冬祭
いかほどの日を過ごしたでしょうか。
雲間に顔をのぞかせる月が、金の光をはらんでいき、円く大きくふくらみきった夜。冬の祭りが、おごそかにとり行われました。
枝垂れ柳の枝に月長石のちいさな粒をいくつもいくつも連ねた飾りが、建物の、庭の、そこここに挿されてあります。粒はそれぞれに月を宿し、ずっしりと実った稲穂のように、重く首を垂れてさがります。
神殿の扉はあけ放たれ、広々とした前庭では、金色味を帯びた雪が明るく輝いておりました。
神聖なその雪を踏みしめて、ツヤツヤとした白い絹のご衣装をまとわれたワカヒさまが、神官たちを引き連れ、人の頭ほどある大きな杯を捧げ持ち、階をあがってこられました。
わたくしは、耳に心地よく響くお声で祭文が読み上げられるのを、御柱の傍らでじっと聞いておりました。ワカヒさまのお声は、男の方でも女の方でもないような、人の臭いを感じさせない、不思議な神々しさをまとって聞こえました。
さようでございます。わたくしは、この時ふたたび鎖で身を繋がれておりました。御柱の傍ら、そこだけを切り取るように、青い布を床に重ね敷き設けられた席に、罪の獣として、昂然と前を向き、座して。
わたくしは神殿の持ちもの。祭儀の折には他の御物と同じく、必ずそこにあらねばならないものなのです。
「シラユキよ、ゆるしておくれ」
その日、祭儀のお支度に入られる前に、ワカヒさまはわたくしのもとへ立ち寄られておっしゃいました。
「そなたをもう一度繋がねばならぬ」
ワカヒさまは、今にも泣き出しそうな、なさけないお顔をしていらっしゃいました。
「他に手段はないのかと調べて回ったが……祭儀の折に、罪を受けとめるものが、どうしても必要となるのだ。どうか……」
ゆるしておくれと、ワカヒさまはわたくしの耳にささやかれます。話されるうちにこらえきれなくなったのでしょう、目には涙を浮かべておられました。
わたくしは、両腕でぎゅうと抱きしめられながら、心のうちでため息をつきました。
やはり。どれほど忘れていたとしても、やはり、最後にはこうなるのだと。
わかっておりました。わたくしは、罪の獣。世のすべての罪や穢れを受けとめて飲みこむことを定められたいきもの。生まれついてのいやしいいきものであるわたくしには、他の生き方など、あるはずがないのです。
けれど。
「ましろな雪のいきものよ。どうか、お前の力で、私たちを救っておくれ」
ワカヒさまは、ひとつぶ、わたくしの上に涙をこぼされました。
「シラユキよ。私の、貴い獣よ――」
ああ……。
ああ、この時の歓喜を。
この時わたくしを包んだ喩えようもない歓喜を、どのようにお伝えすればあなたさまにもおわかりいただけるでしょうか。
わたくしは、それまでずっと、罪を受けとめねばならぬのは、わたくしがいやしいいきものだからだとばかり思っておりました。人に似た形であっても人にはなれぬわたくしは、生まれつき劣ったいきものであるから、罰として罪を受けとめ続けることと定められているとばかり、思い込んでいたのです。
『――貴い獣』
そうなのです。ワカヒさまのお言葉でわたくしは気が付いたのです。わたくしは、劣った、いやしいいきものではありませんでした。この身は、ましろな雪のごとく、清く、貴いのです。
罪を受けとめるのは、わたくしが貴いいきものだから。人を救える、希有ないきものであるから。わたくしは、罪の獣。不自由に縛られて、人のなぐさみにあうことを定められて生きる、神に選ばれ捧げられた獣。そのことをむしろ誇ってよいのだと、わたくしはこの時、はじめて知ったのです。
わたくしは、なによりも貴いいきものとして、立派に役目を果たしてみせようと心に決め、ワカヒさまに頬をすりよせました。
冷えた空を月がゆっくりと歩いてまいります。固くしまった雪は光を浴び、金色に輝いて、変わらずそこに積もってあります。
やがてワカヒさまの読み上げられる祭文に、神官たちの唱和が加わりました。重く首を垂れた穂を揺らす風のような低いとどろきが、胸の底をざわつかせます。
うねり、響きを変えた祭文が先へ進むうちに、わたくしのからだはどんどん重くなっていき、まるで、ぶ厚い石の板を背に積み上げられるような、あるいはいく本もの鎖でミシミシとあばらを締めあげられるような、息苦しく、骨のきしむ感覚にさいなまれました。
苦しさをのがそうとしきりに息を吐くせいで、喉がかれます。凍えた夜気を吸い込むたびに、焼けるような痛みが走り抜けていきます。
重みは、増していきます。容赦することなくわたくしを締めあげて、増していきます。
わたくしはのしかかる重みに耐えかねて、とうとう敷布の上にぐったりとうつ伏してしまいました。
わたくしは、気を失っていたのでしょう。あるいは、目をあけていながらに、心だけをどこかに飛ばしてしまっていたのかもしれません。次に瞬いた時には、儀式のすべてが終わっており、青布にわずかに散った血の痕が、大役を果たせた証としてその場に残っておりました。
いいえ。わたくしがどのように思い、どのように感じたかなど、そのようなことには意味がありません。先に申しました通り、さ中のことはほとんど憶えておりません。口外することも許されておりませんけれど、ごくごくわずかにですが、その間に行われたことで憶えていることや、お話しできることも、あるにはあるのです。
うつ伏したままぐったりと動けなくなったわたくしは、神官たちの手に引き起こされました。たてがみをつかまれてされるがままにだらしなく開いた口へ大杯があてがわれ、生あたたかくブヨブヨとした黒いものが流しこまれます。鼻の奥に絡みつくような臭いと、日が経った魚のような嫌な味のする、定まった形を持たないそれは、いく百ものちいさな刃を束ねたものででもあるかのように、口や喉の肉を切り裂き、ひどい痛みを与えながら、からだの奥へ落ちていきました。
さようでございます。これこそがわたくしに課せられた役目。大杯に満たされていたのは、人の世の罪過にして汚濁。
豊穣を祈り神なる雪を招くために、儀式によって地から取りのぞかれ、ひとつに凝らせた穢れを飲み干した時から。
わたくしは。この罪の獣は。……力を得る代わりに、声を、失ったのでございます。
「私を愚弄しおったのか。さようなことになるとは、申さなかったではないか」
翌昼、御柱の傍のつめたい床で、いつものようにわたくしがまどろんでおりますと、ワカヒさまのお声が聞こえてまいりました。お声はどこか焦ったようなご様子で、神官たちと言い争いながら早足に近づいていらっしゃいます。
「医師にも薬師にもどうにもできぬと申すか。――シラユキ」
間近な気配に薄目をあけたところで、わたくしは、いきなりワカヒさまに抱きしめられました。
「シラユキ、シラユキ。ああ、むごいことをした。かようなことになると知っておれば!」
半ば悲鳴のようなお声が、わたくしの耳を叩きました。ワカヒさまはひどく後悔していらっしゃるご様子で、わたくしの顔を覗きこまれます。
知っていれば? 知っていればどうだとおっしゃるのでしょうか。わたくしは、まどろみから覚めたばかりの頭でぼんやりと考えます。知っていれば、儀式に加わらせなかったとでも? いいえ、それでも結局は同じことになったでしょう。罪を受ける獣の存在なくしては、かの儀式は成り立たないのですから。
わたくしは、ワカヒさまのお顔を見上げて、にっこりと笑ってみせました。
負い目に思われる必要などないのです。これは証なのですから。罪の獣のつとめを立派に果たせたという確かな印なのですから。わたくしは、喜び、誇りにこそ思えども、悲しんでなどおりません。ましてや、ワカヒさまをお恨みするようなことは、毛筋ほどにも。
ワカヒさまは、わずかに鼻白んだご様子で、腕をほどかれました。床からはいあがる冷気が、ふたたびわたくしをとらえます。けれど、その程度のことは、もはやまったく気になりませんでした。誇り高く、貴い罪の獣である、わたくしには。
ほどなくして、ワカヒさまは神殿よりお発ちになりました。祭儀を無事終えられたので、帝の元へ戻られたのです。
神官たちの噂によれば、ワカヒさまはわたくしを伴に連れたいとお望みになったそうですが、もとよりそれはかなわぬこと。罪の獣たるわたくしは、変わらず御柱に繋がれて神殿に残されたのでございます。
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