第二十八話 クロスカブ

 撮影スタッフに呼ばれるより早く、小熊と礼子は二台のクロスカブに歩み寄った。

 これから二人は、高性能なオフロードバイクにしか登れないという、富士山ブルドーザ登山道に挑むこととなる。

 ホンダから提供を受けたというほぼ新車のクロスカブは、小熊と礼子にとって初めて乗るバイクでは無かった。赤と黄色のクロスカブは数日前に小熊と礼子の元に届けられ、それから今日まで二人で南アルプスの林道を走りまくった。

 新車で貸与されたクロスカブは、既にこの企画を行うバイク雑誌の編集部内で数百kmの初期馴らし運転を終えていたが、今まで何度か重ねた打ち合わせの中で、小熊は実際に富士山に登る自分たち自身による試走が絶対に必要と主張した。

 

 この企画を担当し、小熊たちとの交渉役を負っている女性編集者は「壊さないでくださいよ」と言った。

 小熊は何度目かの打ち合わせの場となった甲府のホテル駐車場で、一年強乗ってまだ傷らしき物のついていない自分のカブを指しながら言った。

「今まで壊していません」

 礼子は資料として渡されたクロスカブの取り扱い説明書を表紙だけ見て脇に放り出し、実際にバイクに乗った経験の乏しそうな編集者に言う。

「馴らしで壊す馬鹿は居ませんよ」


 小熊は礼子が今乗っているハンターカブを買って間もない頃、ガードレールに車体をぶつけて曲がるテクニックを実際にやってみようとした結果、ステップを支柱にひっかけて、馴らし中のハンターカブを側溝に落っことしたことについては黙っていた。

 本人はそれもテクニックのうちで車体の三次元的な位置が少しズレただけと言い張っていたが、結果としてハンターカブはスカチューンといわれる車体から不要な装備を剥ぎ取るドレスアップチューンを強制的に実行させられることになり、ハンターカブ購入で寂しくなった財布で吹っ飛んだミラーや曲がったマフラーを買いなおす羽目になった礼子は、しばらくの間ガソリン代にも事欠くほど窮乏していた。

 バイク乗りが馬鹿だと言われるのは、こんな奴が悪目立ちするからに違いない。小熊は目の前の女性編集者を見た。前回のライディングジャケットが似合わないと思ったのか、今日はカジュアルなスーツ姿。高学歴で高収入そうな女性。自分もそんな人種になりたいと思いながら。今の自分が着ている袖のすりきれたライディングジャケットを見た。出かける時はこればっかり着ている自分はまだ馬鹿の側なんだろう。


 礼子はプレス鉄板を溶接して作られたハンターカブの車体を掌で叩いた、それからプラスティック製のクロスカブの車体を爪先で蹴りながら言う。

「ブルドーザ登山道は去年、わたしの郵政カブを全損させた。だからクロスカブもそうなる」

 一般的な原付二種バイクより高価なクロスカブを、いろんな条件つきでメーカーから借り出しらしき女性編集者は頭を抱えながら、タブレットに入った車両保険の書類を見直していた。

 困った様子の女性編集者に助け舟を出す積もりで、小熊は言う。

「このカブに傷をつけず返す方法はあります。現地まで行って登ってるフリだけして写真に撮って、実際の登頂は天候とか理由をつけて出来ませんでしたってことにすればいい」

 女性編集者は首を横に振った。

「達成されないチャレンジには誰も見向きをしません。それは記事の評価に直結します」

 小熊がこの仕事の話を聞いたときは、いいアルバイトだと思ったが、もしかしてそれは勘違いで、少々の金を渡され、雑誌の人気取りのためにあの山で死んでこいと言われているのかと思い始めた。

 経験者である礼子が一緒であることも、彼女がそういう挑戦を嬉々として行う人間であることを考えると、命綱どころか命取りになりそうだが、とりあえず今は必要な金を稼ぐという目的と、大事な金を失わないための用心を優先させた。

 結局、企画撮影中の車体破損には、小熊と礼子は責を負わないという条件を付けさせられた女性編集者は、出来るだけお手柔らかにお願いしますと繰り返し念を押した。

 

 煩雑な事前準備の末に訪れた撮影当日。編集部のバンで富士山須走五合目まで移動し、カブ同様にメーカーから貸し出されたライディングウェアに着替えた小熊と礼子は、これから富士山に登るクロスカブに跨った。

 撮影スタッフが寄ってきて、立ち位置から乗り方にまで細かく注文をつける。二人がクロスカブで山登りする姿は雑誌記事に写真が掲載されるだけではなく、雑誌社が配信する動画番組にも収録されるらしい。

 なんだか堅苦しいが、それも仕事と割り切って言われた通りのポーズを取りながら、小熊は黄色いクロスカブのエンジンをセルボタンで始動させる。自宅近辺で試乗していた時から、このクロスカブは110ccのエンジンパワーだけでなく、セルで始動させられるのが便利だと思った。

 礼子は赤いクロスカブに乗った。登頂する姿だけでなく普段の小熊や礼子が自分のカブに乗る姿も雑誌に掲載される。礼子の乗っている赤いハンターカブに合わせた赤いクロスカブ。 小熊の緑色のスーパーカブと同じ緑のクロスカブというものは用意して貰えなかった。メーカーが標準色として設定していないという理由だけど、たぶん自分は礼子のオマケなんだろう。


 クロスカブをキック始動させようとしている礼子が、スタッフにセルで始動してくださいと指示され、登頂前で気が立っているらしき彼女は食ってかかっている。

「わたしはセルを使わない」

 礼子は手足に怪我でもしていない限りキックや押しがけでカブを始動させている。走るのに必要な電力が失われるとの事だが、小熊の知る限りバイクはエンジンさえ回っていれば必要な電力は発電され供給される。ただし、いつもどこかが壊れている礼子のカブは発電機等の電装部品もその限りではなく、ハンターカブは通常のカブより部品の入手に時間がかかるためなのか、礼子はよく壊れっぱなしのまま乗っている。

「礼子」

 小熊から咎められた礼子は、渋々といった感じでクロスカブをセル始動させ、ブルドーザ登山道の入り口へと向かった。登山道の利用許可やスタッフの拘束時間等の理由で、撮影は慌しく進む。


 撮影スタッフが登山道で物資を運ぶキャタピラ車の荷台に乗り込んだ。運転しているのは、去年礼子がバイトしていた山小屋の主人。

 小熊も礼子も先ほど撮影スタッフと顔合わせ的な挨拶をしたが、撮影に協力してくれるという山小屋の主人が現れた時は、礼子は他のスタッフよりもずっと丁寧な挨拶をしていた。

 徒歩の登山道とは異なる、暗褐色の石礫が敷き詰められた地面を、小熊は借り物のモトクロスブーツで踏みしめた。山の冷気を吸った口中が乾いてくる。毎日この道で物資輸送の手伝いをしていた礼子は、慣れたものといった感じで、一刻も早く走り出したそうにしている。

 先行したキャタピラ車が撮影の準備を終え、小熊と礼子のヘルメットに付けられたスピーカーから、女性編集者の声が聞こえてきた。

「あの旗竿の位置まで走ってください。ゆっくり」

 礼子が小熊にハンドサインで合図した後、クロスカブで走り出す。小熊もギアを一速に入れてスロットルを回した。

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