Chapter.5 - FOED
モルテンブルク家の邸宅から東に行けば、以前メルがリックを連れたコールゴール市街がある。途中で南に逸れると、さらに都会的なパリドル市街。今回のメルはそこにいた。
「汽車って、お金かかるの……?」
パリドル駅から汽車の旅を、という計画が早くも頓挫し、意気消沈するメル。人の流れから逃げるように、駅の隅の方へすごすごと移動する。
「迷子かい?」
メルの困った顔を見て、通りすがりの青年が声をかけた。
「いや、違います、迷子じゃないです」
「そう? なんか、困ってるみたいに見えたけど、大丈夫?」
「だ、大丈夫です!」
メルは逃げ出した。コールゴール市街では賑やかさに感動したが、このパリドルの人の多さはそんな程度を通り越し、恐怖を感じるほどであった。人の少ない方へ、静かな方へ、がむしゃらに走っていった。
やがて閑散とした場所に辿り着いた。振り返れば、ダンゴムシの背のようなパリドル駅の屋根がかろうじて見えるので、どうやら遠くに来たり迷子になっているわけではないらしい。近くに開いているお店や人影は無く、様々な絵が描かれた壁や布が並んでいる。
「は、はれんち!」
パン屋の跡地のような煉瓦の建物には、タトゥーをした全裸の女性の絵が描かれていた。隣の建物には目の大きなネズミのような何か。さらに隣は大きく開いた口。リアルなタッチの歯には、デフォルメが過ぎて読めないが、文字が並んでいるようだ。
いずれの絵も……ひどく下品であった。
しかしそんな下品な絵すら新しい知識と認識してしまうメルは、ときどきパリドル駅の屋根を確認しながら後ろ歩きに、異様なまでに静かな空間の奥へと進んでいった。
突然、メルの見ていた世界がぐるりと回転し、一面、空になった。あまりに前触れの無い出来事だったため、自身の体が強い力で持ち上げられた、ということを理解するまでに数秒を要した。
屈強な男に抱えられ、猛スピードでどんどん奥へ。混乱を極めるメルがなんとか確認したのは、男の黒い爪と腕のタトゥー……。
瞬間、全身に鳥肌がたち、冷や汗が溢れた。リックが馬に蹴られたときとは違う、もっと本能的な恐怖がメルを襲う。助けを呼ぼうにも、恐怖のあまり声は出ず、指一本動かすことさえできなかった。
男はしばらく走ったあと急に止まった。メルは薄い藁の上に投げるように落とされ、硬直した手首と足首に縄がかけられる。
ぼろ布できつく目隠しをされ、視界を奪われたメルの恐怖はさらに加速する。体は震え、歯がカタカタと音を立てた。
「あ? なんだお前――」
男のものと思われる声がした。……が、すぐに途切れた。
目隠しは声が途切れたあとすぐに外された。目の前にいたのは、片目が隠れるほど長く伸びた髪の青年……いや、少年か。
「来い」
少年は手首と足首を縛る紐を赤いナイフで切り、腕を引っ張った。しかしメルの脚に力は入らず、立ち上がることなく前のめりに倒れた。
「くそっ」
少年はメルを抱えて走り出す。体が動かず、なされるがままになっているメルには、何が起こっているのか、ほんのひとかけらもわからなかった。
ボロボロの小屋に運び込まれたメル。少年は壁の隙間から外を入念に確認すると、隅で震えるメルに向き「怪我、無いか?」と言った。
――どうやらこの少年に助けられたようだ。
それはメルの頭より先に、体が理解した。涙はあふれ、心臓の鼓動は体全体に響き、今まで止まっていたかのように呼吸は激しくなり、「うっ、えう、うぐ……」とうめきが漏れた。
少年は木箱に座り、「あんまり大きな声は出すなよ」とだけ言い、落ち着くまでメルをまっすぐ見つめて待っていた。
どのくらい経ったろう。呼吸は落ち着いたが、見知らぬ少年に見つめられている緊張感、そして重い疲労感があった。
「俺は、フォードだ」
お互い黙っていたが、先に口を開いたのは少年の方だった。
「……ル」
「あん?」
「わ、わたしは、メル」
「メルね。わかった。……で、なんでこんなとこに来た」
こんなとこ、とは? 下品な絵が並ぶ地域ということか?
「わからずに来たのか?」
小さく震えるように首を縦に動かすメル。
少年――フォードは、ため息をついた。
「じゃあなんで拐われたのかもわかってないんだな?」
同じく頷く。フォードは時折面倒くさそうに、しかし親切に、状況を説明してくれた。
ここ、パリドル駅北側の地域は犯罪や違法薬物が横行する、いわゆるスラム街。
迷ったとはいえ、見るからにお嬢様とわかる格好で歩いたメルは、いわば拐って売り飛ばしてくださいと言っているようなものだった。
「ここの人間は全員悪人だと思え。俺みたいな、ビジネスに興味無いやつは、珍しい」
興味が無いなら、なぜ助けたのか。最初にわたしを拐った男はどこへ行ったのか。――訊きたいことはあったが、精神的にそこまでの余裕は無かった。
それに……最初の男に関しては、訊かない方が良い気がした。
フォードの持っていたナイフの赤が、とても怖いものに思えたから――。
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