Chapter.2 - CoalGoal City

 マクリッサがメルの家出に気づいた頃、メルはコールゴール市街で行われている朝市に訪れていた。

 露店やワゴンや敷物の上で、野菜、魚、果物、お酒、パンに惣菜。いろんなものが売られている。

「あれ、何かしら? 銀色の……お魚の隣にあるの」

「リック、触ってみて。壁が冷たいわ!」

「お金とお芋を交換してる! お金って、ああやって使うのね」

 なんとメルは、切り身ではない生の魚を見たこともなければ、金属が剥き出しの冷たい壁に触ったこともなく、あまつさえ、お金の使い方も知らなかった。

 もちろん頭上のアーチ状の屋根の名称も知らない――とんでもない箱入り娘のメルには、目に映るもの全てが新鮮だった。


 お金は持っていなかったが、とても良い匂いに惹かれてパン屋のワゴンの前に立つメル。体はパンに向きつつも、視線は隣に立つふくよかなおばさんに向けられていた。

 おばさんはワゴンの端にあった皿から一口大のパンを取り、そのまま食べた。「どうやったらそんなにふと――」と出かかったメルの言葉は、幸いにもそのおばさんの行動によって遮られた。

「え! お金だしてないのに……」

「ん? ああ、これ、試食よ、お嬢ちゃん」

「ししょく?」

「タダなものはもらっとかなきゃね、ふふん」

 ――どうやらその皿に乗っているものは食べてもいいらしい!

 おばさんが皿の前から離れるやいなや、メルは皿の上にあった数種類のパンをひとつずつ食べた。さらに、おいしかったジャムパンをもうひとつ食べようと手を伸ばしたとき、パン屋のお兄さんが「他にも試食出してるところあるよ。回ってきてごらん」と言ったので、元気に「はーい!」と答え、次は果物屋へ向かった。

 ――市場のことを教えてくれた。いいお兄さんだ!


「ああ、お腹いっぱい。パンもチェリーもちっちゃなプリンも、美味しかったね。あとでまた行こうね」

「わん」

 返事をしたリックは、リードを付けられていなくてもちゃんとメルの横に並んで歩き、メルが手に取ったものしか口にしない、賢い犬だった。

「…………なんでパパは、家から出してくれなかったのかしら? 外がこんな面白いなら、もっと早く出てくればよかった。ねえ? リック?」

「うおおん」

 一通り食べて回って、木陰でまったり休んでいると、視界の隅に見慣れた人影がちらりと映った。

「あ……マクリッサ!」

 メイド服の上からベージュの外套を着ている。春の終わりにしては少し暑そうな格好だ。

「早いわね……。ナージュも来てるのかしら? どちらにせよここで捕まっちゃあ元も子もないわ! リック、ちょっと走るわよ!」

 まだこちらには気づいていないマクリッサを背に、メルとリックはがむしゃらに走った。バタバタと足音を立てたが、ちょうど通った馬車の音にかき消され、マクリッサがこちらを向くことはなかった。


 一度も振り向かずに十分ほど走った結果。

「あれ……ここ、どこ……?」

 同じような住宅の並ぶところに出てしまった。――正真正銘、迷子だ。

 その上、風が吹き、雲行きも怪しくなってきた。どこか屋根があるところ、休めるところはないか? 昨日マクリッサに貰った傘は持ってきたが、リックまでは守れない。メルはひたすらさまよい歩いた。

 しかし勝手の知らぬ町。それらしいところは見つからない。空はさらに暗く、時折ごろごろと雷の音がする。

「降りそうね。傘、さしとこうか」

 メルは傘を広げた。上質な布地がバタッと引き締まった音を立てる。――その瞬間!

「きゃあっ!」

 突風がメル達を襲った。傘はメルの手を離れ、宙を舞い、不規則に揺れながら落ちていく。リックは傘を追って走り出した。

「リック! あぶないっ――――」

 それは一瞬だった。しかしメルにはとても長い一瞬だった。


 リックは馬車の前に躍り出てしまった。

 驚き暴れる馬に対してリックは萎縮してしまい、動けなかった。

 馬の足が触れただけ、それだけで……

 リックの体は飛び、石畳に叩きつけられた。


「リック!」

「くぅーん……」

 ああ、助けて! マクリッサ! ナージュ! ……パパ! ママ! 誰でもいい、誰か――誰か!


 雨がざあざあ降りだしたこともおかまいなしに、リックを抱きしめ、涙をぼろぼろ流しながら、ただ、怯えていた。

 呼吸の速いリックに。荒々しい馬に。落ち始めた雷に。誰にも守られない、孤独に。

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