第9話 農村
冷えた体が触覚を麻痺させる。体には全く力が入らず、頭も働かないため考えもまとまらない。しかし一つだけわかる感覚があった。それは温もり。目を開ける力もない中、誰かが自分の体に触れる温かい手の感触だけがわかった。
温かい手の感触は優しさに満ちているかのように、優しく触れて体を何度も揺すって起こそうとしてくれている。心配そうに何度も揺する手が心地良く、このまま本当に永遠の眠りについてしまいそうになった、その時だった。
「・・・・・起きろっ!」
強烈な平手打ちが頬に叩き付けられ、それとともに脳を揺さぶるようなショックが全身へと伝達される。それにより今まで感覚を失っていた体は一瞬で目が覚めたかのように血が巡っていく。電気ショックで止まっていた心臓が動き出したかのようだ。
「うわぁぁぁぁぁっっっっっ!!!!!」
痛みと衝撃で目が覚めて体を起こす。自分が何者なのかということから思い出し、どういう状況があったのかを回想し、今がどういう状態にあるのかを認識していく。
全身びしょ濡れの状態で河原に引き上げられたようだ。あまり喜ばしいことではないがどうやらよくよく川に縁があるようだ。河原に引き上げられた昇太郎は周囲を見渡す。どこを見ても相変わらず自然が満ちた場所だ。それらを背景に一人の女性が安堵の笑顔を見せていた。
「生きていましたか。息はしていましたから何とかなってよかったです」
そう言ったのは見覚えのある綺麗な顔立ちの女の子。昇太郎が恋焦がれ、生まれてはじめて好きになった女の子だ。
「こ、琴乃さん!」
「え? ひゃっ!」
昇太郎は目の前にいた琴乃に体当たりをするかのように抱き着いた。それは今まで感じた恐怖からようやく逃れられたという安堵から出た咄嗟の行動。平静な状態の時に彼がこの行動をとれるかといえば、まず間違いなくそれは不可能だ。
「よかった、僕、助かったんだね」
安堵と安心から全身の力が抜け、女性の体にすがりつくように抱き着いている昇太郎。しかし、完全な安堵にはまだ少し早かった。
「ちょっ! 何をするんですか!」
抱き着いた手を無理矢理振り払われ、さらにもう一度顔に強烈な衝撃が走った。三途の川を渡ってしまいそうな朦朧とした意識を目覚めさせる一撃が叩き込まれたため、脳に感じた衝撃のせいか足に力が入らずに河原に座り込んでしまう。
「え、えぇ?」
まるで予想外の昇太郎。目の前に立つ女性は間違いなく琴乃のはずだ。一目ぼれをした上に喜んで夫婦になれそうだった相手を間違うとは思えない。しかし、その女性が昇太郎を見る目はとても冷たい。
「あ、あぁっ! て、手をあげて申し訳ありません。で、ですが、誰かと間違えておられませんか?」
女性は怯えるように河原に膝をついて土下座をする。震える手が本当に怖がっているのがわかる。そしてその時に琴乃とは微妙な違いがあることに気が付いた。
女性の顔立ちは間違いなく琴乃と瓜二つだ。しかし顔は少しやつれているように見え、土下座をする時に見える腕などの体も少し細い。さらに着ている服が粗末な布で作ったボロボロの服だった。領土は小さいとはいえ、姫と呼ばれる人が着る最低限のレベルを大きく下回っていると言っていい。
女性が土下座に踏み込んだのは着ている衣服から身分の違いを感じたからだ。昇太郎は琴乃と同じ場所にいて、それなりの待遇で暮らしていた。よって着る服も最低限城内に暮らせるレベルの物だ。それが女性に土下座をさせた理由である。
「私は雪絵と申します。ここからもう少し下流に行ったところの農村の者です」
目の前にいた琴乃と思われた女性は雪絵と名乗った。まるで双子のように瓜二つの琴乃と雪絵だが、その出生は武家の娘と農民の娘で大きく異なっていた。
「こ、琴乃さんじゃないの?」
「そ、その琴乃様がどなたか存じませんが、私は琴乃という名ではありません」
深々と頭を下げる雪絵。雰囲気から見て琴乃が昇太郎をからかっているようには見えない。彼女は間違いなく雪絵という名の女性のようだ。
「えっとじゃあ・・・ここはどこ?」
昇太郎は周囲を見渡す。自然に囲まれた河原は心地が良い。しかし場所がわからなければ不安や恐怖が入り混じってしまってくつろぐどころではない。
昇太郎は自分が戦国時代に来る瞬間を思い出した。いじめっ子達にいじめられ、やけになって橋から川へとダイブをしたのだ。その時に死んだと思ったのが、目覚めてみれば戦国時代に来ていた。ならばまた川に落ちたことでどこか別の時代に来てしまったのかもしれない。
「ここは白山家の領地ですが・・・他国から来られた方でしょうか?」
雪絵が額を河原に擦り付ける勢いでしていた土下座の顔をあげる。琴乃とそっくりな様子に一瞬ドキッとした昇太郎だが、すぐさまここが白山家の領地だとわかると安堵の息を吐いた。
「とりあえず時代は変わってないのか」
「は、はいぃ?」
「あ、いや、独り言だから気にしないで」
昇太郎の独り言の意味が分からない雪絵だが、説明したところで理解もされない。とりあえずここはスルーしてもらわなければ話が進まない。
「ここから灰原家の領地向かうにはどう行けばいいの?」
「灰原家の領地ですか? 川沿いに行けば着きます」
「川沿いか」
「はい。ですが歩いて二日はかかるかと思われます」
「ふ、二日・・・」
その時代に生きる現地民の直感で二日となれば、昇太郎にとってはそれ以上の長い時間になる。自転車や車や電車などが無い時代、人々は自分の足や馬を使うしかなかった。それを知ってしまえば、現代に生きている自分がどれだけ恵まれた環境に生きているのかと言いたくなる。ちょっとした距離で自転車を使っていた自分が情けない。
「灰原家のお方ですか?」
「え? うん。そうだよ」
「あの、失礼ですがお名前は・・・」
「灰原昇太郎・・・あっ!」
昇太郎は名乗った瞬間に「しまった」と思ったが時は巻き戻せない。そして昇太郎のフルネームを聞いて雪絵も一瞬時が止まる。
「か、重ね重ねのご無礼をお許しください!」
灰原家の者と言った後に名乗った灰原昇太郎という名前。それで灰原家の血縁関係と思わない方がおかしい。つまり昇太郎は武家の人間であり、雪絵から見れば完全に格上の存在なのだった。
「あ、大丈夫。気にしてないから」
昇太郎は優しくそう言うが、雪絵は全く頭をあげようとはしない。灰原家で農民達に絡まれた後に名乗った時もこんな感じだった。この時代における武家と農民の差はかなり大きいようだ。
「ど、どうしよう」
一向に頭をあげない雪絵。これでは昇太郎の方が恐縮してしまって会話もできない。
「あ、あの、とりあえず普通に接してくれないかな?」
「そ、そんな恐れ多いことなどできませぬ」
「じゃ、じゃあ命令。命令でいいから、僕とは普通に接して欲しいんだ」
この場で何を言ってもらちが明かないと判断した昇太郎。武家と農民という身分の差を利用して何とかしようと考えた末、命令という単語を用いた。
「は、はい。ではご無礼いたします」
雪絵はそう言って顔をあげた。真正面から見るとますます琴乃に似ている。双子だと言われれば誰も疑いはしないだろう。
「灰原家の領地に帰りたいんだけど、ここからじゃ歩いて帰るのは難しそうなんだ。何とか帰る方法って無いかな?」
頭を挙げた雪絵だけが今の昇太郎を助けられる。逆を言えば雪絵に見捨てられてしまえば、知らない土地で迷子になったのと同じ状態になってしまう。さらにこの時代は野生動物なども多く、野盗なども頻繁に出没する。迷子になるのは危険極まりない。
「灰原家は白山家と友好関係にあるとのことですから白山様をお頼りになられるのが良いかと思われます。近日中に領主様が巡察に来られると聞いていますので、それまでお待ちいただければ馬や人を手配してくれるかと」
「本当に? よかった」
とりあえず落ち着ける灰原家の城へと帰る方法が見つかったことに安心できた。もしこれが黒川家の領地やその他の全く知らない土地だった場合、昇太郎は自らの名を名乗った時点でその首に価値があると判断されてしまう可能性がある。そうなれば四面楚歌どころの話ではない。まったく味方がいない状態で襲われるということは、昇太郎にとって死を宣告されたに等しい。
「あの、申し訳ないんだけどそれまで泊めてくれないかな?」
「そ、そんなっ! お武家様がお泊りになられるような家ではございません」
「広いとか狭いとか気にしないよ。寝場所さえあればいいだけだから」
「で、ですが・・・」
「汚れも気にしないよ。僕が頼む側なんだから」
昇太郎はそこで河原に正座をして、逆に雪絵に頭を下げた。
「お願いします。少しだけでいいので僕を置いてくれませんか?」
その行動は雪絵をショック死させるほど衝撃的なものだった。
戦国時代の武士とは基本的にプライドの塊と言っても過言ではない。切腹とは基本的に自らの過ちを償うため、そして武士としての誇りを守るために行うものである。つまり戦国時代に置いて、武士にとって命よりも誇りの方が重かったのだ。
その武家の人間が農民の小娘一人に頭を下げる。それも河原に正座をしてという土下座の姿勢だ。雪絵はこれほどまでに腰の低い武家の人間など見たことも聞いたこともなかった。
「あ、頭をお上げください! わかりました! 粗末な家ですがご案内いたします! ご案内いたしますので頭をお上げください!」
雪絵は武家の人間に頭を下げさせているという事実に耐えきれず、拒むことを止めざるを得なくなった。昇太郎にとっては雪絵に頼るほかない厳しい現状で藁にもすがる思いだったのだが、雪絵にはそうとられなかったようだ。
「本当に? ありがとう」
昇太郎は笑顔でお礼を言った。それがまた、雪絵が武士に持っているイメージと大きくかけ離れていた。そのおかげか、雪絵は今までの緊張と恐縮した様子ではなく、少し親しさがこもった様子に変わった。
「で、ではご案内いたします。本当にお武家様がいらっしゃるには粗末な家です。それだけはよくよくご了承ください」
雪絵はとりあえず前置きとして我が家がいい家ではないことを何度となく告げる。昇太郎にはまずないと思うが、後で文句や言いがかりをつけられないようにとの自衛のための策とも言える前置きだ。
「気にしないよ。案内よろしくね」
「は、はい。こちらです」
土下座の姿勢から立ち上がった昇太郎と雪絵。まだ濡れている衣服を絞って水気を取りながら、雪絵に案内されて彼女が住んでいる農村へと足を運んでいった。
農村に到着した昇太郎は違和感を覚えた。灰原家にいた時も農村の手伝いにはかり出されたことがあったため、この時代の農業には多少なりとも携わってきていた。しかしこの白山家の領内の農村は灰原家の領内とは少し様子が違った。
「なんだろう。ちょっと・・・静か?」
見た目の農業の方法に大きな差は見受けられなかった。しかし活気が完全に欠落してしまっている。灰原家の農村では武家と一緒に農業を行うだけでなく、農民達も家族一団となって農作業に精を出していた。しかしここでは畑に出ている人の数は農村の規模から考えてれば少ない。
「最近流行病でしょうか。寝込む方が増えていて困っています」
案内をする雪絵が小声で昇太郎の疑問に答える。彼女が自宅へ連れて行くのを躊躇っていた理由の一つに村の事情もあったようだ。
「流行病・・・」
昇太郎は少し怖かった。現代では医療技術も発達し、ワクチンや薬なども大量に流通している。風邪をひけばすぐに病院に行くことができるし、事前の予防接種も全国各地で行われている。しかしこの時代にはそういった設備はないし、技術もありはしない。軽い風邪が命の危機に直結する可能性だってあるのだ。
「こちらです」
閑散とした農村を通って一件の家屋へと到着する。決してお世辞でも綺麗とは言えない木造住宅。古びており立て替えた方がいいのではないかとも思うが、おそらく彼らにはそんな余裕もないのだろう。
家の中に入った瞬間、昇太郎は我が目を疑った。
家の中には布団が敷かれてはおらず、藁や茣蓙を敷いたうえで眠っているようだ。さらにその藁の上には一目で病人だとわかる痩せこけた年配の男性や子供が横になっていた。
「他の村は知りませんが、この村ではかなりの数がこうなっています」
琴乃はこの農村の状況を包み隠さず話してくれる。隠したところで見ればすぐにわかってしまうことではあるし、昇太郎を本気で灰原家の武家の人間だと信じているのならば、話すことでそこに一縷の望みを託すことにもつながる。
「咳とか熱はあるの?」
「え? い、いえ、ですが皆立てばふらつくほどで農作業はできません」
「熱も咳もないって病気じゃないような気が・・・」
寝転がっている痩せこけた男性や少年。そして雪絵にも目を向ける。美しい顔立ちが台無しだと言ってしまいたくなる。痩せていることからやや骨ばっている様子が彼女の美しさを半減させている。
「まさかこれって・・・栄養失調?」
昇太郎は雪絵の住む家を飛び出して農村で働く人を観察する。農作業を毎日行っているだけあって筋肉がついて体は引き締まっている。無駄な脂肪が無い体を持つ人が多いのだが、無駄な脂肪どころか必要な脂肪すらあるようには見えなかった。
「ね、ねぇ、ちゃんとご飯は食べているの?」
栄養失調ではないかと疑った昇太郎は雪絵に問いただす。
「食べ物は・・・その、あまり裕福ではありませんから・・・」
雪絵は少し言葉を濁すように目を背ける。確かに彼女の言うとおり農村全体が裕福には見えない。しかし栄養失調の可能性がある人が大量に出るほど貧しい農村には見えなかった。畑の面積は灰原家の農村より広いくらいだ。それなのに村全体が貧しいというのは何故なのか、昇太郎はそこがわからなかった。
「昨年は年貢の取り立てが厳しかったので、お金も少なく食べ物もたくさん残っていないのです」
この時代、農家は収穫した米や野菜等を年貢として大名家を始めとした領主に納めなければならない。そして残った物を商人に売ってお金にしたり、自ら街に出て行って売ったりすることでお金を稼ぐ。さらに収穫した米や野菜を食べて生活していたのだ。生活に大切な米や野菜を年貢として大量に持って行かれてしまえば、当然農民たちは貧しくなって食べるものが無くなってしまう。この農村は今、そういった状況だった。
「どうして? 白山家はまだ年貢の徴収とかは優しいって聞いたんだけど・・・」
灰原家の城で聞いた会話の中にあったことを思い出す。しかしこの状況を見て本当にそうだとは思えない。
「黒川家に比べれば暴力的な取り立てはないところは優しいと言えますね。ですが私には灰原家の農民たちがとても羨ましく見えます」
「そ、そうなの?」
「灰原家は武家も一緒に農作業を行います。苦しい時も厳しい時も領民は全員で分かち合うのです。ただ力で押さえつけるのとは大きく違います」
「大きく違う・・・」
「はい。例えば白山家の年貢の集め方ですが、我々は毎年同じ量を収めることが決められています」
「毎年同じ量? 毎年変わらないってことか。でもそれじゃあ・・・」
「いえ、前年の分も今年に影響してくるのです」
「前年の分も影響?」
「はい。ですから今年たくさん納めれば来年は少なめでいいのです」
「ああ、なるほど。前借みたいなものもできるんだ」
つまり豊作時には大量に年貢を納めてしまえば、翌年は楽ができるということだ。しかし逆に凶作だった場合は翌年、大量に年貢を納めなければならなくなるのだ。
「影響するのは一年間だけですので、前年の分の負担は今年一気に解決しなければなりません。それで今年の分が納められなければ来年にまた繰り越されるのです」
街の消費者ローンやカード会社のお金の儲け方に近い。あれは常に顧客が借金を背負っている状態にすることで利子を常に集め続けて儲けるというやり方だ。そしてそのやり方と同じように、一度納めきれなかった年貢は来年に繰り越され、翌年また納めきれなければまた翌年に繰り越される。ずっとマイナスを計上し続ける農家も十分在り得るのだ。
「一昨年はとても実りが悪かったので昨年できたものはたくさん持って行かれてしまいました。今年の収穫まで食料をもたせなければなりませんので、どうしても私達は食べる量を抑えないといけないのです」
凶作の影響が最大限に達している。食べるものも少なく、作物の収穫の日までまだ時間がある。そして今は体力を失いやすい夏だ。栄養失調などで倒れてしまう人がいるのは不思議なことではなかった。
「たくさん食べないと死んじゃうよ」
「食べるものも少ないのです。あっても体調が悪くて喉を通りません」
栄養失調と夏バテ、さらに食糧不足による栄養の偏りというトリプルパンチだ。食べなければならないのに食べられない。食べたいのに食べられない。昇太郎が生きていた現代なら食料に不足するということはありえなかった。しかしこの時代ではそれが珍しいことではない。
「喉を通らないって、栄養ドリンクとか・・・」
現代では当たり前のものがこの時代では当たり前ではない。体力が落ちている時に飲む栄養ドリンクもこの時代には存在しないのだ。
「・・・・・そうか。栄養ドリンクか」
栄養失調と夏バテで寝込んでいる面々にこの時代に食べさせられるものといえばお粥くらいしかない。胃腸には優しいかもしれないが、どう考えても栄養が足りていない。
「雪絵さん。ドリンクを作ろう」
「ど、どりんく?」
昇太郎の言葉に雪絵が眼をパチパチしている。ドリンクという言葉の意味が全く通じていないのだ。
「えっと、体にいい飲み物を作ろうってことだよ」
飲み物と聞いて雪絵はようやく理解できたのか頷いた。水を飲む要領で飲み物を飲み、それで栄養を摂取しようという昇太郎の考えが伝わったようだ。
「じゃあまずベースは・・・」
「べぇす?」
昇太郎は現代にいる気分で次々と和製外来語、いわゆる横文字を使用していく。しかし当然この時代にはそのような言葉は存在しない。よって雪絵は昇太郎が横文字を言うたびに意味がわからずに首をかしげている。
「えっと、基本や中心になるもののことだよ」
昇太郎はそう説明して農村を見渡す。農村だから探せば何か良いものはないかと思って視線をあちこちに向けるが、そもそも農作物や食べ物がこの農村にほとんどない。
「水に溶かせそうなものが全く無い・・・」
栄養価の高そうな農作物でもあればよかったのだが、昇太郎の思い通りにはならなかった。山に入って食べられる草を取ろうにも、現代の都会で生きてきた昇太郎には野草の知識はほとんどない。
「山に食べられる物とかある?」
「あることはありますけど・・・喉は通りませんよ?」
「潰して水に混ぜてもおいしくなさそうだし・・・」
昇太郎は早くも手詰まりか、とため息を漏らした時だった。実際に本物は見たことが無いが、その鳴き声はよくテレビで聞いている。
「あ、牛?」
「はい。農耕用に牛はいます」
牛と聞いて昇太郎が思い浮かべるものは牛肉と牛乳の二つだけ。農家にとって重要な農耕のための牛を食用にしてしまうわけにはいかない。ならば使えるのは牛乳だけだが、牛乳は現代ではポピュラーな飲み物だ。そして栄養価も高く、様々なアレンジもしやすいので栄養ドリンクを作るのに向いている。
「牛乳だ。牛乳に混ぜよう。それと山で採れるものは潰して混ぜれば飲める」
牛乳が見つかったことで昇太郎の頭の中では次々と栄養ドリンクの案が浮かび上がってくる。基本的に牛乳に潰した山の食べ物を入れて飲ませるものが主となる。それで少しでも元気になれば牛乳を使った料理なども食べられるようになるだろう。料理のできない昇太郎だが、数少ない料理の知識で何とか農村に生きる人達の助けになろうと必死に頭を働かせていた。
「雪絵さん。まずは山に食べ物を取りに行くよ」
「え? あ、はい・・・」
「ほら、急いで。みんなを元気にするんだ」
昇太郎は雪絵の手を引いて自然豊かな戦国時代の山の中へと入っていく。そして手に入った果物や木の実や野草などから、雪絵と相談して食べられそうなものだけを選別して持ち帰る。集めた食べ物はすり鉢に入れて擂り粉木で潰してミキサー代わりにし、牛から牛乳を搾って混ぜる。後は果物の果汁を足すなりして味を調節し、牛乳を飲み慣れていない戦国時代の人達にも飲めるようにすれば完成だ。
牛乳を使った栄養ドリンクをたくさん作り、栄養失調かどうかに関係なく農村のみんなに配っては飲ませる。その作業を昇太郎と雪絵は夏の暑さなど気にすることなく、無償で農村の人達を救いたいという思いから行っていた。
数日後、昇太郎が戦国時代に来てからすでに二十五日程が経過していた。そんな日数のことも忘れて昇太郎は日々農村に住む人達のために山や川を駆けずりまわっていた。
そして今日も朝から山河を巡ろうと思っていた時、数頭の馬とそれに乗った身分の高そうな武家の男、そしてその周囲を取り囲む護衛のようなお付きの男達が農村の中へと侵入してきていた。
「ねぇ、雪絵さん。何か来たよ?」
家の外に出て体を伸ばしていた昇太郎は家の中に声をかける。そして出てきた雪絵の表情がまるで何かに睨まれているかのように強張っている。
そんな雪絵の様子に首をかしげている昇太郎。武家の男の一行を農民たちは膝をついて頭を下げて見送る。そして雪絵も同じ姿勢を取ったので、昇太郎も咄嗟に同じ姿勢を取ってしまった。
武家の一行はこのまま通り過ぎると思っていたのだが、雪絵の前に来ると馬が一行達と共に止まった。
「おぉ、朝から精が出るな」
男が馬上から雪絵に声をかける。雪絵は一度顔を挙げて相手を見るが、すぐに頭を下げて何も言わなかった。
「どうだ? 我が申し出を受ける気になったか?」
男は馬から降りて跪いている雪絵の前にまで歩いて行く。その様子は立場の強い者が弱い者に何かを迫っているようにしか見えない。
男の着ている良いものは上質そうで、武士の中でも格は高い方だろう。背はそれほど高くはないが、やや広い肩幅が体を鍛えていることをうかがわせる。そして顔つきもどことなく堀が深く、威圧はしていなくとも自然と威圧感を感じてしまう強面という印象があった。その男が雪絵に何かしらの申し出をしたことが会話からうかがえる。
「何を断る理由があるのだ? この白山家の領主である白山勝実の妻として迎えると言っているのだ」
男はこの白山家を統べる男、白山家の主の白山勝実。この白山家の領内では絶対的な存在である。
「ありがたいお申し出ですが、勝実様には既に正室と側室を合わせて七名もの女性をお迎えしておられます。私などに勝実様の妻は務まりません」
この地の絶対的な領主に雪絵は少し怯えながらも自らの意見を述べて断りを入れる。しかしそれで諦めるような男であれば自らこのような農村へとはやってこない。
「雪絵よ、そなたは美しい。ただの農村の小娘にしておくのは勿体ない。美しき女はその美しさに見合った男との婚姻を結ぶのが当然であろう。そなたにはそれが許されるだけの美しさがあるのだよ。このような農村の男にそなたは勿体なさ過ぎる。そなたは一国一城の主の妻になれる器量ぞ」
どうやら白山勝実は農民である雪絵を見初めたようだ。そして結婚を申し出ているのだが、身分違いの恋ということで雪絵が首を縦に振らない。そこで領主としての権限を用いて強引に婚姻を結ぶことはせず、相手を気遣いながら婚姻を何度となく願い出るという下手に出ているようだ。
「それに我が申し出を受ければこの農村に医者を呼んでやっても良いぞ」
前言撤回。かなりの権力的な圧力をこの男は使っていた。
「それにこの農村が納めるべきだった昨年の年貢の不足分を全て無くしてやってもかまわぬぞ。それにお前の家族には謝礼金も出そう。どうだ? 悪い話ではあるまい」
権力的圧力に加え立場の違いの優劣、さらに金まで持ち出した。この男は欲しいものはどんな手を使ってでもとにかく手に入れようとするタイプのようだ。
「私にはありがたい夢のようなお話ですが、失礼ながらお断りさせていただきます」
雪絵は深々と頭を下げてはっきりと拒否した。これだけの身分や立場の違いがありながらも、ここまではっきりと言ってしまう雪絵がかっこよく見えた。だが彼女も恐怖を感じていないわけではない。腕や膝は少し震えているし、暑さとは違う汗が彼女の額から止め処なく流れている。
「ほぉ、ここまで下手に出てもあくまで拒むというのか」
その瞬間、今まで温和な雰囲気を見せていた白山勝実が豹変したかのように雰囲気が一気に変わる。それは今までの交渉用の表向きの表情ではなく、本心をむき出しにした裏の表情を露わにした瞬間でもあった。
「ならばこの地には誰一人として医者は連れて来ぬぞ? 家族も村の知り合いも皆倒れておるのだろう? 言うことを聞けば皆が助かるということがわからぬか?」
白山勝実はこの農村が陥っている状況を知ってこのような圧力をかけてきている。非力で無力な雪絵にはこの圧力に対抗する術はない。白山勝実に従うしか農村の皆を救う術はないのだ。
「それなら心配いらないんじゃないかな?」
そう、確かに農村にみんなを救う術はない。灰原昇太郎が雪絵に拾われてこの農村にさえ来なければ、だ。
「なに? 貴様、見ない顔だな。何者だ?」
白山勝実の視線が昇太郎へと向けられる。不信感と憤りが混じった敵意に近い視線は昇太郎の肝を冷やす。だが、昇太郎の背中を支えるかのように、家の中から一人の年配の男性が出てきた。
「白山勝実様、もう医者は無用です。あっしらはほら、もう動けるようになりやした」
数日前まで動くことすらままならなかった人物。それが一人で立ち上がり、歩いて家から出てきて膝までついているのだ。その光景に白山勝実を始めとした武家の一行は驚きを隠せない。
「他の奴らも同じです。みんな、この方に救っていただきました」
この方とは昇太郎以外にいない。多少汚れてボロボロになっているため一目ではわからないが、この村では完全に浮いている武家の格好だ。
「何者だ?」
白山勝実がスッと音もなく腰に提げている刀に手を伸ばす。しかし刀は抜かない。あくまでも用心のために刀に触れたという体裁だ。
「灰原昇太郎です」
昇太郎は包み隠さず名前を名乗った。その瞬間、今まで敵意を向けていた白山勝実が一瞬だけ困惑した様子を見せる。
「灰原だと?」
「はい。少し前の黒川家との争いの中で川に流されました。運よく彼女に救っていただいたので、お礼に倒れていた方々を助けました」
白山勝実は「余計なことをしおって・・・」と言いたげな表情を見せるが、言葉には出さなかった。昇太郎さえいなければ雪絵は城に嫁ぐしかなかった。しかし昇太郎が現れたせいで最後の一押しがなくなってしまい、雪絵には逃げる選択肢ができてしまったのだ。
「本当に灰原の家の者か? 話では灰原家の世継ぎは皆死んだと聞いているが?」
「そうですね。では、白山家は灰原家の援軍要請を断りました。その理由は確か他国の軍に動きがあったため援軍は派遣できないと聞きましたが・・・」
昇太郎の言葉に白山勝実が一瞬ギョッとする。外交上の内容であるため、灰原の名を騙る偽物には到底知り得ることができない。それをはっきりと言った事で、昇太郎が灰原家の人間だと信じさせるには十分だった。
「まことに灰原の人間か」
「はい」
白山勝実は刀から手を離す。友好国の人間を斬ったと知れれば周辺各国全域に対する信頼が失墜する。いかなる理由があろうと、白山勝実は昇太郎を斬ることができない。
「・・・先日まで隣国の軍が動きを見せていたというのに随分と余裕がおありですね」
一瞬の沈黙の中、昇太郎は反撃だと言わんばかりに白山勝実に問う。それは遠まわしに言えば援軍拒否の理由を問い糾弾するものであり、そのままの意味でも隣国の軍とはどうなったかを問うものである。そしてそれは友好国相手に援軍要請を断った側としては説明責任が発生する。
「あれは陽動だ。黒川家の灰原家侵攻を邪魔させないために黒川が裏から手をまわしていただけに過ぎぬ。陽動だとわかってからの援軍は遅きに失しただけじゃ。白山は灰原を切り捨てたわけではない」
つまり黒川家は灰原家と完全に手を切って攻め落とすと決めたが、降伏するのであれば手を完全に切るまでには至らないと考えたのだろう。しかし灰原家の思わぬ攻撃に撤退せざるを得なくなった。そして黒川家と灰原家の仲は完全に険悪なものになっている。白山家が灰原家を守れる唯一の国になったとも言える。援軍要請を断ったことに関して文句を言いたいことは山のようにあったが、この前のように援軍要請を断られては困る。そのためあまり強いことを言って機嫌を損ねさせるわけにもいかない。
昇太郎はこれが外交というものか、とまた一つ戦国時代で学ぶものがあった。それは普通に学校生活を送っている現代では簡単に学ぶことができない。相手を糾弾したいがそれを匂わせるだけに留めながら、しかし助けるように相手に譲歩を引き出すという駆け引きだ。戦国時代に限らず、国を背負って立つ者の苦労というものは計り知れないことをその身を持って実感した。
「そうですか。わかりました」
昇太郎は白山家の援軍要請拒否の理由を聞いてとりあえず納得した。白山家も灰原家ばかり気にかけてはいられない。自国の防衛のためにも兵を動かさなくてはならない。しかし友好国を簡単に見捨てることもできない。これもまた国同士の駆け引きであった。
「それと白山勝実様にお願いがあります」
「願いだと?」
「はい、僕を灰原家へと連れて行っていただけませんか?」
昇太郎の願いは灰原家へその身を運ぶこと。歩いて行くには遠すぎる距離を白山家の主の力で何とか足を確保しようとしている。
「友好国の者だ。それくらい何ともないわ」
白山勝実は豪快に笑って承諾する。友好国には恩を売っておく必要がある。それがいかに小さな国であろうと、後にどのような展開になるかわからないのが戦国の世。味方に引き入れることができる国は全て味方にするのが鉄則とも言える。
「灰原家がどうなったか気になるのですぐにでもお願いしていいですか?」
「かまわぬ。おい、城に行って馬の準備をさせよ」
白山勝実は馬に乗っている一人の部下に命じて城へと帰らせる。ルートはいったん白山家の城へ行き、そこで馬を拝借して灰原家の城へと向かうということになる。
「じゃあ雪絵さん。お元気で」
「お助けいただきありがとうございます」
雪絵は深々と昇太郎に頭を下げる。その立ち振る舞いや姿勢がとても他の農民達と同じに見えず、昇太郎は立ち去る前に疑問点を解消することに決めた。
「雪絵さん、なんだか言葉遣いとか雰囲気が武家のお姫様みたいだね」
そう言われて雪絵は小声で「ありがとうございます」と言った。しかしその小声をかき消すくらいの豪快な笑いが白山勝実から飛び出した。
「少し前から使いの者に礼儀作法や言葉遣いを教え込んで徹底させたのだ。将来は我が妻となる女だからな」
つまりこの言葉づかいも礼儀作法も彼女が生まれながら生きてきたうえで培ったものではなく、白山勝実が見初めてから教育を施されたものである。
「そう。でも人ってどう生きるかは自分で決めるものだと思うから、雪絵さんは自分が思うように生きてね」
昇太郎を武家の人間と思っている農村の人々はこの気さくさや考え方、そして発言の内容に驚かずにはいられない。農村の人々にとって灰原家の治政は望ましい。その灰原家の人間である昇太郎はまさに理想の主君とも言える存在だった。
「じゃあお願いします」
昇太郎は農村のみんなと別れのあいさつを交わし、白山勝実を始めとした一行と白山家の城を経由して、灰原家の城へと向かう帰路についたのだった。
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