第三十話 冒険

 六合目に達したところで、早々に休憩を取ることになった。

 ブルドーザ登山道はクロスカブで走るには過酷ながら、まだ勾配も緩く、小熊と礼子の体力には余裕がある。

 礼子は今にも七合目まで走り出したそうな様子で、小熊としてもあちこちで一休みして景色を楽しむピクニックに来た積もりでは無かったが、キャタピラ車に乗って撮影しているスタッフが先にバテたらしい。

 

 二人でヘルメットを取ると、撮影スタッフが寄ってきて、小熊と礼子の髪型と気持ち程度のメイクを直した後、霧吹きで顔に水を吹き付けてから言う。

「ヘルメットを被って、もう一度取ってください」

 言われた通り被りなおしたヘルメットを脱ぐ。偽物の汗が飛び散った。スタッフは満足した様子でOKサインを出す。これも仕事のうち。顔に吹き付けた水が体温を奪いながら乾いていった。

 

 礼子がスマホで見た標高は、まだ高山病を起こすような数値では無いが。普段は都内で働いている雑誌社スタッフのうちの何人かは、前の仕事の関係で時間ギリギリに駆けつけたところ、猛暑の山麓から急激に気温の下がる山の冷気に対応できず、天然のクーラーで冷房病になったような顔をしている。

 小熊と礼子にも一時間の大休止が伝えられた。スタッフは頂上付近で使う予定だった防寒服を着こんでいる。キャタピラ車を運転する山小屋の主人がお茶を淹れているので、礼子もお茶を貰いに行ったが、小熊は皆の輪から外れ、クロスカブのシートに座って携帯を取り出した。

 

 アンテナは通話可能の表示になっている。もしかしてスマホは使えても自分のネット非対応な安物ガラケーは繋がらないのではないかと思ったが、そんなわけないと苦笑しつつアドレスに入っている番号を発信する。相手はすぐに出た。

「小熊さんですか?礼子ちゃんから聞きました。今日、富士山を登るそうですね」

 夏休みが始まって以来聞いていなかった椎の声。小熊は携帯に向かって話す。

「受験勉強中にごめん。さっき登り始めたところ」

 一般受験で大学を目指すため、部屋を自ら監獄のように締め切り、娯楽の物々を全部妹の部屋に移して勉強をしているという椎は、話す相手に飢えたように畳みかけてくる。

「私に電話してくれて嬉しいです。もし不安なら、私でよければお話を」

 通話にタイムラグがあったのか、小熊は椎が喋り終わる前に話し始めた。

「慧海は居るかな?替わってほしい」


 椎が喉を詰まらせたような声が聞こえてきた。それから、ふくれたようないじけたような声。

「いいですけどぉ、ちょうど家に居ますし!」

 ドアが開く音が聞こえた。椎が学校では聞くことのない怒鳴るような声で、隣室に居るらしき妹を呼ぶ声が聞こえてくる。少しの間があって、ドアが開閉される音。

 携帯の音質では足音まで聞こえなかったが、小熊には慧海が長身を折り曲げながら椎の部屋に入ってくる様が見えるようだった。電話を受け取った音というか気配が伝わってくる。

「なにかご用でしょうか?」

 丁寧で明快な声。小熊はこの慧海の声を聞いただけで、電話をかけた用の大半を果たしたような気分になった。

「これからカブで富士山を登る。そこで何でもいいので助言が欲しい」


 慧海は特に言いよどむことなく返答した。

「私はあの山にはまだ登っていません。お教え出来ることはありません」

 小熊も慧海にそんな登山愛好家のブログに書かれているような内容のお喋りは期待していない。それより聞きたかったことがある。

「前から聞きたかったけど、慧海はどうして好きこのんで危ないところに行きたがるの?」

 短い沈黙。小熊には慧海が、逆に何でそんなわかりきった事を聞くのかと言わんばかりのばかりの視線で、見返してくる様が見えたような気がした。

「小熊さんにお聞きします。森に風が吹いて一斉に落ちる枯れ葉を見た時、葉の一つ一つの形や動き、その葉脈まではっきりと見えたことはありますか?」

「無い」 

「私はあります」


 小熊は自分の頭がとても悪いのかと思った。礼子や椎と話していてもそんな気分になったことは無い。

 たぶん物事のことわりは、それを知っている人間に丁寧に噛み砕いて教えてもらわないと判らないものなんだろう。だから慧海に電話をかけた。

「それを見るため、自分がそういう状態になるために、冒険をしているの?」

「そうです。私に感覚を最大限に拡大してくれる場所は、たぶん過酷な中にある」

 電話越しに聞こえる短い吐息。椎が驚くような声、もしかして慧海は、笑っているんだろうか。

「小熊さんは、そのスーパーカブというバイクに乗っていて、私の感じたものを見たことはありますか?」

 小熊は自分のクロスカブを見て、それから山頂へと繋がるブルドーザ登山道を見上げながら言った。

「まだ無い。でも、これからそうなるかもしれない」


 慧海がまた笑っているような息を吐いた。さっきから携帯越しに「お姉ちゃんに替わって、お姉ちゃんに替わって」という声が聞こえてくる。姉には逆らえないらしき慧海は電話を渡す前に言った。

「お気をつけて。先ほど私が言ったような状況で、人はよく死にます」

 縁起でもないことを言うとは思ったが、小熊も慧海に釣られて笑顔になる。

「ありがとう。慧海と話してわかった。人はそう簡単に死なないって」

 携帯を奪い取る気配がした後、慧海に替わって椎が電話口に出たが、なんて言っていいのか迷っている様子。ただ自分の携帯に電話をかけてきておいて、慧海と傍目には親密にも聞こえるような内容の話をしている小熊への不満は伝わってくる。

 小熊は椎が受験勉強の大事な時期に、つまらない事に気をとられないようにするには、何て言うべきか少し考えた。

「受験、頑張って。一緒に東京の大学生になれるのを楽しみにしている」

 椎は低く掠れた、それでいて不機嫌そうでもない吐息混じりに「もう…」と声を漏らした。

「早く帰ってきてください、お願い」

 椎はそれだけ言って電話を切った。

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