第4話 初出社

しまった……。

気合いを入れて出社した初日、勇み足と余裕を見過ぎてやたら早く到着してしまった。

電車を下りて時計を見ると、まだ7時45分。1時間も早い。

開いているだろうかと心配しながら匠美鎖まで歩いていくと、案の定、正面の扉にはシャッターが下り、中に人の気配は無い。

来る途中にあったコンビニで立ち読みでもして時間を潰していようかと考えた時、聞き覚えのある声が人気のないビルの前に響いた。


「あれ!?おはよう!今日から出社なんだ!?」

振り向くと、紺のジャケットにふんわりしたピンク色のスカートの美人に笑いかけられる。

「あ……国立さん。おはようございます。今日からよろしくお願いします」

「うん!よろしく!ところでこんなところに突っ立って、ナニしてるの?」

「なんか念の為早めに出たら、早く着き過ぎちゃって。国立さんは、いつもこんなに早く来ているんですか?」

「ん――まあね」

「でも開いてないですよ?」

「会社には正面入口の他に、従業員用の入り口があるものなのだよ。カマン!」

ついてくるよう合図する先輩の後から、ビルの横に回り込む。

建物の真裏に地味なスチールドアと大きなシャッターがあり、そばの壁にインターホンと暗証番号をキー入力するタイプのオートロック錠があった。


「ごめん、あっち向いてて」

「あ、はい」

あわてて後ろを向く。

そうだよな。2週間しかいない人間に暗証番号教える訳にはいかないよな。そしたら明日からどうやって中に入ろう?

『ロックを解除します』

電子音声が告げる。

「ほい、開いたよ。暗証番号を教えてもいいのか私には判断できないけど、もし教えてもらえなかったら明日からは誰かが来るまでここで待ってて一緒に入れてもらうか、このくらいの時間に来るなら私が入れてあげるよ」

「はい」

「一応、誰か辞める度に暗証番号変えるから、教えたって問題ないと思うんだけどね」

なるほどやっぱり貴金属を扱う会社はセキュリティも厳しいんだな。後で必ず、どうしたらいいか、確認しないと。


中に入ると廊下は暗く、シンと静まった空気はひんやりと冷たくて重い。昼間は感じない独特の匂いが満ちる感じは、まだ誰も登校していない学校の空気に似ている。

扉から入った真正面には大型のエレベーター。

「あれ?正面のエレベーターより断然大きくないですか?」

「ああ、これは重い機械とか搬入する時に使う用なんだ。でもね」

にやり、と暗い笑みを浮かべる。

「従業員は決して乗ってはならない、呪われたエレベーターなのだよ」

「え……。なにか昔、不幸で凄惨な事故でも……?」

「すんごい遅(ノロ)い、呪いのエレベーター」

「……………」

オヤジか、あんたは。

「自分の足で階段上るより遅いんだよ、マジで!」

「ソウデスカ」

「あ、なにその冷たい言い方。美人で優しい先輩をもっと敬いなさい!」

「“美人で優しい”を自分で言っちゃダメですよ」

「何をぅ。自分で言わなきゃ、誰が言ってくれるっていうのよ」

「言ってくれる人、いないんですか?」

地雷を、踏んだ。

「むっき――!!悪かったわねぇ。いないわよ。ええ、いませんよ。きぃ――」

涙目で本気で悔しがっている。

マジでか?彼氏とか、いないのか?

すごい美人なのに。スタイルだって、服のセンスだって悪くないのに。

「あああぁぁすみません。ぼ、僕も彼女とかいないサビシイ人間ですから――」

「サビシイ!?うき――っ」

何を言ってもダメなのか!?

じたばたアタフタと状況を鎮めようとしていると、廊下の奥から50代後半くらいの小っちゃいおじさんが、じゃない、小柄な男の人がふらりと現れた。

「ああ、英妃ちゃんか。おはよう。今朝は賑やかだね」

「あ、おはようございまーす、相場森さん」

ころりと笑顔で返す、その変わり身の早さについていけない。

「相場森さん、聞いてくださいよ!このバイト君に朝っぱらからケンカ売られたんですよ!」

「若い人はいいねえ」

うんうん、と頷きながら的外れな言葉を残し、フェードアウトしていく。

面倒くさそうだから逃げたな、絶対。


「5階の総務の前で、一人ぼっちで待ってなさい」

言い捨てると国立さんはさっさと階段を上っていく。

ポツンと取り残され、溜め息をつく。

うう、なんか初日から波乱含みだな……。

がっくりしながら階段を上る。とりあえず5階に向かうと、踊り場で国立さんが腕組み仁王立ちで見下ろしていた。

まさか、リターンマッチ!?

「ちっ、しょうがないな。人のいない社内をフラフラさせる訳にいかないから、総務の人が来るまでいろいろ説明してあげる」

「あ、ありがとうございます」

ここまで上ってくる間に頭が冷えたのか?

ボルテージの上がりやすい人だけど、意外と公平でもあるらしい。

う、なんかすごくいまいましそうな顔してるけど……。


一緒に3階まで下りてくると、廊下を進む。

「作業着に着替えるから、更衣室の前でちょっと待ってて」

廊下の1番奥の扉の前に立ち、親指で指差した。

「どの階もこの位置に更衣室があるから。男性用はそっち。どこの部署に配属かは総務の人に聞いて?その時に作業着も渡されると思うから、その部署のあるフロアの更衣室に荷物を置いて、着替えて。あ、トイレはそこね。じゃ」

さらさらと説明すると更衣室の中に消える。

国立さんが着替えている間、とりあえずトイレにでも行っておくか。



ちなみにこの会社の作業着は、背中に会社名のロゴが入った濃いグレイのつなぎだ。

営業の人は当然スーツだし、事務作業の人は制服だけど、アトリエの職人さんはこの作業着を着て働く。靴はスニーカーなら自由で、自分で用意する。基本的に、着こんだつなぎの胸に所属部署名とフルネームの入った名札をつける。人によっては首からストラップに付けたルーペを下げる。

案内してもらった時は、暑い作業をしている人は上半身を脱いでTシャツやタンクトップになって、つなぎの袖を腰で結んでいた。脱いでも作業できるように、中はTシャツがいいみたいだ。


ほどなくして、作業服に着替えた国立さんが現れた。

「先にやっちゃいたい事があるから、ちょっと付き合ってくれる?」

向かったのは検品の作業場。誰も来ていないから部屋の中も外と同じくらい寒いし、ブラインドが閉められていて暗い。そこに国立さんは慣れた様子で電灯とエアコンのスイッチを入れ、ブラインドを開け、配電盤の主電源を入れる。


「今日の作業の予定に目を通して、段取りしておかないとね」

パソコンが立ち上がるのを待ちながら、机の上とデスクライトの上を雑巾で拭いていく。

「あ、手伝いますよ」

「そう?じゃあ会社の机を掃除する時の基本。書類とか道具とか、置いてある物の位置を変えない事。朝一で仕事できるように1番上に置いたりしている書類なんかが、分からなくなったら困るでしょ?」

なるほど、と思いながら、言われた通り注意して作業机を拭いていく。

朝って、やっぱりこういう雑用から始まるんだなー。

“働く”という事自体初めてなので、何もかもが新鮮だ。できる限りいろいろな事を経験させてもらい、吸収できるよう頑張ろう。

「国立さんはこの会社、もう長いんですか?」

「ん――そうでもないよ。今年で5年目になるかな。なんで?」

「いや、こういうのって、新人のやる事なんじゃないかなって思って。段取りするような人が掃除までするのが意外で」

「いいトコ衝くね。あ、雑巾洗うのはこっちね」


廊下の流し台で雑巾を洗いながら、あくまで個人の意見だけど、と断りつつ教えてくれた。

「うちってメーカーじゃん?だからさ、生産性の無い事は仕事中にするべきじゃないって思うんだよね。分かりやすく言うと、私ら“手を動かしてナンボ”なんだよ。で、段取りなんて、必要だけど生産性は無いから、段取り担当としてはみんなが9時のチャイムと同時に仕事を始められるように、段取っておくわけさ」

そこで少し苦く笑って、続ける。

「でもまぁ色んな人がいるから、チャイムが鳴ってからのんきに加湿器に水入れてる人とか、髪を結わいている人とかいるんだよね。“そんなこたぁ、5分早く来てやれ”って思うんだけど、そういう人間は自分から気付いてやる訳がないし、言うのも面倒だから、自分でやっちゃった方が早いやって」


メーカー。生産性。手を動かしてナンボ。そういう考え方もあるのか。

それにしても、真面目だけど、不器用な人だなー。

「あんまり抱え込みすぎないでください。僕でできる事なら手伝いますから」

「2週間しかいないくせに」

「う……」

それでも少しうれしそうに、国立さんは笑った。



「小家さんは……B&Wのネック500本と……あ、そっか…端さんは今日半日だから………」

ぶつぶつ呟き、眉間にシワを寄せながらパソコンとにらめっこしている国立さんをしばし見守りつつ、周りに置かれた道具や壁に張られた社訓などを物珍しく眺めていると、明るい声がした。


「おはよ――、あれ?」

振り返れば、これまた美人。こちらは綺麗というよりむしろ可愛らしい雰囲気で、背中に流れる髪はふわふわとウェーブを描いている。着ているのは事務作業服だから、事務か営業内勤の人だろう。

「ああ、撫子。おはよ。この子は今日から働きに来てくれる田辺部長の親戚の西原くん。聞いてるでしょ?」

「君がそうなんだ。私は営業部の玖珂です。よろしくね」

ふんわりと笑う笑顔は相当可愛い。そして制服の上からでもしっかり分かる、可愛い顔に不釣合な大きな胸。国立さんが男前美人なら、玖珂さんははっきりと母性を感じさせる女性だ。

「総務の神品さん、いつも来るの結構ぎりぎりだものね。英妃ちゃん、よかったら私が総務に連れていこうか?どうせ営業と同じ階だし」

「いいの?」

「いいよ。英妃ちゃんの仕事の邪魔しに来ただけだから」

「じゃ、お願いしちゃおうかな。というわけで、西原くん。彼女についていってくれたまえ。あ、お触り禁止だからね」

「触りませんよ!…ってか何を!?」

女2人で、きゃはははは――と大笑いしている。楽しそうだ。ちょっとホッとした。

国立さんも普通の女の子みたいに笑うんだ。



のんびりと階段を5階まで上がり、総務の前で待ちながら、玖珂さんがこのビルの概要をざっくり教えてくれた。


1~3階が工場、4階が企画開発と事務所、会議室と食堂、5階には総務と営業の他に社長室と会議室があり、社長室に陣取る番匠社長は1日1回、会社中を見回る。

タイムレコーダーは総務の入口そばの廊下にあり、全社員が必ず5階まで上がって来なければならない為、下の階で働く人にほど不評なのだそうだ。

まぁそうだろうな。

「前は1階の従業員入り口のそばに置いてたらしいんだけど、昔、タイムカードだけ押して帰っちゃった人がいたらしくてね。それ以来、5階に上げたんだって」

軽い憤りを覚える。そういうつまらないズルをする浅はかな人間のせいで、真面目に働く人が迷惑するのは、なにか納得いかない。

会議室は4階と5階にそれぞれあり、4階にあるかなりのスペースの大会議室は、週に一度の全体朝礼や報告会など全従業員が集まる時に利用される。



玖珂さんにもらった会社概要や社訓の書かれた紙に目を通している間に、たくさんの従業員が出社してタイムカードを押していく。

総務の前、つまりタイムレコーダーの脇で玖珂さんと並んで立つ僕に、好奇心でちらりと視線を走らせる人、なんだコイツとあからさまにジロジロ見ていく人、時間ぎりぎりなのか周りも見ずにあわてて去っていく人、いろいろだ。

ちなみに田辺部長はかなり早めの出社で、僕を見つけると、満面の笑みで肩を叩いた。

「やあおはよう。今日から2週間はいろいろな経験ができるように、働く部署は決めずにできるだけ毎日違う部署、まあ、人手の足りない部署に派遣されるようにしておいたから。頑張って」



ようやく現れた呑気そうな総務の人に引き渡されると、ひとまずあてがわれたロッカーに鞄を放りこみ、作業着に着替える。

「あ、急いでね。全体朝礼があるから」


4階の大会議室で毎週月曜日の8時55分から、全従業員集まっての朝礼があり、朝の挨拶から社訓の唱和、ひとりひとり点呼しての出欠確認、報告連絡、社長から一言、と内容は盛りだくさんなのだそうだ。

神品係長に連れられ会議室に入っていくと、かなりの人数が集まっていた。ざっと100人以上いるだろうか。

部署ごとに制服は違うが、だいたい同じ制服姿の人が固まっている。


朝礼の時にはすでに噂は広まっていた。

紹介をするという事で、並ぶ社員たちの前に向かい合う格好で立たされ、自然と視線が集中する。見られる事には結構慣れている。SAIHARAに行けば、“創業者の孫、社長の息子”として視線を集める事もあるからだ。

だけど今、平静を装った内心では、断片的に聞こえてくる会話の内容にいちいちツッコんでいた。


「あの国立さんにケンカ売ったらしいぞ」(いや、そんなつもりは……)

「すげえな。怖いもの知らずだな」(ん?)

「可哀想に……」(なにが!?)

「つか、あいつ、田辺部長の甥っ子らしいぞ」(遠い親戚の設定が……)

「あ――聞いた聞いた。高校生のバイトなんか採った事ないのに、特別に、しかも超短期で」(すみません、無理言って。じいちゃんが)

「実は幹部候補で、早い内からこの業界に慣れさせる為だってホントか?」(あながち間違いじゃないです)


噂に尾ひれがついて自由に泳ぐうち、わりと真実に近いところに行きついたようだった。

何て言うか、もう帰りたい……いやいや、始まってもいないうちにヘコたれてどうする。

慣れていると思っていた人前も、やはり状況が違うと普段通りの冷静さではいられないものらしい。

目の前の現状に反応するので精一杯で、この後どうするのか考えてなかった。

”それ”に気付いたのは、朝礼が始まり、社長のちっとも要領を得ない挨拶を聞いている時だった。


―――名前を名乗る。


そうだった。“さいはら”じゃなくて“にしはら”でいいんだよな?

田辺部長に一応確認するつもりだったのに、すっかり忘れていた。

履歴書にもそう書いたし、じいちゃんにも念の為聞いておいたからそれでいいはずだ。さいはらを名乗って、変に勘ぐられない為に。


本当にいいんだろうか、とちょっと思ったりもする。

これって身分詐称とか、罪にならないだろうか……。

そんな不安を、いや、と思い直す。

たったの2週間。僕が問題を起こさないよう注意すればいいだけの事だ――。

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