1969年 1月20日

ブレイキング・アウェイ 1

 遊剛ゆうごうの耳に破壊音が残響した。小型のプラスチック製の時計が立てるには、あまりにも大袈裟すぎるように思えた。なにかが壊れたのにも関わらず、例の『巻き戻り』は起こらない。息を呑む。

 遊剛は玄関へと近づき、そのドアノブを握りしめる。


 開いた。


 遊剛は部屋から飛び出し、外の光を浴びる。あの小さな時計が、いわば屠殺場スローターハウスを作り出す装置だった。それを破壊したことで、この異次元の監禁空間を保つことができなくなったのだ……と彼は思うことにした。

 金城かねしろ先生の言葉。どんな超能力にも、必ず弱点がある。そういう風にできている。シュリの能力は、この露出したウィークポイントがその弱点だ。この時計は……彼女がわざわざ、俺に脱出の機会を与えるためにあえて手の届く場所に設置したものではないはずだ。シュリはそういう、誰かを『試して』楽しむような人間じゃない。少なくとも、俺はそう思う。自分自身を打診するように、遊剛は考える。たぶん、そうしないと発動ができない性質なのだろう。ぜんぜん便利な力じゃない。彼女は一生懸命、頭を使って、仲間のために精一杯がんばったんだ。きっと。


 外に出る。もちろん、シュリの姿はみえない。階段を降りて路上に出る。

 振り出しに戻ってしまったな、と思う。腹が減った。遊剛はせっかく死ぬ気になって抜け出した部屋に再び舞い戻った。

 コップを手に取り、蛇口から水を注ぐ。セールスマンの男が売りつけようとしていた、『イオンスターター』なる代物なんてなくったって、水道水の味なんてどれも同じだ。今思えば、今となって爆散死体になってしまっているこの男も、彼女の……彼女たちの仲間だったのかもしれない。戸棚にあった湿気たパンを二切れ食べたあと、畳に仰向けになる。ブラブラと揺れる電灯の紐を猫のように目で追った。時間だけが過ぎていくのがわかる。時間が経過する。それだけで随分気が楽だ。

 

 そういえば、と思い立ち、遊剛は立ち上がる。

 例のタンスに手をかけた。やはり、依然として、その紙幣はそこにある。彼女が強奪したとうそぶく、『三億円』の一部が。


 たとえば。


 なんだか虚しくなった。あの超自然的な経験の熱は案外早く喉元を過ぎ、あんな劇的な体験をしたのに、自分の身に何も起こっていないことに失望した。彼女はもういない。きっともう二度と、ここには戻ってこないだろう。あのとき語ってくれた計画がもし事実なら、もうすぐこの部屋に警官がやってきて、ここにある、現金輸送車が運んでいたものとナンバーの一致する現金と爆殺死体を見て、俺を逮捕する。魔法の監禁部屋から、それよりちょっとリアリティのある似たような場所に移動するわけだ。



 金城先生は、なんで俺を癒す人cureに指名したんだろう。俺は正直者でも優男でもないし、かといって男性的な力強さなんて持ち合わせていない。ちょっとビリヤードができるだけの、学のない子ども。むしろハナゾノに出会わなければ、俺は今頃……

出原いではら遊剛ゆうごうくんっていうんだ。面白い名前だね」

 出会って間もなく、藪から棒に金城先生はそんなことを言って笑った。

「はぁ。よく言われます」

「私もよく言われる。『なごみ』の和で、金城かねしろなご

 たしかに面白い名前だな、と正直に思った。当時の自分は他の奴より少し捻りの効いた自身の本名をそれなりに気に入っていたし、それは彼女も同様なのだと思った。

「……まぁ、その点あんたもそうだよね」

 突然話を振られたハナゾノはたじろいでしまった。あ、あ、あ、と発音に困り、やがて発言をあきらめてただにこりと微笑んだ。

 花山はなやま園子そのこ。彼女の名付け親は、きっと遊び心にあふれた人物なのだろう。苗字と名前を縮めると、花園ハナゾノ。意識したネーミングなのだろうか。

 苗字にまでかかった言葉遊びは珍しい、センスのある両親なんだろうね。遊剛が何の気無しにそんなことを投げかけると、初対面の彼女はばつが悪そうにぎこちなく微笑んだ。

 

 かすかに眠気を感じた。

 遊剛はそのまま、それには抵抗せずにその場で身体の力を抜くことを試みた……

 つかの間、外から階段を駆け上がる音が聞こえた。瞬時に目を見開く。そうだった、彼女の計画通りであったら、そろそろ警察がここにやってきてもおかしくない。まぁ、三億円事件の犯人、という肩書を得られるのなら、逮捕の代償を鑑みても儲けものかな。遊剛は起き上がり、畳の上で胡座をかいた。


 扉が数回強く叩かれ、のちに乱暴に蹴り開けられる。鍵はかけていない。

「抜けられてる……」

 若い男の声がした。靴を履いたまま部屋に入ってきた彼は制服を着ておらず、何やら慌ただしい素振りで遊剛を見る。

「あ、おい。お前……自力で抜け出したのか? それとも……」

 遊剛はきょとんとしたまま男を見た。彼は明らかに、ことの顛末を知っていそうだった。

「……シュリの仲間、なんですか?」

 彼女の言葉を思い出す。蟻坂アキラなる人物、そしてもう一人いたはずだ。この男は、そのうちのどちらかなのだろうか。とりあえず、尋ねる。

「ああ、そうだよ」

 彼は頭を掻きむしりながら答えた。

「お前、どこまで知ってんの」

「……っていうと?」

「俺たちがやろうとしてることだよ」

 超能力を用いた、現金約三億円の強奪……?

「俺、殺されるんですか」

 今、ここで。

「……あー。話を飛躍させんな。そんなこと言ってねぇだろ! 質問に答えろって。どこまで知ってんの? 教えろよ」

 遊剛は言いよどんだ。男は舌を鳴らす。

「黙んな! 早くしろ。答えなきゃ殺すぞ!」

「えーっと……」

 記憶の限り、遊剛はこれまでの顛末を洗いざらい語る。瀕死の自分を助けてくれたシュリ、やってきたセールスの男、そして、彼女が語った計画のこと。

 要領を得ない遊剛の説明を頷きながら聞き終えた男は、なにやらブツブツと漏らす。あいつ、こんなことまで……

「なぁ。お前。『この部屋』から、どうやって脱出した」

「時計が隠されてるのを見つけたんです。それを壊したら、時間が巻き戻らなくなった」

 明らかに、この男はシュリの能力について知っている。

「お前知ってたのか?」

「なにを?」

 男は舌打ちし、落ち着かなさそうに脚を揺らす。

「この部屋の仕組みについてだよ」

「いや。模索してるうちに気づきました。これは……彼女の『超能力』なんですよね?」

「なんでお前……まさか、お前も……!」

 男は一瞬たじろぐ。

「いや。俺にはそんな力はないです。ただ、超能力者っていうのが実在する、ってことは……知り合いから聞いてて。彼女もきっとそうなんだって」

 そして、能力には必ずそれを破るための弱点がある、ということも知っている。

「なるほど……」

 終始苛立っていた男の様子が打って変わって、落ち着いた素振りをみせた。

「なぁ。……ちょっと困ったことになっててな」

 はい、状況が飲み込めないまま、遊剛は頷く。

「俺たちの計画が……盗まれたみたいなんだ」

「金が?」

「それも……ある。でも、それだけじゃない」

 俺たちの、と発声してから一瞬詰まり、呼吸してから再び言う。

「俺たちの、『三億円事件』そのものが盗まれたんだ」

 どういう意味なんだろう。遊剛は理解できない。

「なぁ。お前はシュリと仲良くなったんだろ? 選ばないか。ここで今俺に殺されるか、このまま刑務所に無実の罪で入るか、それか」

 男は一拍置いた。

「俺たちに協力するか」

「えっ?」

「速攻で決めろ。お前は能力について知ってるんだろ? それに、俺たちと関わった以上、もとの生活には戻れないと思え」


 もとの生活? そんなもの、腕を失った時点でとっくになくなってるよ。


 おそらく、この男も超能力を持っているのだろう。彼の言うここで殺すという言葉は決して脅し文句ではなくて、実際にそれができるのだろう。


「……決まってます。俺を、仲間にしてください」

 まだなにがなんだか分からないが、とにかく、それが最善に思えた。

「なら良かった。急げ、移動するぞ」

 彼の背を追い、部屋から出る。しばらく歩いた先に、軽自動車が路上駐車してあった。男は運転席に飛び乗る。遊剛は助手席の扉を開けた。ギアが入れられる。男はアクセルを踏んだ。


「お前、クリスチャンなの?」

 ハンドルを握りながら、男は言った。

「いや、違うけど……」

 なぜ? 遊剛は疑問に思ってから、自分が首からロザリオをぶら下げていることを思い出す。

「それ。蟻坂も同じものを持ってた……」

 彼は発言ののち、自身の言葉にハッとしたように眉を上げた。腕を伸ばし、乱暴にロザリオを手元に寄せる。

「なんでお前がこれを持ってるんだ……? お前、蟻坂と……会ってるのか?」

「いや。これは拾ったんです。……説明するとややこしいけど、さっき死体を見つけて……」

「死体」

 男はブレーキを踏んだ。信号が赤になっている。

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