参、嘘も真

「ユル」

 わたしがようやっとその名を呼ぶと、ユルは刃を揺らして婉然と微笑んだ。

「ばかな小娘だな。何も知らないまま、愚かな男の龍神ごっこなんかに付き合って」

 カナサさまはなにも言わない。ただわたしを庇うように、腕に力を篭めただけだった。

「龍神に祝福されているのはキミだよ、シギラ。キミは南の王の守護者となるべき偉大なる巫女さまだ。洞窟に籠められて、膨大な霊力が落ち着くのを待ち望まれていた。おれとカナサも時が満ちるのをまっていたんだ、かっさらうためにね」

「なにを、いってるの?」

「なにも知らなかったのは幸運だったな。あんたはおれらに都合よく、自分は世に望まれない人間だと思っていた。平和な南の漁村に生まれたもの知らずの小娘。何も知らないだろう、三つに分かれた国々の争いも、滅ぼされた中ノ国と北ノ国のことも。まあ仕方ない、十年も洞窟に閉じ込められていたんだからな。お前が封じられていた十年間で、おれたちは多くのものを失った」

「十、年?」

 彼が何を言っているのか、理解できなかった。十年? ならばなぜわたしは、籠められたときとなにひとつ変わらない身体をしているのだろう。

「やめろユル。それをシギラにいう必要なない」

「ある。やめろよカナサ。いまさらお綺麗なフリをするのか? この小娘を利用し尽くす為だけに連れて来たくせに、情なんて移しやがって」

 カナサさまは細いため息をひとつ吐くと、わたしを手放し立ち上がり、ユルと向かい合った。夜闇の中、カナサさまの鱗が月明かりを反射してぬらりと光る。

「ユル」

 静かに、名前を呼ぶ。一方ユルは変わらずカナサさまに刃を向けたまま、嘲笑った。

「龍神の寵児? 笑わせるな。生き残る為に龍神の加護を騙って処刑を逃れ、十年間ずっとおれの呪術で、石の鱗を身に纏わせていただけだろう。おれはずっと、お前が憎かった。大切にされているお前が疎ましかった。城が攻め落とされたあの日、おれはお前を守れと託された。お前を守って、もう一度国を立ち上げろと。それがどうだ、ここに来て臆すのか! 寄り道だって多めにみてきた。それがこのざまだ。おれがしてきたことはなんだったんだ。この小娘を北の聖域に閉じ込めて霊力を引き出し、津波を起こして王都を落とすと言ったのは、ほかならぬお前だぞ、カナサ!」

 激情に身を任せた、血を吐くような響きを持つ声。ひとつひとつの言葉を理解するのに、わたしはとても多くの時間を要した。

 カナサさまは、ユルの刃に身を寄せて目を伏せた。

「北に来て、わかってしまった。人々は別に、王などいなくとも生きていけると。それに俺は、シギラをあんなところに二度と閉じ込めたくないと、思ったんだ」

「その程度の覚悟で生き延びたっていうのか!」

 ユルの叫びに、カナサさまはかなしくわらうだけだ。

「返す言葉もないよ、ユル。お前には申し訳ないと思ってる。いまや俺の首に価値などないに等しいが、好きにするといい。シギラを逆賊から救ったと言って王都に戻れば、お前はそれなりの地位を貰えるだろう」

「カナサさま! やだ、ユル! やめて! 刃をおろして」

 わたしはとっさにユルの腰に抱きついて彼を押しとどめようとしたが、わたしの細腕では彼を少しも動かない。

「シギラ、いいんだ。俺はお前を攫って利用しようとした、龍神の寵児ですらない、ただのどうしようもない男なんだから」

 ああでも、と。カナサさまは眉尻をさげた。

「シギラに血は見せたくないな」

 こんなときにまで、わらう。後退して、崖の縁に向かおうとする彼に、ユルがなにがしか声を放ったが、なんと言ったのかはわからなかった。

 とん、と。地面を蹴るあまりにも軽い音が夜の海に吸い込まれていく。

「カナサさま!」

 躊躇いなどなかった。眼下に広がる海に向かって傾いでいくひとを追って、わたしは地面を蹴る。手を伸ばす。瞠目したカナサと目が合った。わたしは、わらった。——そう、たしかにわらえたのだ。ふわりと目を細めて、頬を緩めて、カナサさまのためにわらった。

「カナサさま」

 ユルの言ったことはすべて真実なのだろう。それでもわたしは構わなかった。

 ぶわりと、体を吹き飛ばすほどの突風が吹いた。わたしは咄嗟にカナサさまが伸ばした手に指を絡める。そのまま抱き合うようにして水面に叩き付けられた。夜の海は黒く、暗い。必死にカナサさまにしがみついていると、頭が海面に出たのを感じて、大きく息を吸った。カナサさまが泣きそうな顔でこちらを見ていた。ふたりでぷかりと顔だけ浮かべながら、見つめあう。

「怪我はないか」

「知ってました」

 わたしは息切れした声で言葉を吐き出した。

「カナサさまが神様でも、龍神の寵児でもないって」

 カナサさまが常人タタビトであることは、旅を始めて程なくわかった。わかってしまった。

 わたしは人魚に呪われ熱を出したあの日から感覚が鋭くなり、目に見えないものを目ではないどこかで見るような感覚を得ていた。おそらくそれが霊力というもので、旅の中で出会った神や祈りに通ずる人たち、あるいは呪術を使う人たちは必ずその霊力を身にまとっていた。カナサさまが龍神の寵児であるならば、加護のあかしとして霊力が寄り添っているのが自然なことなのに、その片鱗もなかった。道中で呪術を使うのが常にユルだったことも確信の材料になった。

「それでもわたしのかみさまは、カナサさまなんです。これからも、ずっとそうです」

 手を伸ばしてカナサさまの右頬に触れると、鱗が滑るように剥がれ落ちた。みどりの宝石が、花びらのように水中を舞っている。月光に照らされて、透き通る海水のなかを、きらきらと、きらきらと、沈んでいく。息を飲むほどに美しくかなしい光景だった。

「カナサさまが海に融けてしまわなくてよかった」

「……ばかだよ、お前は」

 カナサさまの顔から鱗はなくなり、そこにいるのは龍神の寵児ではない、やさしすぎる顔をした、わたしの大切なひとだった。

「カナサさま。わたし、ききたいことがあるんです。カナサさまは人ですけれど、わたしは人ですか。人ではないのですか。龍に愛されるって、どういうことですか。わたし、こんな身体で、カナサさまのおそばにいられるのですか」

 不安がそのまま口から溢れて止まらない。わたしは十年間籠められていたとユルは言った。その間、わたしは歳を取ることもなく、飢餓すら覚えぬまま生きていた。そんなわたしは、人と呼べる存在なのだろうか。

「ひとだよ。お前は、ひとだ」

「カナサさま」

 はぐらかさないで、と。目で訴えると、カナサさまはぎゅうとわたしを抱きしめ、耳許でささやいた。

「お前は人間だ。でもお前のなかにある霊力は、常人が持つにはあまりにも膨大だ」

 人の身でありがなら、神の寵愛を一身に受けた結果、その身に変異をきたす者がいる。

 神の寵愛とはすなわち霊力セジ

 わたしの持つ霊力は膨大で、不老は言わば、その副作用だろうとカナサさまは言った。

 泳いで浜辺にあがり、自分のことも構わずにわたしの髪を丁寧に絞りながら、

「ユルに相談したかったんだが、できない内容だった」

「カナサさまとユルは、どういう間柄なのですか」

「双子の弟だ。生まれた時間がほんの寸刻違っただけで、俺とユルの扱いは、大きく隔たってしまった」

 この島では、北中南を問わず、国を治める一族に生まれた長子は太陽ティーダという言葉を名前に含めるのが習わしだとカナサさまは語った。

 そして、双子が生まれた場合ユルという名を与え、太陽たる長子の影の役割を与えるのだという。ユルという存在を、下々の民は知らない。ユルはただ、王家の長子のために、影で働きその命を捧げるのが当然と育てられる。そう言って、カナサさまは目を伏せた。

「ユルが先に生まれていたら、きっと強い意志をもって、もう一度国を興そうとしただろう。でもおれには無理だった。ユルを、裏切った」

 悄然とするカナサさまに、わたしはなんと言葉をかけるべきかわからなかった。カナサさまにとってユルはわたしが思っている以上に大切なひとなのだろう。同じ胎から生まれた半身に等しい存在なのだから。

 彼は今、どこにいるのだろう。まだ岬にいるのだろうか。そう考えた刹那、脳裏に声が閃いた。

——やめろ。

 そうだ。カナサさまが崖から飛び降りようとしたとき、彼は確かにそう言った。それに、岬の真下は険しい岩場だったはずだ。わたしたちは、ユルの呪術——おそらくあの突風によって、安全な水面へと導かれた。

「カナサさま、ユルを探しましょう」

 立ち上がり、まだ濡れて重い髪を乱暴に振って、わたしはカナサさまの手を引いた。

「シギラ」

「探して、話しましょう。あのひとのこと、嫌いですけど。カナサさまがお好きなんだから、譲歩します」

「シギラ」

「もう、ご命令には従いません」

 カナサさまの手を取り、両手で包み込む。

「わたしが、カナサさまのためにしたいようにします」

 顔をくしゃくしゃにする青年に、わたしは鮮やかにわらってみせた。このひとの弱さも優しさも、すべてがいとおしい。胸に灯るあたたかなこの感情が、きっとこれから、わたしを人たらしめる道しるべになる。

 握った彼の手に頬を寄せて、祈るように誓うように言葉を紡いだ。

「カナサさま、大好きです。ずっと、お傍にいます」


    *


 碧海の珊瑚島、ウル。遙か昔に三つの国に分かれていたというこの島には「三人の客人は手厚くもてなす」という不思議な慣習が残る。

 その原拠と思しき逸話が、各地に存在している。これは南北で大きく伝承が異なる島内において大変珍しいことだと識者は述べる。

 北で南で、珊瑚島の民はかく語る。かつて、三日三晩去らない嵐に襲われた村が、疫病が流行った村が、実りが乏しく明日の食料にも欠いた村があった。それらの村を救ったのは三人の旅人——神謡をうたう娘とその伴侶、そして呪術を使う従者であった、と。

 見返りを求めず去っていった彼らを、人々は龍神の使い、あるいは龍神の化身と信じて崇めた。

 そして子々孫々に脈々と語り継ぐ。寝しなに、あるいは美しい海や晴れた空を前にして。三人の旅人の物語——その地に刻まれたひとつの龍神伝説を。

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