるためには、お互いの位置が入れ替わる必要がある。


 仮に、ヘンドリーが奥の竈のほうにいたとすれば不自然ではないかもしれない。迫ってくる妻から逃げようと移動し、棚の前に来たときに刺されたのだと考えればいい。


 それともヘンドリーは、壁を背にして向かってくる妻の手から包丁を奪い取ろうとしたのだろうか。その揉み合いのなかで立ち位置が入れ替わったのだろうか。


 そんなことは、カレンは証言していない。酔ってふらついた夫に体当たりした、抵抗はされなかった、夫は逃げようともしなかった。こう言っているのだ。


 だとすれば、やはりおかしい。


 ゲオルクは振り返った。倒れていたヘンドリーと同じように壁を背にする。目の前は窓だ。外の光がさしこんで、調理台や椅子を照らしている。


 ヘンドリーは何のためにここに来たのだろう。


(酒を探しに? 酒はどこだ?)


 食器棚の下側には戸がついている。中には調味料が入っていたが、酒は見当たらない。


 竈の横に扉があった。開けてみると、裏庭に出てしまった。前庭よりも広く、井戸と薪小屋と、もうひとつ小屋がある。


 鍵がかかっていなかったので、扉を開けて小屋の中を覗いた。どうやら食料庫のようだ。けれどそこにも酒はなかった。


 サンダルを元の場所に置いて、二階に上がった。ロルフの部屋はすぐに見つかった。


 書き物机と椅子、クローゼットと小さな本棚が目についた。本棚には聖書と子供向けの歴史書、著名人の旅行記などが収められている。


 聖書はきれいなものだったが、歴史書や旅行記は何度も読んだ形跡があった。そういうものが好きだったのだろう。


 ぐるりと見まわしてみても散らかった様子がなく、どこもきれいに整頓されていた。本人がそういう性格なのか、あるいはカレンが片づけたのか、そこまではわからない。


 ひととおり調べたあと、最後に墓地へ向かった。カレンの自宅から歩いて二十分ほどの距離だ。


「ヘンドリー・アーベル」と刻まれた墓石の前で、ゲオルクは立ち尽くした。考えていたのだ。これからの自分の行動を。


 カレンが自白を撤回するか、新たな人物が犯人として名乗り出るかしないかぎり、カレンの死刑は免れない。


 問いかけた。墓石の下で眠る遺体に。天に召された魂に。

 

(あなたを殺したのは誰ですか?)


 もしもそれがロルフだとしたら、カレンの自白は母親の愛そのものだ。それを呑んでやるのも人情だとゲオルクは思う。


 ふと、土の匂いがした。


 ただそれだけだったのに、胸を締めつけられた。胸、あるいは心臓を。こうして物を考え生きている自分と、すでに死んでしまった彼とのあいだに横たわる沈黙を吸った。


 目を閉じると、カレンの悲しげな微笑が闇に浮かんだ。


 ヘンドリーの墓の周囲には、カレンの身内の墓もあった。前の旦那の墓、その母親の墓、そしてひときわ小さな墓石は二歳で亡くなったという長男の墓だろう。


 ゲオルクはそれらに目を走らせたあと、再びヘンドリーの墓石を見つめた。


(人情だって?)


 それを言うなら、自分のかわりに母親が死刑になるという悲劇を防いでやるのが人情じゃないか?――もしもロルフが真犯人なら、の話だが。


(ロルフ・クヌッセンとはどういう少年だ?)


 まずそれを知るべきだろう。彼が犯人でなかったとしても、捜し出して両親の身に起こった悲劇を伝えてやらねばならない。


(そうだ。そうするべきだ)


 乾いた風が吹いていた。まだぬくもりのある風だったが、色づきはじめた木々が秋の気配を伝えている。


 この国の夏は短い。春と秋はもっと短い。最も長く暗い冬が、すぐそこまで来ていた。

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