第10話 5日目

週末、金曜日。

土曜・日曜・祝日は基本的に休みなので、今日でようやく1週間が終わる。

学校に入学して慣れるまでとは比べものにならないほど、濃密な1週間だった。


アトリエで働く人間は作業着を着る事になっているが、この作業着、着心地に慣れるのには意外と時間がかかる。つなぎだから着る時も脱ぐ時も、それにちょっとした動作――腕を上げたりしゃがんだり、トイレで用を足すにも、動くたびに身体に馴染むまで違和感が続く。

それでも着たことのない形になんとなくワクワクしてしまうのは僕だけだろうか?実はちょっとカッコイイとも思ってたりして。


最初は着方が分からずモタモタした着替えも、5日目にもなるとコツをつかんで手早くなる。パッと更衣室の扉を開けると、まだ国立さんは出てきていなかった。

彼女よりも先になったのは初めてだ。

基本的にほとんどの人は職場の階にある更衣室を使うが、特定の部署に配属されたわけではない僕が割り当てられたのは、どういう偶然か3階だった。つまり国立さんと同じ階。

そんなわけで、僕は朝会社に来ると検品で時間を潰し、8時50分になると総務へ行って今日はどこの部署へ行けばいいのかを確認するのだ。



「お、分かってるね」

嬉しそうに言いながら国立さんが入ってくる。机を拭く用の雑巾を2枚、洗って準備しておいたからだ。

「あれ、今日はポニーテールですか?」

いつもは無造作に後ろで1本にまとめている髪が、今日は上で束ねられている。

「金曜日だから、気合い入れてこうと思ってね。……え?変?」

少し慌てた様子で頭に手をやる。

思わず僕が苦笑してしまったからだ。

どうやら僕の着替えが手慣れて早くなったわけではなく、国立さんの支度が普段よりも遅かっただけらしい。

「いえ、こっちの事で……。よく似合ってます」

特に他意なく素直に褒めたのだが、国立さんの頬が赤くなったと思うと睨み付けてきた。

「な、何を企んでいる!?」

「え―――……」



ちなみに、やはり2週間の短期バイトでは入口の暗証番号は教えてもらえず、毎朝国立さんに開けてもらって一緒に入っている。

もう少し遅くても全然大丈夫だけど、彼女の教えてくれる仕事に対するスタンスが面白くて、少し早めに出社して朝のわずかな時間、話をするようになっていた。



「社長ってどんな人なんですか?」

僕の質問に、国立さんはパソコンのモニターを見つめたまま答える。

「ん―――、一言で言うと“俗物のクソ野郎”だね――」

また、そういう事を。

「よくいるじゃん。“プロジェクト・プロフェッショナル”とか“ガイアの暁”とか“カンブリア御殿”とかの見過ぎと、自己啓発本と成功者の自伝の読み過ぎで、自分を坂本竜馬か織田信長の生まれ変わりだと信じ込んでいる奴が。あの手の人間だよ。そうやって部下たちにレポートだなんだと余計な仕事を言い渡して、自分は椅子にふんぞり返って仕事した気になってるだけのね」

「は、はは……」

苦笑するしかない。

まぁ言い方はアレだが、なんとなく言いたい事は分かる、ような気がする。

それにしても、国立さんは美人なのに、歯に衣着せぬというか結構な毒舌家だ。



「――例えば予備の工具とか文房具とか“最後の1個(ラスイチ)”を取った人は、次の分を用意したり発注したり、在庫を管理している人に報告したりするんだよ。もう無いって認識できるのは最後の1個を取った人だけだからね。無くなっても知らんぷり、自分の分さえ確保できれば後は関係ない、なんて目先の自分の事しか考えない奴が多いけどさ。そうじゃなくて、もっと先の事を考えて常に行動してね。これがKYだと、どうなる?」

「ええっと………“工具が無くなったら作業がストップしてしまうから、用意しておこう”ですか?」

「そうそう。気を遣えるって大切だから。小さい事だけど、そういうちょっとしたところから仕事ができる・できないって分かれると、私は思う。

もっと言えば、それが発注してから納品されるのに時間がかかるような物だったら、作業日程を変更しなきゃいけなくなるかもしれない。そうして納期が遅れるような事になればお客さんの信頼だって無くしてしまうかもしれない、間に合わないなら要らないって発注自体をキャンセルされてしまうかもしれない。たった1つ、工具がない為に、そこまでの事態になる可能性だって考えられるんだよ。

だから、何かする時は必ず“大丈夫だろう”みたいに楽観的に思考停止しないで、“困るかもしれない”って先を考える事がすっごく大切。何もかもを悲観的に考えろって言ってるワケじゃないよ?でも、自分の行動がもたらす結果の最悪を一応想定して、それを避けるためにはどうしたらいいのかを考えるクセはつけた方がいいと思う。起きたクレームに対処するより、クレームが起きないようにした方が絶対いいに決まってるでしょ?」

「あ、でも最近、”クレームはチャンス”みたいによく言いますよね」

「それは、クレームが起きないようにあらゆる手を尽くした”先”のコト!出来の悪い製品を売りつけて”クレームはチャンス”じゃ、ただのマッチポンプじゃないの。チャンスになるクレームをもらうには、最低レベルのクレームを起こさないように細心の注意を払ってからの事でしょ!」



「――組み作業してる時に床に落とした丸カンをどうするか?まあ状況によるけど、基本その場で探すかな。丸カンとかパーツって地金じゃん?つまり、お金。お金が落ちてるのと一緒なんだよ。お金を落としたら絶対拾うでしょ?」

「それはそうですね」

「だから床に落とさないようにまずは注意して、飛ばしたらその場で探す。ただここで、そのパーツの重要度も判断してね。あまりダラダラ時間かけて探してたら、その分の進むはずの仕事が進まないワケだから。丸カンみたいに飛ばす事を想定して必要数よりも多めに用意されているようなものは、ざっと探して見つからなかったら切り上げるのも手だよ。ダラダラ探す事に、会社はお金を払っているワケじゃないからね。で、もしそれが余分のないようなパーツなら、それはもう見つかるまで死ぬ気で探して。

ただそれも、見つかんないからって10分も20分も探してたら本気で仕事が滞るから、その時はそこで作業に戻って、私なら休憩時間を使って探す。休憩時間は何しようと自由だから。

パーツを落とすって事は、会社の財産を床に捨ててるって事だし、探す時間は作業の進まない無駄な時間。どっちにしても会社に損害を与えているのと同じだからね?

総括すると、“飛ばすんじゃねえ・飛ばしたら本気で探せ・すぐに見つかんなきゃ休憩時間に這いつくばって死ぬ気で探せ”って感じかな」



「――西原くん、字はキレイな方?」

「他の人が見て、読めないほど汚い字ではないとは思っていますけど」

「もし何か数字――主に重量とか金性だね――を書く時は、できるだけ丁寧に書くように心がけてね」

「数字、ですか?」

「うちは貴金属を扱っているからさ。金とかプラチナって、g単価…1gいくらって世界なんだよ。相場は変動はするけど、今だと目安として、ざっくり1g4000~5000円って感じ。たった1gでだよ?」

1g。想像しようとして―――できなかった。

前に田辺部長に延べ板を持たせてもらった時、体積に対しての意外な重量感に驚かされたけど、それを思い出しても1gが多いのか少ないのか、具体的な量の検討が咄嗟につかない。

「すみません……指示された事をこなすだけで精一杯なので、1gがどのくらいなのか、ピンとこないです……」

「そうだなあ。0.8㎜のボールチェーンのネックレス40㎝で、1gオーバーかな。大体、細いネックレス1本分くらい。丸カンだと……よく使う0.55丸カンが1個約0.02gとして……あ、今、”たった0.02g?”ってバカにしたな?」

あれ?顔に出ちゃったか?

思わず口元を手で押さえる。

実をいうと、0.02gと聞いた瞬間、100分の1の桁に、”大した事ないなあ”と思ってしまった。

「1g5000円の0.02g、0.02×5000は?はい、暗算!」

「えっと……100です」

「あんな小さな丸カン1つが、100円もするんだよ?それも”地金代”だけで。実際は材料から丸カンになるまでの加工代も加算されるから、丸カン1個の値段はもっとする。それでも”たった100円”って思う?」

「すみません。思わないです」


国立さんから、”地金はお金、会社の財産”という話を聞いていたはずなのに、0.02gなどと聞いた瞬間その桁の小ささに、正しい知識を伴わない感覚だけで”お金と言っても何銭程度かな?”と思ってしまった。

実際に扱っていたパーツの、重量と金額が現実味を帯びて実感できた時、ほんの一瞬でも”たった”などと侮ってしまった自分を恥じる。


「あ、だから”はかり”も、100分の1まで量れるんですね」

家庭によくある計量器のほとんどが”15g”など整数でしか量れないのに対し、作業場のあちこちに置かれた計量器は、”15.37g”など100分の1まで量る事のできる高性能なものだ。”たった”0.02gで100円”も”変わってしまう世界だからこそ、必要な性能だったのだ。

「そうそう。100分の1単位で管理されるものだからこそ、数字――例えば”重量を量って、メモしておいて”とか頼まれた時、1なのか2なのか7なのか判別できなかったり、5とも6とも取れるような数字を書いてしまうと、トラブルの元になるの。伝票を起こす時に間違えば在庫の重量が狂うし、それがそのまま、棚卸し――つまり会社の資産が正確に把握できなくなる原因になる。お客さんに納品する時なら、在庫重量だけでなく金額にも直接関わってくるんだから。もちろん、段階段階で量り直す事になっているから間違っていても気付けるようにはなっているけど、基本姿勢として数字は誰が読んでも間違いないように書くようにしてね」



「――ここ20年、地金の相場がどんどん上がってる。主に金だけど、プラチナもパラジウムも。だからどこの会社も価格帯を上げずに同じような商品を取り揃えるために、昔は18金で作っていたような商品を、今はほとんどが10金で作ってるんだよね。9金なんてのも見た事あるし。

でも私に言わせれば、14金ならまだしも、10金を貴金属扱いする事にちょっと抵抗あるんだよね。だってさ、確かに金は含まれてはいるけど、含有量は50%切ってるんだよ?半分以上が金じゃないのに、金が含まれているって事で金として売ってもいいのか、“金”と呼ぶ事で貴金属として売る為の体裁を取り繕っているだけじゃないか、なーんて思っちゃうんだよね。

まあ、売り手がエンドユーザーに、そういうテンションで売り込みたいのは分かるんだけどね」

「そういうテンション?」

「10金製品だけど、”18金製品と何も変わりませんよ”ってテンション。でも売るならちゃんと、18金とは違う点も理解してもらって買ってもらえるようにしてほしいよね」

「18金とは違う点、ですか?」

「展延性って分かる?簡単に言うと”叩いたり引っ張ったりして、どのくらい伸びるか”って事。金の特徴の一つで”展延性が高い”っていうのがあって、よく挙げられる例が金箔だね。

純金から品位の落ちた金はすべて、銀と銅を含む文字通りの”合金”なワケだけど、金を多く含むほど――つまり品位が高いほど、金の特徴がよく表れるのはなんとなく想像できるよね?

金って、私が加工で触っている感覚だと”粘る”って単語が1番しっくりくるんだけど、42%しか金を含まない10金って、75%金を含む18金と比べてなーんかパサパサしてるんだよね。

で、それが製品にどう影響してくるかって言うと、含まれる金が少なくて粘りがない分、18金よりも絶対的に強度が落ちるんだ。

だけど店舗の人は売る時、絶対にそんな事言わないでしょ?だからクレームになったりするんだよ。”買って3年しか経ってないのに、もう切れた!昔買った18金のネックレスはこんな事なかったのに”とかね。もちろん、メーカーとして10金の基準強度はクリアしているし、お客さんによっては納品と一緒に強度表も付けたりしてるけど、問題はその先なんだよね」

「お客さんが理解できてないって事ですか?」

匠美鎖はOEMメーカー――他社から依頼を受けて製品を開発・製造し、納品する――だから、この場合の”お客さん”はエンドユーザーではなく、取引先の会社を指す。

「75%の金を42%まで減らせば、当然安く上がる。でも地金相場自体が上がっているから、結局売る時の価格帯は変わらない。でも10金は18金よりも劣るという事をきちんと伝えないで売ろうとするところが、言い方は悪いけど都合の悪い点は隠して売ろうとしているみたいで、誠意がないように感じちゃうんだよね。

でクレームになれば、お客さんはこっちに”強度強度!”って言ってくるワケ。

一方的にメーカーに、”安く上げたい、でも強度は落とすな”って押し付けて、自分たちはエンドユーザーにちゃんと伝える努力を怠っている感じがすごくイヤなんだよ。だって実際にジュエリーショップに行って、お店の人からそんな説明聞かされた事、1度もないもん。

もっと言えば、ほっそいチェーンのネックレスに、どう見ても重すぎるトップを平気で組み合わせたりしてるから、もしかしたらデザイナーレベルで理解できてないのかも。

ま、これだけ10金という素材が定着している今、私個人がどう思おうとどうにもならないんだけどね」



バリバリ体育会系の“働く”という事への気構えや宝飾業界での基本知識まで、聞いた以上の事を多少の毒を含ませながら、国立さんは返してくれる。

その話をいつも僕は、人がいない冷たくて動かない空気を感じながら聞くのだ。



今朝も英国様のお言葉を頂戴した後、棚にあった貴石の事典をめくっていると、玖珂さんが慌てた様子で入ってきた。

年上に失礼かもしれないが、今日も可愛い。だがいつもまとっている、こちらまで穏やかな気分になってしまうようなふんわりとした雰囲気が、今日は少し違っていた。


「おはようございます、玖珂さん」

「あ、うん、おはよう」

挨拶もそこそこ、といった感じだ。

「英妃ちゃん、大変!もう聞いた?」

「どうしたの?そんなに慌てて」

「私もたった今、更衣室で聞いたんだけど、もうみんな噂してて……」

「誰か意外な人が結婚でもするの?」

「もう、そんな呑気な話じゃないよ~」

表情を崩したのもつかの間、すぐに真顔に戻る。

「あのね、あ、西原くんも、落ち着いて聞いてね?」


「匠美鎖、潰れるらしいの」

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