1.透明な森

 夜明けまで降っていた雪が辺りを白く塗りつぶしていた。今日は晴れているが、日光は木々に遮られてここまで届かない。冬も終わりに近付く第二月。今年の集大成といった寒さで、冷えた空気に体ごとぎゅっと押しつぶされるようだった。

 ニナは男を先導して森の中を進んでいた。道はないに等しい。わずかに雪がへこんでいるだけだ。歩きなれている彼女でなければわからないだろう。

 男は突然ニナの家にやってきた。知らない人だった。そもそも村人がニナの家を訪ねることは、今では滅多にないのだ。

 埃をかぶった分厚いコート。目深にかぶった帽子の下から浅黒い肌が見える。とても背が高く、がっしりとした体つきは、森の仕事をしている村の男たちに引けを取らない。大きな布袋を背負っているから旅行者だろうけれど、普通の旅人とは違うと感じた。

 怪訝な顔で見上げるニナに、ラルゴと名乗った男は、エヌの家まで案内してほしいと言った。

「君が知っていると聞いたんだが」

 誰から何を聞かされたのか、想像できないこともない。実際、ラルゴはニナの名前やエヌとの関係について尋ねなかった。

 ニナはあえて何も聞かず、ラルゴの依頼を受けることにして家を出たのだ。


 大陸の西岸に位置するサントランド王国。その北の国境にある山地のふもとに、モニエビッケ村はあった。

 エヌの家は村の西側に広がる森の中にある。やることがなくて毎日通っていたけれど、悪天候が続いて出かけられず、ニナも森に入るのは数日ぶりだった。

 森の中は静かだ。時折、枝から雪が落ちる音が響く。

 村の中も静まり返っていたのをニナは思い出す。森に入るまで誰一人すれ違うことはなかったが、人の気配や視線は感じられ、ひどく不快だった。沈黙の下に抑え込まれたいろいろな感情が、村全体を満たしている気がした。反対に、森の空気は澄んでいて、こちらの静寂は心地良かった。

 雪の中では一歩一歩が重たい。途中からラルゴが前を歩き、ニナは進む方向を教えながら彼の足跡をなぞった。特に話もせず、二人は黙々と歩いた。

 ラルゴの息があがらないのはよく鍛えているからに違いない。兵士か用心棒か、よくわからないけれど、戦うのに慣れていそうだ。前を歩く彼の背中で、視界が遮られて落ち着かない。ニナはラルゴに気付かれないように、手袋をそっと外した。

 しばらく行くと木が途切れた広い場所に出た。薄暗い森から型抜きしたようにそこだけ明るい。真ん中に家の残骸があった。ほとんど雪に埋もれているが、燃え残った黒い柱が三本突き出している。半年以上経った今でも焦げ臭い。

「ここがエヌの家」

 残骸を指差してニナは言う。ラルゴは敷地を見渡した。

「エヌはここにはいないのか?」

「いるように見える?」

「見えんな」

 ラルゴはゆっくり首を振って、こちらを振り向いた。

「俺は人を探している。エヌに会うのはそのためだ」

 聞いてもいないのに彼は語り出した。低い、力強い声だ。

「俺はどうしてもあの方を探さねばならない。悪いが」

 ラルゴが言い終わる前に、ニナは後ろに大きく跳んで距離を取った。

 コートの下の剣を抜き、ラルゴがニナに切りかかる。

 ニナは着地と同時に、左手の人差し指で雪の上に弧を描いた。その線は赤い。血だ。

 ラルゴの振り下ろした剣は赤い弧の上で止まる。見えない壁ができていた。

 ここはエヌとニナがずっと暮らしていた場所だ。魔法陣を描かなくてもある程度は魔法が使えるように整えられている。

 ラルゴの帽子が落ちる。露わになった額から右目にかけて大きな傷があった。そのせいで右目は開かないのだろう。唯一開いた左目は驚きに満ちていた。

「あんた騙されたんだよ」

 ニナは嘲笑った。止めていた息を吐くと、白く広がる。三つ編みに束ねた長い髪を後ろに払う。薄い色合いの金髪は魔法の残滓でかすかな光沢を放っていた。

「どうせ、私を殺せばエヌの居場所を教えてやるって言われたんでしょ」

 ラルゴは何も答えなかったが、ニナにはそれが肯定に思えた。

「エヌはもうどこにもいない。夏が来る前に死んだ」

「まさか。そんなことは……」

「誰も教えてくれなかった?」

 ニナの問いにラルゴは低く唸った。ニナは顔を歪めて笑う。すっと立ち上がり、

「魔女エヌは死んだ」

 宣言するように繰り返した。

「私が成長するまでの安全を条件に、村に降りかかるはずの厄災を引き受けた」

 村の人たちからしたら、それは交換条件というよりも、呪いだった。魔法に詳しくなくても、エヌが力のある魔女だということは皆が知っていたから。

「私に何かしたら、魔女エヌに呪われるって皆思ってる。私が怖いんだ」

 今はもう、用事もないのにニナに声をかける村人はいない。逆にニナが話しかければ無視することはないが、皆強張った顔をしていた。エヌは村からは一線を引いていたけれど、ニナは村の子どもと遊ぶこともあった。それなのに、今まで仲が良かった友だちも、親切だった大人も、変わってしまった。そのうちニナは自分から話しかけるのをやめた。

 彼らの顔を思い浮かべ、ニナは想像する。

「私がこの村を憎んでいて、いつかエヌの復讐をしようとするかもしれない。その前にどうにかしたい。でも、エヌの呪いがあるから手を出せない。だから、何も知らない誰か……外から来たあんたにやらせようとした」

 ニナは爪がラルゴに見えるように左手を胸の前に掲げる。先ほど血で弧を描いたのに傷はない。代わりに、人差し指の爪に赤黒い点があった。爪より二回りほど小さい。それはしるしだった。

「私は魔女エヌの娘、魔女ニナ」

 ラルゴが息を飲むのがわかった。ニナも魔女だと聞いていなかったのだろう。

 そう考えてから、ふと思いつく。もしかしたら、村の人たちも知らないのかもしれない。

 というのも、ニナが魔女として名乗ったのはこれが初めてだったからだ。こんなことがなければ名乗る機会は一生来なかったかもしれない。

「君も魔女なのか? いや、それより、エヌの娘?」

 そちらもかと、ニナは少し呆れる。

「知らなかったの? それとも、嘘を教えられた?」

 ラルゴは顔をしかめる。

「娘だと知ってたらこんな話には乗らなかっただろうな。娘を殺して居場所を教えてもらうなど……そんなことしたら、エヌに会えても依頼を受けてもらえるわけがない」

 それはどうだろうか。例えばとても難しい魔法が要るとか、興味を持つ内容であれば、エヌは引き受けたかもしれない。エヌは魔法の研究が一番で、ニナのことは、いつも二の次だった。

「魔女ニナ……」

 そうつぶやき、ラルゴは雪の上の赤い弧を見る。信じるに足る材料はあったはずだ。

 ニナは黙っていた。ニナを魔女だと認めたら、彼はどうするだろう。

 それほど長く待たずに、彼は剣を鞘に収めた。おもむろに頭を下げる。

「すまない」

 ニナは目を丸くした。大人の男に謝られたことなど今までなかった。どうしていいかわからず、目を逸らす。地面の雪が陽光を受けて、きらきらして眩しかった。

「もういいよ」

 小声で言うと、ラルゴは顔を上げた。

「虫のいい話だが、よければ協力してほしい」

 彼は腰をかがめ、ひどく真剣な顔でニナを覗き込む。左目がまっすぐにニナを見つめる。閉じられたままの右目もこちらを見つめているのだろう。力を感じる。魔力とは違う。意志のある力だ。

 ニナは少したじろいだ。

 この人が、辺境のちっぽけな村の人間に騙されたなんて信じられない。そんなにエヌのことを知りたかったのだろうか。人を殺しても、だなんてよほどのことなのだろう。

「魔女の力が必要なんだ」

 そう繰り返すラルゴの濃い茶色の瞳が、真摯にニナに向けられている。

 こんな形で、魔女として求められるとは思いもしなかった。エヌの手伝いではなく、自分への依頼。胸の奥が熱くなる。うれしいのかもしれない。

 ニナは言葉を選んで答える。

「人探しの占いはできるよ。エヌより正確じゃないかもしれないけど、それでもいいなら」

「ああ、構わない」

 ニナは焼け焦げた家をちらりと見た。

「占いが終わったら、私を殺す?」

 ラルゴは即座に否定した。

「まさか! そんなことする理由はもうない」

 ラルゴの言葉は、すとんと収まるように自然に信じられた。

 ラルゴは、目的を達するためには、ニナを殺すことなんて何とも思わないだろう。さっきは不意打ちで対抗できたけれど、普通に戦って勝てるとは思えない。でも、意味もなく人を傷つけることはしなそうだった。真っ直ぐに向けられた剣と、謝罪。殺されそうになったせいで逆に信じられるのがおかしい。

「このまま村に戻ったら、あんたひどい目に遭うかもよ?」

「そうだな……面倒だから、このまま森を抜けるか」

 ラルゴは体を起こし遠くを見る。森の向こうのその先まで見通すような、強い視線だった。

 ニナの視線は木々に阻まれる。ニナも同じ年頃の少女に比べたら背が高いほうだけれど、ラルゴくらい背が高ければ違う景色が見えるのだろうか。ニナの灰色の瞳に映るのは、いつもの森だ。

「何が見えるの?」

 ニナは思わずそう口にした。答えが欲しかったわけではないのに、ラルゴは腕組みをしてニナを見下ろし、しばらく思案した。

「俺と一緒に来るか?」

「え?」

「この村で暮らしにくいのなら、別の場所で暮らせばいい。占いの礼金代わりにこの村から連れ出してやろう」

 予想もしない言葉だった。確かに、無事なままでニナが村に戻ったら、今まで以上に恐れられ疎まれることは容易に想像できた。考えるだけで息苦しくなる。

「この村から、出る……?」

「もしかして、この村にいないといけない決まりになっているのか?」

「そんな決まりはない……と思う」

 エヌと村との取り決めをきちんと把握しているわけではなかったから、自信はなかったけれど、ニナは首を振る。

 エヌは村に降りかかる厄災を引き受けるため、大掛かりな魔法陣を敷き、家ごと自身を燃やした。昨年の第六月のことだった。ニナはその少し前から村に家を借りていて、エヌとは一緒に暮らしていなかった。

 エヌが引き受けた厄災がどういうものだったのか、ニナは知らない。魔法の準備をしている間、エヌはニナを遠ざけていたから、どんな魔法だったのかもわからない。ニナが駆け付けたときには、もう燃え尽きていて、魔法の痕跡はなくなっていた。

 エヌは密かに村の代表たちと取り決め、ニナが交換条件――エヌの呪いについて知らされたのは火事の後だった。

 本当に厄災なんてあったのだろうか。

 厄災はニナを村に押し付ける口実で、エヌはただこの世界に飽きてしまっただけなのではないだろうか。

 焼け焦げたエヌの家の残骸を見るたびに、ニナは、置いてけぼりにされたのだという思いを強めていたのだ。

 気持ちが沈みそうになって、ニナは顔を上げる。今はそのことを考えるときではない。

「別の場所で暮らす……」

 ラルゴの言ったことを繰り返す。

 ニナが戸惑ったのは、村から出るなど考えたこともなかったからだ。

 ニナは、生まれてから十二年、村とエヌの家の周囲から出たことは一度もなく、森の向こうなんて想像もつかなかった。そんなはずはないとわかっているが、どこまでも行っても森が続いているような気さえする。

 一度意識すると、今まではどうして気付かなかったんだろうと不思議に思う。村の外、森の外があるなんて当たり前だ。ニナがまだ行ったことがない場所がある。それはどんな景色なんだろう。

「どうする? 無理にとは言わないが」

「行く! 連れて行ってほしい」

 ニナは勢いよく答えた。村から出ていく選択肢があるなら、それを選ばない理由は一つもなかった。

 初対面の人について行くという不安は、ラルゴに対しては感じない。全く警戒していないと言えば嘘になるけれど、今のところ、ラルゴはニナに協力を求めている。ニナの占いの力だと、探し人が近くにいるならともかく、そうでなければ対象に近付きながら何度か占う必要があるから、森を出てもしばらくは、売り飛ばされるとか捨て置かれるといったことはないと思う。

 というのは、全て後付けで、ラルゴに返事をした瞬間は、外に出たいという気持ちだけしかなかった。

 ニナの灰色の瞳が輝く。久しぶりに本当の笑顔になれた気がした。

 ラルゴは一瞬驚いてから、破顔した。

「やっと子どもらしい顔になったな」

「何それ」

 首を傾げながら、ニナが跨ぐと、赤い弧は蒸発するようにすっと消えた。

「できるだけ早くここを離れた方がいいな」

 ラルゴが村の方を振り返って言う。ニナはうなずいた。

「このまま家に戻らなくても大丈夫か?」

「うん、大丈夫」

 ニナの大事な物は、ほとんどがエヌの家と一緒に燃えてしまった。唯一燃え残った物は、ずっと身に付けている。ニナは胸元に手をやって確かめた。

 それは、エヌのとっておきのティーカップのかけらだった。くすみのない白いカップは魔力を帯びていたのだろう。見付けたときには、葉か羽のような細長い不思議な形になっていた。縁はきちんと加工されたもののようになめらかで、ティーカップだったとは思えない。爪で軽く弾くと金属のような高い音が鳴った。それに穴を開け皮紐を通して、ニナはいつも首にかけていた。

「森を抜けるとして、だいたいの方角は決めてから出発したいんだが、わかるか?」

「とりあえず占うよ」

「ああ。頼む。……何か手伝うことは?」

「ない」

 ニナは平らな場所を選んで、拾った枝を使って雪に小さな魔法陣を描いた。初めての、魔女として依頼を受けて使う魔法だ。浮き立ってしまいそうな気持ちを、深く息を吐いて沈める。

 ラルゴは質問することもなく、黙って見ていた。彼は以前にも魔女に接したことがあるのかもしれない。

 準備が整うと、陣を挟んで反対側にラルゴを立たせ、ニナは左手を差し出した。

「爪のしるしを指で押して」

 ラルゴは神妙にうなずき、片膝をついてニナの手を取る。固い指がニナの爪を押すとしるしが広がった。水を含んだ綿を握ったように、熱を帯びた指先から血が溢れる。わずかにひるんだラルゴを目で促すと、彼は再び力を加えた。

「探している人の名前は?」

「リーン」

 ニナに問われ、ラルゴが名前を言う。

 ニナの血がぽたりと魔法陣の中央に落ちた。白い雪に赤い点が滲む。魔法陣がかすかに光った。雪の白を背景にした金色の光は、ニナの髪の色に似ている。三つ編みにした毛先が空気を孕んで膨らんだ。

「リーン? 女の人だよね。下の名前は?」

「下の名前は……」

 ラルゴは口ごもった。そのときに彼はリーンのことを考えただろう。森の匂いや焼け跡の焦げ臭さとは違う風が頬をかすめたのに気付き、ニナはすぐに言い直す。

「言えないことは言わなくていい」

 ニナはラルゴの目を見つめた。左目は、短く刈り込んだ髪と同じ、濃い茶色。森の木肌の色だ。開かない右目は、おそらくリーンに関わりがあると、ニナは思った。

「ラルゴにとって、リーンは大事な人?」

「ああ。とても」

「そういえば、あの方って言ったよね」

「リーン様は、俺の主人だ」

「そう……リーン様のことをずっと考えていて」

 ニナは、自分にしか見えない道標に意識を向けた。

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