第十五話 おじさん

 小熊と礼子が教室に入ると、やはり椎はもう来ていた。

 三年に進級して以来、一年生として入学した妹に付きっきりで遅れがちだった椎は、やっと妹離れしたらしい。

 そう思って椎の席へと近づいていった小熊は、教室に人の輪が出来ていることに気づいた。

 礼子みたいな野次馬根性とは無縁な小熊が、女子生徒が密集し騒いている辺りを見るでもなく見てみたところ、その正体はすぐにわかった。

 人の輪の中心に居た、他の女子生徒より頭ひとつ高い女子が、周りに群がる女子をかきわけるようにして小熊のところまで近づいてくる。

「おはようございます」

 爽やかな笑顔もお辞儀もなく、無表情で軽く手を上げる挨拶をしたのは、慧海。

 昨日まで妹の教室までついていっていた椎は、今日は妹を自分の教室まで連れてきたらしい。

 

 椎は胸を張りながら言う。

「慧海ちゃんはやっと一人で学校に行けるようになったんですよ」

 慧海は姉の言葉に照れたり引け目を感じている様子は無かったが、小熊の顔をチラっと見て言い訳をするように言った。

「私は一人には慣れている。でも椎が許してくれなかった」

 席から立ちあがった椎は横に来た慧海の背をバンバン叩く。座ったままでは手が届かない。

「もーそんな事いってるからクラスで孤立しちゃうんだよ!」


 椎の言葉に反し、さっきまで慧海を質問攻めにしていた同級生の女子が遠巻きに慧海を見つめている。長身で整った容姿、それに加え無頼で無愛想。女子にもてるタイプかもしれないと小熊は思った。

 それを裏付けるように、教室の入り口にはすでに慧海のお迎えらしき一年生女子が、三年生の教室に入ることをためらいつつこっちを見ている。小熊が一年生の教室に行った時に見かけた、慧海を取り囲んでいた女子生徒。

 周りの女子たちの視線に気づいた椎は、慧海を取られまいとするかのように、自分の横に引き寄せた。慧海もごく自然に、自分のみぞおちくらいの上背しかない姉を守るように、体の前に抱え込んでいる。 

 姉と妹。これではどっちが高校に一人で来られるようになったんだかわからない。

 

 予鈴が鳴り、慧海は同級生女子に囲まれながら自分の教室に帰っていった。椎があまりにも名残惜しそうに慧海の去った後の廊下を見つめているので、小熊は今朝気づいた、椎のリトルカブに起きた変化について聞きそびれた。

 午前の授業が終わり、昼食の時間が始まる。弁当を持って駐輪場に集まったのは、小熊と礼子、椎と慧海、昨日と同じ顔ぶれ。

 小熊は朝に炊いたメスティン飯盒のご飯に、缶詰の中骨入りサーモンを乗せた昼食。少し前に礼子と行った倒産品の即売会で大量の缶詰を買ったため、自ずと弁当はそればかりになる。

 礼子は朝に椎の両親が営んでいるベーカリーで買った、全粒粉パンとコールドビーフのサンドイッチ。椎は毎朝自分で作っているというパスタ。今日はボンゴレロッソ。

 昨日はバターで練った麦焦がし粉なんていう奇怪なものを食べていた慧海の昼食は、幾らか常識的なものだった。慧海はなにかの葉らしき緑色の包みから焼きおにぎりを出した。


 小熊の視線に気づいた慧海がおにぎりを差し出してくる。

「一口」

 焼きおにぎりというものをしばらく作っていなかった小熊は、興味を持って差し出しされた焼きおにぎりを一口食べる。次の瞬間、未知の味が口中に広がった。

 茶色い外見から醤油味と思いきや、生臭いというか奇妙な匂いと味。一口目には反射的に吐き出しそうぬなったが、慧海が目の前で見ていることを思い、我慢して食べていると、だんだん生臭さが口中に馴染んでくる。悪くないともいっていい味。興味を惹かれた小熊は慧海に聞いてみた。

「これは?」

「ニョクナムというベトナムの魚醤油に漬けた握り飯です」

 もう一口どうぞというように差し出されたニョクナムの焼きおにぎりを一つ全部食べてしまった。お返しにサーモンのご飯をあげようとしたが、箸を持っていない様子なので直接食べさせてあげた。

 ニョクナムと聞いた礼子が「わたしもー!」と欲しがったが、慧海は「明日も作ってくる」とだけ答え、礼子が差し出したビーフサンドイッチには見向きもしない。椎は小熊と慧海のやりとりを見て、少し不機嫌そうにアサリのパスタを食べていた。


 昼食の合間に、小熊は椎のリトルカブの後部を指しながら聞いた。

「これは?」

 椎は後部キャリア上に乗せられたボックスを誇らしげに撫でながら答える。

「小熊さんがくれた箱、気に入らなかったわけじゃなかったんですが、カバーがあるともっとよくなるかなと思って」

 礼子がカバーとして使われている帆布製トートバッグのジッパーに触れながら言う。

「LLbeanなんてシブい趣味じゃない」

「エルベ・シャプリエとどっちにしようか迷ったんだけど、家にこれがあったから」

 ブランドに疎い小熊も偶然その名前は知っていた。失踪した小熊の母が、テレビでシャプリエのバッグをファッションアイテムとして使いこなすタレントを見て言ったことを、思わず繰り返す。

「シャプリエはヨーロッパじゃオバサンの使うただの買い物袋」


 椎が少し渋い顔でトートバッグを指しながら言った。生成り地に水色のライン。椎が下着に選ぶことの多い色。

「ママがこれを見て同じこと言ってました。LLbeanなんてアメリカじゃオジサンの使うものだって」

 せっかく自分で選んだボックスカバーに、少し興ざめした様子を窺わせた椎に、礼子が決定的な追い討ちになることを言った。

「カブもそうじゃない?」

 椎も言った本人の礼子もショックを受けている様子なので、小熊は礼子のハンターカブと椎のリトルカブを指差しながら言った。

「カブはオジサンの乗るもの」

 それから自分自身を指して言う。

「私たちも乗る」 

 

 カブの話では蚊帳の外だと思われた慧海が話に割り込んできた。

「このバッグは私のものだった、椎が欲しいというのであげた」

 姉妹の居ない小熊にはわからなかったが、姉というのはどの家でも暴君らしい。特に椎は強引に奪い取る姉の技と、泣き落とす妹の技が両方使える。

「何でこんなバッグを持っていたの?」

 小熊が見る限り、自らの身体と装備を用いたサバイバルに執心している慧海は大荷物とは無縁なタイプに思えた。今着ているものこそ我が家という類の少女に、ミカン箱が入りそうな帆布バッグはミスマッチだった。

 慧海は姉のものになってしまったトートバッグを摘みながら言った。

「いつか震災や戦乱で家から避難しなくてはいけなくなった時、これに椎を入れて逃げる」

 礼子はビーフサンドイッチを喉に詰まらせるほど笑っている。小熊も自分のサーモンご飯を飲み込むのに苦労を要した。椎は顔を真っ赤にしている。

「こんな袋にお姉ちゃんが入るわけないでしょ!」

 椎を幼い頃から知っている慧海はもちろん、小熊や礼子の目から見ても、何の問題もなく入るのは明らかだった。


 昼食と午後の授業を終えた放課後、いつも駐輪場までは一緒なことが多い礼子が、昇降口とは違う方角を指しながら言った。

「今度は私が取り調べよ」

 礼子の進路指導が行われるらしい。    

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