第6話 英雄の帰還

 雪はまだ降らないが、冬の冷気が肌を刺す寒空の下。元黒川領と元白山領を支配下に置く現灰原領の本拠となるのは、長らく灰原家が治めてきた小さく狭い領地の中心にある城だ。城の規模は特に大きいわけではなく、弱小国に似つかわしい小さく質素な城。しかし今ではその小さく質素な城が三国を統治する中心的な役割を果たす政務の中心地となっていた。

 元黒川領と元白山領、そして灰原領。三国から政務に関する人間がひっきりなしに出入りする日も少なくない。なんせ灰原領は去年の夏まで自力で独立を守ることすらできない弱小国。それが一瞬のうちに三国を統治するに至ってしまったのだ。急激に広がった国内を治めるために必要な情報を運んでくる者や、城にて決定が下された内容を各地に伝える者。そう言った者達の出入りが頻繁なのは三国を支配下に置いてから間もない灰原家にとって当然のことでもあった。

 そんな毎日が当たり前のように行われている灰原家の本城。その城門の前には一人の少女が立ち、門番の男達と押し問答を繰り返している。

「どうか・・・どうかお願いいたします! 私共の明日は灰原様のお力なくしては・・・」

「ええい、いい加減にせぬか! 今日で何日目だ!」

 城内に入れてくれと懇願する少女。その少女の必死の訴えと真正面からの侵入を阻む門番。その光景はすでに数日、そして日中だけでなく夜間もやむことなく繰り広げられている。

「お願いいたします! どうか灰原様のお力を我ら緑沢にお貸しください! このままでは緑沢は滅んでしまいます!」

「何度も申しているであろう! 灰原は今他国を助けている余裕などないのだ。殿も心苦しい思いをしていると聞いている。しかし動けぬものは動けぬ。いい加減に諦めぬか!」

「諦めませぬ! お力をお貸し願えないのであればせめて、せめて灰原昇太郎様のお知恵を貸し下さい! 我らにはもう、他に頼れるところがないのです!」

「あぁー、もうっ! いい加減にせい! 何を言っても灰原は手を貸せぬのだ! そしてお主が誠に緑沢の姫であろうと城に入れるな、これは上からの命である」

 城内へ入れてほしいと懇願する少女を門番は幾度となく突き放す。しかしその門番も表情は決して晴れているというわけではない。

 灰原家は半年前に一度滅亡を経験している。しかしその滅亡を奇想天外とも超人的とも神憑り的とも呼べる灰原昇太郎の策によって灰原家を立て直したどころか、対立することさえできない黒川家と白山家を支配下に置くという三国を支配下に置く結果に至ってしまった。その滅亡からの再興を知っている灰原家のものだからこそ、国の滅亡を回避するために助力を申し出てきた少女に強く当たれない。門番たちはただただ上からの命令だと言い続けて少女の申し出を拒む他に手立てがないのであった。

 しかし少女も折れる気は毛頭ない。自らの国を守るためならばどんな犠牲でも払う、それほどの決意と覚悟を持って灰原家へとやって来ている。故に門番たちとの押し問答が何日にも渡って繰り広げられようとも、一切引き下がることなく助力を訴え続けるのだった。

 そんな押し問答がしばらく続いた後、日が暮れて来るとさすがに少女の体力も限界に近付いたのだろう。助力を求める声も小さくなり、門番を押し退けてでも城に入ろうとする気力も削がれて来る。少女は悲しそうな顔をしながらも、しかし固い決意は揺るがないという意思を眼で表しながら、今日のところは城に背を向けて歩き去っていく。

「帰った・・・か?」

 少女の声と姿が確認できなくなったところで、城内から他の門番が顔を出す。彼らはここ数日、勤務時間中に幾度となく少女と押し問答を繰り広げた者達だ。だからこそ少女が見せた表情の意味はよくわかっている。

「いや、あれは明日もまた来るな」

「ああ、あの顔は諦めてねぇよ」

「助けてやりたのはやまやまなんだよ」

「ああ、気持ちはわかる。気持ちはわかるんだが・・・」

「無理なものは無理だ」

 灰原家は急激に広がった国内を安定させて正しく統治するために多くの人員を割かなくてはならない。国内の安定を失えば亡国の危機へと繋がる。よって国内の安定は最重要課題なのだが、弱小国の灰原家がもともとの領地をはるかに上回る二国を飲み込んだことにより、内政の難しさと忙しさが何十倍にも広がっている。そんな状況で他人を助けに行くことなどできはしない。それが灰原家の置かれた現状であり、門番たちも本心では緑沢家を助けたいのだが、現状がそれを許さない事もまた十分理解しているのだった。

「あの気概は買ってやりたいが・・・なぁ」

 立ち去っていく少女の背中を門番たちは複雑な思いで今日も見送るのだった。




 緑沢家の姫である少女。彼女は灰原の城から歩き去り、その足で向かったのは灰原の城から少し離れた寺であった。

「住職様、ただいま戻りました」

 寺に足を踏み入れた少女。彼女は寺の住職である年老いた老人を視界に捉えると、すかさず帰ってきたことを告げる挨拶を行った。

「おぉ、今日も帰りましたか」

「はい」

「うまくいかぬものじゃのう」

「実情はわかっています。ですからこれも致し方ありません」

 緑沢家の姫である彼女は単身灰原領へとやって来た。自らの命を捧げてでも灰原家に助けてもらわなければ緑沢家の存続は不可能なのだ。そのため彼女は灰原領へやって来て毎日灰原の城へ朝早くに出向いては日が落ちるまで嘆願を行っている。そして日が暮れてから日が昇るまでの間、彼女は灰原領内の片隅に位置する寺に宿をお願いしていた。その宿に彼女が帰って来るということは、彼女の嘆願が受け入れられなかったということだ。

「明日も朝、日の出と共に城へ参ります」

「うむ、日々の積み重ねはいずれ花開くはずじゃ」

 本来ならば数回嘆願を行って受け入れられなかったら帰国するのが普通だ。しかし彼女は灰原領にとどまり、毎日日の出から日没まで嘆願を繰り返している。その姿はいずれ灰原家の人の心を打つはずだと、彼女はそのわずかな希望に全てを賭して嘆願を毎日行っていた。

「良い結果を願って毎日夕餉は用意しておらぬ故、今から支度となる。しばらく部屋で待っていていただけるか?」

「厄介になっている身でございます。夕餉をいただけるだけで十分でございます」

 少女は住職に一礼した後、自らが寝泊まりさせてもらっている一室へと向かう。望まない毎日の帰路、幾度となく歩いた寺の廊下。そのおかげで自分に与えられた一室までの道のりを歩くことは同じことを毎日繰り返しているかのようだ。そして今日も自らに与えられた部屋へと慣れた足運びで向かい、いつも通り引き戸を開ける。

「・・・え?」

 引き戸を開けた先の光景も毎日変わらないもののはずだった。朝自分が包まれていた布団がたたんでおいてある簡素で質素な部屋。朝自らの手で畳んだ布団だけが部屋の中にあるのが毎日見ている恒例の景色。今日もその景色を見ることになると思っていた彼女だったが、今宵はその恒例の景色とは少し違っていた。

「あの・・・」

 部屋の中にはすでに布団が敷かれており、そこに一人の男性が眠っている。見たことの無い男性だが、布団の上からでも華奢で線の細い頼りなさそうな人物だということだけは見て取れた。

「おぉ、すまぬのう。言い忘れておったわい」

 部屋に入るのを躊躇っている少女を見かけた住職が小走りで駆けつける。

「実はつい先ほど、緑沢から来た商人がこの者を運んできたんじゃ。なんでも行き倒れのようでな。この寒空の下で一晩放っておくと無事ではすまぬと拾ったそうだ。それで預けられそうな場所が同中にないかと探し、この寺まで連れてきたようだ」

 住職の話によれば布団で眠る男性は生き倒れで、たまたま緑沢領から灰原領へと向かう商人の一行が通ったため男性は助かったようだ。そして道中にあるこの寺に預けて行ったということなのだが、少女の耳にはその説明が全て入ってはいなかった。

「緑沢にいた商人が・・・灰原に逃げてきましたか・・・」

 商人という者達は実に情報と利害に聡い。つまり緑沢領は間もなく戦火に見舞われるという情報を彼らは掴んだのだ。よって持てるだけ財を持って緑沢領を後にしたのだ。それは緑沢家の戦をさらに苦しくすることと同じである。

「商人達は緑沢に勝ち目はないと踏んでいるのでしょう。戦火に見舞われる前に逃げ出したのも、緑沢にはもう生きながらえる力がないという考えですね」

 少女の表情は悲しみに染まり、まとう空気は落胆と絶望。生まれ育った地の危機に何もできない無力感と共に、少女は明日こそは嘆願を聞き入れてもらわなければならないと、いやそれ以上に今すぐにでも嘆願に行かなければならないという思いに駆られる。

「確かに商人が立ち去れば、戦に必要な資材を手に入れるのも難しくなるのう。しかしだからと言ってもう負けが決まったわけではないじゃろう。焦ってもしかたのないこともある。落ち着いて、自分にできることを成しなされ」

 住職はそういて少女を落ち着かせる。生まれ育った国を守らなければならない、共に過ごした家族や友人たちを守らなければならない。その思いがより一層少女の心を不安定にさせるが、住職の言う通り焦っても急いても好転しないことだってある。慌てて何かに取り組むよりも、確実に少しでも良い結果につながるように冷静に考えて動かなければならない。

「・・・すみません」

 深い呼吸を何度か行い、少女は僅かばかりではあるが平静を取り戻した。

「うむ、では夕餉までしばし部屋で待っていてもらえるかのう。新たな客人と同じ部屋で悪いが、急な来客で他の部屋がまだ空いておらぬのでな」

「はい、お心遣い感謝いたします」

 少女は住職に感謝の意を伝えるために頭を下げ、住職はその行動を見てひとまずは落ち着きそうだと安心してその場を立ち去った。

「行き倒れ・・・ですか。線の細いこの方ならば、そうなってもおかしくはありませんね」

 部屋に入るなり布団で寝ている男性を見て、少女は率直に思ったことを独り言でつぶやいた。男性に起きる気配はない。部屋に二人きりになっているとはいえ、しばらくは一人でいるも同然の状態が続きそうだと、少女は男性に対して特に警戒心を持つことなく部屋の片隅に腰かけ、夕餉の時が来るまで静かに待つのだった。




 もう何度目か、そう考えるのはやめた。昇太郎は気が付けばまたしても布団の中で目覚めている。木造の建造物の一室にいることから現代に帰っていない事だけは容易に想像がつく。後はここがどこなのか、それをどうやって確認するのかが重要だ。何度目かなのかと思えば思うほど、ほとほと自分は戦国の世での生き方が向いていないのだと思い知らされる。

「おや、お目覚めになられましたか?」

「・・・へ?」

 目が覚めて周囲をキョロキョロする昇太郎。その昇太郎の視界の外から女性の声が聞こえた。驚いて声の方に視線を向けると、小さなお膳に乗った料理を箸で丁寧に上品に食べている少女がいた。

「え、あの・・・」

「私のことはお気になさらず、ごゆっくりお休みください。他の部屋が空き次第私がそちらの方へ移りますので」

「あ、はぁ・・・」

 そう言って食事を続ける少女。上品な食べ方から見て、この時代の一般人ではないことだけは容易に想像がつく。完全に木造建築の一室にいるためここがどういった建物の一室なのかは昇太郎にはまだ把握できていない。それを少女に問おうかと悩んでいた時、部屋の引き戸が開けられて一人の老人が姿を現した。寺などでよく見かける僧侶の格好から、寺かそれに近い建造物だということが情報として頭の中に出現する。

「住職、目が覚めたようです」

「おぉ、お目覚めになりましたか」

 少女に住職と呼ばれた老人。どうやらここは寺で間違いないようだ。昇太郎が自分が今いる場所を頭の中で確定させていると、少女は食事を終えたのかスッと立ち上がる。

「おや? 花菜(はな)殿。どちらへ?」

「部屋の準備ができたのでございましょう。ならば休みが必要な方よりも私が動いた方がよろしいかと」

「慣れた部屋の方がよろしいかと思いましたが・・・」

「構いません。案内してください」

「かしこまりました」

 花菜と呼ばれた少女は住職よりも先に部屋を出て行く。その時に自らが食べ終えた食事のお膳を持っていくのを忘れない。

「あぁ、あなたがどこのどなた様かはご存じありませんが、ここは来るものを拒まない寺でございます。ごゆっくりお休みくだされ」

「あ、はい。ありがとうございます」

「それはそうと、腹は空いておられますかな?」

「あ・・・はい。食欲はあります」

「では、後程夕餉をご準備いたしましょう」

 住職は柔らかな笑顔でにっこりとほほ笑む。

「あの・・・いいんですか?」

「いい、とは?」

 昇太郎の問いに住職は少し眉を寄せる。しかしすぐに質問の意図に思い至ったのか、昇太郎の言葉を待つことなく答えた。

「食べるものならお気になさることはない。ここは灰原領内。故に隣国や周辺諸国のように不作にはなってはおりませんのでな。嵐にも負けず、例年とほとんど変わらぬだけ食べ物が取れております」

 住職はそう言うと「安心していいよ」と言うかのような笑顔を見せて少女と共に廊下へと出て、部屋の引き戸を閉めた。

「・・・灰原領に・・・来たんだ」

 住職の言葉によってこの寺が灰原領内にあることがわかり、昇太郎はまるで長らく離れていた故郷へと帰って来たかのような心境になる。自然とガッツポーズのように握る拳に力が入り、表情には何とも言えない笑みが浮かぶ。

 その笑みの理由はただ帰ってきたということだけではない。青森家、赤嶺家、緑沢家の置かれた現状を見聞きしてきたからこそ、灰原領が不作を回避できたという結果を聞いた喜びもあっての笑顔。住職の説明は住職が思っていた以上の情報を昇太郎に伝えており、その情報が昇太郎の心を高揚させているのであった。

 そんな昇太郎の様子の変化など知らない花菜と住職。二人は寺の廊下を歩きながら言葉を交わす。

「そう言えば聞いたことがありませんでしたが、灰原領は何故不作を逃れることができたのでしょうか?」

「ああ、それは周辺諸国の方々は皆不思議に思うておりますな。付き合いのある寺やよく足を運ぶ行商の方々にも同じようなことをよく問われます」

「では住職は何故不作を逃れられたかはよくご存じなのですね」

「もちろん。この寺の門徒も灰原昇太郎様の命に従いましたのでな」

「灰原昇太郎・・・」

 今、緑沢家に最も力を貸して欲しい人物の名前だ。戦に置いては敵味方を誰一人として死なせずに滅んだ灰原家を復興し、国力で上回る白山家と黒川家を併呑した。さらに内政では特に農作物に重点を置いた治水対策や農地拡大により嵐による被害を逃れて例年と変わらない収穫量を得ている。文武ともに優れた知性を持つ灰原昇太郎という人間が緑沢家の為に力を貸してくれる、それ以上に欲しいものなど今の花菜には何もなかった。

「・・・して、どのような命が下ったのですか?」

「はい。我らの寺の門徒たちが行ったのは川の幅を広げるというものでございました」

「川の幅を広げる?」

「はい。川の幅を広げることで水量が増してもしばらくは氾濫が起こらない。さらにその川の周囲を反乱がおきても決壊しないように固めました。これにより二重に川の氾濫を防ぎ、水害から田畑を守ったということにございます」

「なるほど、二重に水害の対策をしたということですか」

「さらに、ですが・・・」

「ま、まだあるのですか?」

 花菜はてっきり住職の話は終わったものだと思っていた。しかしそれはまだ序の口。この後住職の口から語られる灰原昇太郎の下した命令に花菜は、灰原昇太郎という名前の大きさと重さと偉大さに背筋が凍る思いをすることとなる。

「川の曲がりの一部、それも田畑がない場所はあえて固めずに決壊しやすくしました。これにより川の決壊による被害は田畑や人里の無い場所に限られ、田畑や人里はほぼ嵐が来る前と変わらぬ生活を嵐の後にも送ることができました」

「な、なんと・・・」

「さらに山や谷の場所から灰原昇太郎様は嵐で風が強く吹くであろう場所を呼んだのだと思われますが、いくつかの場所には田畑に直接強い風が当たらぬように工夫を凝らしておられましたな。あるところには木の板で風の向きを変え、ある所には風上に土を盛って風を防ぎ、またある所では田畑を覆うように木の屋根を取り付けたところもございました」

「木の屋根ですか? そんなもの、嵐ですぐに使い物にならなくなるでしょう」

「はい。ですが嵐の日の一日だけ、その日だけ田畑が無事であればよいのです。そう考えれば木の屋根はすぐに使い物にならなくなりましたが、田畑は嵐の日だけは何とか守られました」

「・・・」

 花菜はもう言葉を失ってしまう。自らの想像の及ばない領域の発想とそれを実行に移して結果を出してしまう力。まるで起こりうる全てが想定できており、それを防ぐために必要な策が全て完璧に頭の中で無駄なく考えることができているようだ。そう、それはまるで未来を見てから準備をしているかのようであった。

「さらに田畑には雨水も溜まらぬように排水溝という水を流すための道も設けました。わざと川を決壊させたため水溜りができましたが、その水溜りも先ほどの排水溝を流れ出た水も各所に設けられた貯水池に流せて溜められるようにできております。これにより雨の多い日には水を溜め、日照りの日には水を汲んできて使えるようにできております」

 説明を聞いているだけではもう花菜の頭の中では何がどうなっているのかさっぱりわからなかった。もしかすると絵図を見ながら説明されても理解できないかもしれない。それほど緻密に、しかし広大で大胆な治水工事を指示したことになる。

「さらに溜めた水は川の下流に流せるようになっておりましてな。雨が降り続いても貯水池が溢れるということもないようにできております。さらに申しますと昨年、嵐が来たのは収穫時の直前。灰原昇太郎様が三国を併呑なさってから一月程で嵐が来ましたが、その一月の間にほとんどの作業で効果が出るようにできておりましてな。いやぁ、作業の指示と言い必要最低限を先に完成させるという手腕といい、もはや我々にはあの方が何を言っても理解できませぬが、誰もがついて行くという決意を固めた時でもありましたな」

「そ、そうですか」

「今はさらに治水工事も進んでおりましてな。耕作面積も広がっており、昨年の嵐程度ならば問題なく例年以上の収穫が確約されているようなものです。さらに畑の肥やしの考え方も違いますし、作業に当たる者達への金銭の支払いも滞ることはございませんでしたのでな。これにより灰原領のみならず、旧白山領の者も旧黒川領の者も灰原昇太郎様に忠誠を誓いました。さらに決壊しやすくした川の一部の水が流れる道は戦の際には空堀、水が溜まっていれば堀としても使えるという・・・」

「あ、あの、もうけっこうです」

 恐ろしく頭のいい人間だということは理解していた。しかしここまで想像を絶することをやってのける人間だとは思っても見なかった。住職も最初は平静状態で話していたのだが、徐々に話す内容に熱を帯びてきて最後の方は花が言葉を挟むのも難しくなるほど怒涛の言葉の嵐が吹き荒れていた。

「まぁ、私どもは凡人でしてな。実際に作業している時にはよくわからず、正直この作業がどのような効果があるのかと皆疑問を持っておりました。しかしそのおかげで嵐という難を逃れることができ、民衆は皆灰原昇太郎様をお慕いするということになったということにございます」

 すでに花菜のために用意された部屋の前には到着していた。しかし住職による灰原昇太郎という人物の話が過熱していたため、部屋の前で長々と立ち話に近い状態になっていたのだった。

「長々と話して申し訳ない。しかし、あの方は我々凡夫の考え至らぬことをごく普通に当たり前のように考えるお方にございます。緑沢家の救済に灰原昇太郎様をお頼りになられた、その判断は間違いないでしょうな」

 花菜が持つお膳を住職はゆっくりと受け取り、ニコリと笑みを見せる。

「諦めずに努力するものを御仏はお見捨てにはなりませぬ。緑沢家救済にご尽力すれば必ずや道は開けるものと存じます」

 住職はそう言うと花菜の部屋の前から立ち去っていく。その背中に花菜は一つだけ、住職の語った中になかったことが気になって問いかけた。

「ご住職は・・・灰原昇太郎様にお会いになられたことはございますか?」

 廊下を行く住職は足を止めて振り返る。

「私は灰原昇太郎様をこの目で見たことはございませんな」

「そうですか。では、どのようなお方かは・・・」

「残念ながら、私にはわかりかねますな。ですがこのおいぼれ、一度はお会いしたいという願いだけはずっと持っております。いつかその願いも御仏が叶えてくれるやもしれませぬな」

 住職はそう言い残し、再び廊下を歩いていく。花菜は住職が見えなくなってもしばらくその場に立ち尽くしてしまう。寺の住職という自らの心を冷静沈着に保つ修行を長年行ってきた人間があれほどまで熱をもって話す偉業を成した人物。その人物の存在の大きさを感じるとともに自らの小ささを思い知らされる。しかし相手が大きければ大きいほど今の花菜には頼りがいのある人物であるということに他ならない。

「灰原昇太郎様に必ずお会いして、緑沢救済のお力添えをいただかなければ・・・」

 花菜は灰原昇太郎という人間のすごさを知るとともに、その計り知れない力があれば必ず緑沢は助かるという、希望的観測ではあるものの確信のようなものが彼女の心にはあるのであった。

「あまり遅くまで起きていては明日の嘆願に差し障りますね。床に就き、明日こそは必ずや城内に・・・」

 花菜は今まで以上のやる気に満ちた表情のまま、用意された部屋の中へと入る。明日も一日、日の出から日の入りまで緑沢救済のための嘆願を行わなくてはならない。そのために英気を養おうと、花は早めに床に就くのであった。




 翌朝、昇太郎は思いの外早く目が覚めた。日の出前の外がまだ暗い時間帯、現代日本でもここまで早く目が覚めたことはないだろうという夜明け前の早朝。昇太郎は寒さに耐えながら布団から這い出る。

「・・・寝過ぎかな? 早く目が冷めちゃったよ」

 倒れているところを寺に運ばれ、そこからしばらく眠っていた。さらに夕食後、これと言ってすることもない戦国の世の寺の中。やることがなければなるしかないと言わんばかりに床に就いた昇太郎は現代日本で思っている以上に早寝だったようだ。そして早寝をすれば朝起きるのも早くなる。早寝早起き、健康の第一歩をまさか戦国の世で行うことになるとは思わなかった。

「こんなに早く起きても何もできないよね。静かにしていないと寝ている人の邪魔にもなるし・・・」

 抜き足差し足忍び足、音にとにかく気を付けようと心掛けた昇太郎。朝の寒さも相まってか尿意を感じており、ひとまずトイレまで静かに歩こうと部屋の引き戸を開けたその時だった。昇太郎の思いを裏切る光景がそこには広がっていた。

「あ、あれ?」

 目に映るのはまだ日の上らない暗い空の下の寺の光景。しかしすでに寺の門徒たちは廊下の雑巾がけから境内の掃き掃除など、寺を綺麗に清潔に保つ修行の一つをとっくに始めていた。

「ああ、御客人。あちらで朝食の準備ができておりますので良ければどうぞ」

「あ、はい・・・ありがとうございます」

 門徒の一人に朝食が用意されている場所を教えてもらい、ひとまず尿意を解消してからその場所へと向かう。するとそこではすでに花菜が朝食を食べ終えようとしているところであった。

「あ、あれ? 早く起きたと思ったのに・・・もしかして寝坊?」

 寺の朝は早いと思ってはいたが、まさか日の出前からもう本格的に動き出しているとは思わなかった。さらに言えば寺の人間ではない花菜よりも遅く動き出していたのに、早起きした自分は健康的だなどと思っていたことが情けなくなる。

「おはようございます。体はもうよろしいのですか?」

「あ、はい。大丈夫です」

 朝食を終えた花菜は席を立つ。視界に入った生き倒れの男性くらいにした昇太郎のことを思っていない彼女は、ひとまず体の心配はするもののそれ以上の興味はない様子だ。さらに言えば彼女はどこかへ急いで行くようで、朝食を終えるなり出立の準備に取り掛かっている。

「あの、えっと・・・」

「花菜です」

「あ、花菜さん。こんな朝早くからお出かけですか?」

 昇太郎は花菜の行く先が気になったわけではないが、これと言って話す内容がない状況を打破しようと話題を考えた結果が行き先であった。

「これより灰原様の城へと向かいます」

「え? 灰原の城に?」

 灰原の城と聞いて昇太郎の頭の中にはかつての記憶がよみがえる。琴乃に拾われて連れて来られ、戦のために一度は城を失い、そして再び取り戻した。あの時の記憶が鮮明によみがえる。

「ええ、それが私の役目なのです。では私は行かなければなりませんので」

 花菜が早々に出立をしようとしている時、昇太郎は彼女について行こうという考えが頭をよぎる。灰原昇太郎という名前を持っているが、昇太郎は灰原家の地理に詳しいわけではない。道案内というわけではないが、目的地が同じ人間について行けばそれだけ簡単に確実に目的地に到着できるという考えもあってのことだ。

「あ、あの、僕も一緒に行ってもいいですか? 灰原の城が行き先だったので・・・」

「ならばご自分で勝手に行けばいいでしょう。私は急ぐのです。あなたの食事を待っている時すら私には惜しいのです」

「い、いやそう言わずに、少しだけ待ってくれませんか?」

「待ちません。私には時がないのです。あなたは・・・えっと・・・」

 生き倒れの男性の名を聞いていなかったため、花菜は目の前の人物が誰かということがわからない。

「あ、僕は・・・」

「いえ、あなたの名は結構です」

「・・・え?」

 自己紹介をしていなかったことに気付いた昇太郎が自己紹介をしようとした時、花菜は名前を聞く前に昇太郎の言葉を制する。

「食糧事情が豊かな灰原を頼って途中で行き倒れたのでしょう。そのような方の名を聞いても意味がありません」

「え? いや、そうじゃなくて僕は・・・」

「とにかく、私は急いでいるのです! こんなところで無駄に時を費やすわけにはいきませんので、それでは失礼します!」

 花菜はそう言うとさっさと寺から出て行ってしまう。昇太郎は一人寺に残されたが、今なら追いかけようと思えば追いかけることができる。しかしその時、昇太郎の腹が空腹を訴えだした。昇太郎はまだ育ち盛りの学生だ。体がいかに早朝と言えども朝食を欲するのは致し方ない。

「せっかく用意してくれたわけだし、いただこうかな」

 昇太郎は用意された朝食が乗ったお膳の前に腰を下ろして手を合わせる。そして箸を持ち、いつもより格段に早い時間帯の朝食にありつくのであった。




 朝食を食べた昇太郎は住職に灰原の城への行き方を聞いて寺を出立する。聞いたとおりに行けばいいだけの簡単な道かと思いきや、そこからも昇太郎にとっては難易度の高い移動となる。

 住職の話からいくつか目印を聞いたのだが、その目印を昇太郎は見つけることができなかった。大きな木と言われても現代日本の都会で生まれ育った昇太郎から見れば、戦国の世の木々などどれも巨大なもの。さらに昇太郎が知っている灰原領の景色はごくわずかな範囲な上に夏の景色しか記憶にない。様変わりした冬の景色では過去の記憶も当てにならず、聞いた目印も見つけるのが難しいという状況だった。

 そんな中でもなんとか目印を見つけ出して目的地への道を歩く昇太郎。すると遠目に城と呼ぶよりも館と呼ぶのがふさわしい建物が見えて来る。その建物の周囲には人々が住む大きくない町も見え、ようやく目的地である灰原の城が見えたと安堵した。そこからは目に見える灰原の城へと歩を進めていく。田舎町を思わせるややまばらに家々が立った町を通り抜け、灰原の城の前までやって来た。その見た目は季節感もあってか多少は変わっているものの、半年前の記憶と合致する。

「懐かしい気がする。半年くらいしか経っていないのに・・・」

 半年前の濃密な時間が思い起こされる。濃密すぎてそれ以外の記憶などかすんでしまうほど、あの日々は充実していて楽しかった。現代日本にも良いところがあって悪いところがあるように、この戦国の世にも良いところがあって悪いところがある。しかしその良いところと悪いところを比較した場合、昇太郎は戦国の世の方が自分に向いているのではないかと思ってしまう。それはもちろん現代日本で手に入れた知識があってこそのことではある。しかしそれ以上に人とのつながりや生き様など、時代の変化とともに変わってしまった日本の在り方が今よりも昔の方が性に合っているのではないかというのが昇太郎の思い出もあった。故にどこのことかもわからない戦国の世にいることに昇太郎は充実しているのであった。

「あれ? あれは・・・」

 灰原の城の門が目に見えた時、そこには花菜の姿があった。彼女は灰原の城の前に跪いて熱心に大声で何か言葉を発している。

「お願いいたします! 緑沢にお力をお貸しください!」

 真剣な様子と大きな声から、彼女が何か大きなものを背負って灰原の城にまでやって来たことが容易にうかがえる。そしてその何か大きなものは、彼女の言葉から察するのは容易であった。

「花菜さん、緑沢家の人だったんだ」

 青森家は緑沢家へ援軍を送ることを断念している。赤嶺家の侵攻がいつ始まるかわからない緑沢家にとって、今は一人でも味方が欲しい上に一刻の猶予もない。今朝の花菜の態度や様子も事情が分かれば納得することができた。

「あっ!」

 花菜の動向に目を留めていた昇太郎だったが、新たにそこに近づく一行に目が留まった。数名の部下を引き連れた一行だが、その中の二人は乗馬している。そのうちの一人は女性であり、それは昇太郎が会いたいと思っていた一人であった。

 一行は灰原の城の城門の前にたどり着くと、乗馬していた女性が下馬して門番に道を開けるように告げた。

「雪絵です。薄墨殿と共に旧白山領の農村の見聞より戻りました」

「これは雪絵様、ご無事のご帰還何よりです。どうぞお通りください」

 花菜とは打って変わって門番は道を開ける。それもそのはずだ。雪絵は一度灰原家から捨てられたが、昇太郎が来たことにより起こった一件で再び灰原家の姫として灰原家に迎え入れられた。それ以後は灰原家の為に身を粉にして働いており、今ではすっかり雪絵は灰原家の姫としての地位を確立していた。

「そ、そこの方! 灰原家の姫君とお見受けいたしました! しばし、しばしお時間をいただけませぬか!」

 門番と雪絵の護衛に阻まれながらも、花菜は果敢に雪絵に声をかける。それもそのはずだ。彼女は灰原の城にやって来てから連日緑沢家の救済を嘆願しているが、全て門前払いで灰原家の中核を担う人間に会ったことがなかったのだ。それが今、目の前に灰原家の息女がいる。ならばこの機に声を上げないという選択肢はない。

「私は緑沢家の姫、花菜と申します! どうか少しだけ、少しだけお話を・・・」

「ええい、やめぬか! 雪絵様に向かって無礼な!」

 必死の嘆願も護衛と門番たちによって遮られてしまう。それでも挫けず彼女は声を上げ続ける。

「緑沢にお力をお貸しください! お願いいたします! もう我らには他に頼れるところがないのです!」

「・・・すみません。今の灰原には・・・緑沢を助けるだけの余裕がございません。おそらく父上様からもお達しがあったと思いますが、今の灰原は動くことができません」

 花菜の必死の嘆願、国を救いたいという思い、それをまっすぐに受け取った雪絵は複雑な表情を見せながらも花菜に灰原家退かれている現状を話す。

「では、ではせめて・・・灰原昇太郎様のお知恵をお貸しいただけませぬか!」

「そ、それは・・・」

 灰原昇太郎という名を花菜が出した瞬間、雪絵の表情はさらに複雑なものとなる。何かを言いたそうな、しかし言うことができない。困惑と動揺が雪絵から見て取れる。

「どうか・・・どうか・・・お願い・・・いたします・・・」

 この機を逃せばもう二度と灰原家の中核を担う人間に会うことができなくなるかもしれない。最初で最後という最大の機会を逃せば緑沢家は終焉を迎える。そう思えば思うほど花菜は追い詰められていってしまう。灰原家の助力が得られないという結末を想像したくはないが想像してしまう。すると花菜はさっきまでの気丈で不屈の精神はどこへ行ったのやら、膝から地面に崩れ落ちてしまう。それでも雪絵に少しでも自分の話を聞き入れてもらおうと嘆願を続ける。絶望が体から力を奪い、その額が地面に着いてしまうほど頭を深く下げて体が震えてもなお、彼女は嘆願をやめはしない。

「どうか・・・どうか・・・」

 その必死な姿勢を見て、雪絵は思うところがあったのだろう。目を逸らしては目を向けてしまい、振り切って城内に入ってしまおうとするが逡巡して足を踏み出すことができない。だからといって彼女に手を差し伸べることもできない。武家の姫として生まれたものの一度は捨てられた雪絵だ。農村育ちの彼女は武家のものほど思い切った決断ができない性格だ。心優しく、穏和。故に雪絵はその場を動くことができないでいた。

 地面に膝をついて額を地面に擦り付けてまで助けを乞う花菜、そしてその彼女を見捨てることも助けることもできない雪絵。二人を中心に護衛と門番の者達の時間も完全に停止してしまっている。一度滅んだことのある灰原家だからこそ、花菜の申し出をむげにできない。護衛達も花菜と雪絵の距離だけは保つものの、それが限界で彼女を突き放せずにいた。

「あのー・・・すみません」

 完全に止まってしまった時を打ち壊すかのように、その集団に声がかけられる。止まっていた時が動き出すかのように、護衛や門番だけでなく花菜や雪絵がその声の主に視線を向ける。

「あ・・・」

 全員の視線が声の主に集まる中、雪絵の目は見開かれ口は半開きになる。それはいるはずのない人物が突如現れた驚きと、帰りを待ちわびていた人の帰還がようやく叶った喜びからだった。

「昇太郎・・・様・・・」

 門番や護衛達は昇太郎のことを見たことがある。よって彼らも突然の灰原昇太郎の登場に驚き硬直してしまっている。花菜は寺にいた生き倒れの人物の登場と雪絵の反応にまだ現状が良く呑み込めていない。そんな人達に向かって昇太郎は少々ぎこちない笑顔と挨拶のように片手を顔の高さくらいまで挙げて手のひらを見せる。

「えっと・・・久しぶり。雪絵さん」

「昇太郎様!」

 たった半年。されど半年。帰りを待ちわびた人物の帰還。雪絵は護衛や門番や花菜の視線などもう気にならない。姫のくせにはしたないなどと言われても構わない。全力で走って全力で昇太郎に跳び付いた。

「お帰りなさいませ・・・お待ちしておりました、昇太郎様」

 突然の再会に涙を流して喜ぶ雪絵。その雪絵の勢いと雰囲気に気圧された昇太郎だったが、ゆっくりと雪絵の肩を抱くように手を回す。

「ありがとう。そして、ただいま」

 動き出したはずの時は再び硬直の時を迎える。しかしその硬直は先ほどのように重苦しい雰囲気のものではない。涙を流して昇太郎を歓迎する雪絵。彼女がひとしきり涙を流して落ち着くまで、この空間の時はもう少しだけ固まり続けるのであった。


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