深淵のタギ

真木

第1話 アルヴォン飛脚 1章 ラン1


 木々の間を漏れてくる陽が傾いてきた。秋の日暮れは急速に気温が下がる。タギは足下の悪い山道をたどる足を速めた。陽が落ちてしまう前に次の町につかなければならない。

 アルヴォン大山塊の中にある宿場町は、陽が落ちると同時に門を閉めてしまう。そうなると山中での野宿になる。あまりありがたい事態ではない。この時期山中の夜は寒いし、野生動物や、下手をすると食屍鬼グールに出くわす可能性があって眠り込むわけにはいかない。一晩くらい眠らずにやり過ごすことなど別に苦にもならなかったが、可能ならば屋根と壁に囲まれたところで眠りたかった。アルヴォン大山塊を東西に横断するニア街道に入って五日目だった。


 道は山の中腹を削って造られていた。街道そのものは概ね東西へ通じているとはいっても、等高線にほぼ沿ってくねくねと曲がっている。その上、山道は手入れが悪く、所々崩れたまま放置されている。狭いところでは馬がやっと通れるくらいの幅しかない。だからニア街道を馬車でたどることはできない。徒歩で行くか、馬か驢馬に乗っても、道の悪いところは、降りて手綱を引いて歩くしかない。タギはいつも徒歩だった。背中に大きな荷を背負っているにもかかわらず、早足で苦もなく足下の悪い山道を歩いていた。


 前の日に泊まったアルカロンを日の出の開門と同時に出発し、次の宿場町であるカルレをすっ飛ばして歩き続けている。朝食も昼食もアルカロンの宿で作ってもらった軽食で済ませている。普通の旅人が二日掛ける行程を一日で抜ける予定だった。タギの足は、山道を歩き慣れない人には到底ついて行けないスピードででこぼこの道を歩いていた。


 左は急峻な崖になって、はるか下の谷底に落ちていた。右は足を踏み入れるのも難しいほど生い茂った木々や雑草が、見上げるような高みにまで続いていた。時々細い枝道がその崖を上るように、あるいは下るように造られていたが、その枝道がどこへ通じているかなどということは、地元の山人やまびと以外は知らないことだった。標識があるわけでもなく、地図があるわけでもない。タギのように何度もニア街道をたどった経験があっても、所詮は旅人にすぎない人間には、入ってはいけない道だった。旅人が知っているのは、アルヴォン大山塊の中ではニア街道や、その他にも名前のついている街道には、それに沿って、徒歩で半日から一日ほどの距離ごとに旅人を泊める町が造られていること、雪で閉ざされる冬季を除いて、その町が夜明けから日の入りまで門を開いていること、そして大人の男の足でも日の短くなった秋の終わりには、ひたすら歩かないと一日行程の次の町まで陽のあるうちにたどり着くのは難しいことだった。

 

 馬を使っても足場の悪い山道では急ぐことはできなかった。騎乗したままでは危険で、馬を引いて歩かなければならない箇所も少なくなかったからだ。だから徒歩であれ、馬であれ、ニア街道を行く旅人が一日に稼げる距離は変わらなかった。


 タギの足なら、十分な余裕を持って日暮れまでに目的の町―ニア―に着くはずだった。ニアはアルヴォン大山塊の中で最大の町で、街道の名前にもなっていた。頬に当たる風が冷たくなり始めていた。日陰のところは暗く、その草陰を時々何かが走り抜けて行った。


 山腹に沿って曲がりくねった道をたどっていたタギの足が不意に止まった。ちょうど山腹が岬のようにつきだして、その突端から大きく道が右に曲がるところだった。その先で道は少し広くなっている。そこにタギにはなじみの気配が漂っていた。正確には気配の残滓が漂っていた。タギは上体を少し落として、ベルトに挿してあるナイフをいつでも抜ける体勢で、足を止めて道の先に眼を走らせた。


 道から外れたところに生えている雑草が踏みにじられていた。土の上に馬の蹄の跡がいくつも不規則に認められた。そして道や、道から外れたところのあちらこちらに飛び散った血液が見られた。タギは血痕を踏まないように注意して歩を進めた。かなり大量の血だまりもいくつかあった。火薬の匂いもまだ漂っていた。少なくとも十人を超える人数による戦闘が行われたことが分かる。死者も負傷者も見つからないが、流された血の量から見るとかなりの死傷者がでているはずだった。血液の固まり具合からはそれほど前のことではないことが推測された。

 崖際の草がまとまって倒れ、血の色に染まっていた。地面に何かを引きずった跡があり、その跡に沿って血の筋が付いていた。崖下に投げ落とされた死者がいたのだ。いや死んではいなかったかもしれない。崖下を見下ろしたが三ヴィドゥーほど下の木の枝が折れていてそこに血痕が見られるだけで、ほかには何も見えなかった。崖の下を見下ろしたタギの前髪を、 吹き上げてきた風が巻き上げた。落ち着かない髪を押さえながらいくら目をこらしても、崖に斜めに生えた背の低い木々と生い茂った草以外のものは見えなかった。

 近くに人の気配はなかった。あたりには血痕の他には何も残ってはいなかった。その血だまりも一晩たてば動物たちに腹に収まって跡形もなくなる。崖下に投げ落とされた者の運命も同様だった。

 

 周囲に気を配りながらさらに五百ヴィドゥーほど進んだときに、タギの耳は人のうめき声を聞きつけた。普通に歩いていたらタギでさえ聞き逃しかねないようなかすかな声だった。立ち止まって耳を澄ますと、風の具合によって声が聞こえたり、消えたりした。崖下からのようだった。そこは丁度路肩が崩れて数ヴィドゥーにわたって道が不規則に狭くなっていた。路肩がえぐれている箇所から、下をのぞき込んだ。一見しただけでは何も見えなかったが、タギの眼は入り組んだ木の枝越しに人の体らしいものを見つけた。場所を変えてさらに目をこらすと、それは明らかに人の体であり、しかも大人とは思えない小さな体であることが見て取れた。


 「チッ」

 

 タギは小さく舌打ちした。気がついてしまえば放っていくわけにはいかない。ここで時間を使えば日暮れまでにニアに着けない可能性が高くなる。それでもタギは背負った荷を下ろして、ロープを取り出した。崖の上に張り出した木の幹にロープの一方を固定して、二、三回力一杯引っ張って強度を確かめた後、ロープを支えにタギは身軽に崖を滑り降りた。十五ヴィドゥーほど降りたところで、さらに五ヴィドゥーほど下に小さな体が木の枝に引っかかっているのが見えた。小さな手で懸命に枝にしがみついている。


「おい。大丈夫か?」


 声を聞きつけて小さな体が少し動いた。首を動かしてタギの方を見た。深い青色をした眼だった。唇が小さく動いた。


「助けて・・・・」


 ふくらんだ帽子の下から短い淡い金髪が見えていた。ほほに小さな擦り傷があったが大きなぱっちりした眼と、まっすぐな鼻梁、形のいい唇をしている。きれいな子供だった。意識はしっかりしているようだ。発語も明瞭だった。


「すぐ行くからな。頑張れよ」


 声を掛けられて子供は頷いた。帽子からはみ出た金髪がさわりと動いた。

 崖を蹴って反動をつけて降りながら、ロープの長さを調節して子供のそばに寄った。タギの足が蹴った崖の岩が谷底に落ちていった。足場はひどく不安定なのだ。生えている木や草を頼りに上り下りすることはできない崖だった。子どもの回りの絡み合った木の枝を、ナイフを抜いて何本か切り払った。ナイフを鞘に収め、もう一度体をロープに固定し直して、子供の方に右手を差し出した。子供も右手を出して、タギの手を握った。冷たくこわばっている。タギの手でくるんでやった。きれいな爪が切りそろえられていて、普段から家の手伝いなどに激しい労働をしている手ではなかった。


「名前は?おまえの名前は何という?」

「ラン」


 疲れ切ったかすれ声だった。


「ランか。いい名だ。私はタギ」

「タギ?」

「そうだ。タギだ。ラン、手を動かしてみてごらん。ゆっくりでいいから」

 ランはいわれた通り右手をタギの手の中でそっと動かしてみた。

「どこか痛む?」

「ううん、大丈夫」

「よし、ラン。この崖を上らなければならないから、その間私の背にしがみついていて欲しいのだが、できるかな?」


 ランはこくっと頷いた。タギが左手をランの脇の下に回して抱え上げると小さな手でしがみついてきた。精一杯に力を入れているのだろうが頼りないくらい弱々しい。


「背中に回りなさい」


 ランが引っかかっていた木を支えにしてタギが身体を傾けると、ランは慎重にタギにしがみつきながら背中に回った。そろそろとした動作だったが、手も足もちゃんと動くようだとタギは 思った。タギの背中におぶさったランは、両手をタギの肩の上から首の前に回してしがみついてきた。タギはロープを身体にさらに二回りさせて、ランと自分の身体を結びつけた。片手でロープを握って体を固定しながら、もう一方の手でロープを結ぶという器用なまねを、タギは無理なくこなした。


「崖を登るから、しっかり掴まっているんだぞ」

「はい」


 ランが答えた。ほっとした様子が伝わってきた。

 首筋にかかるランの息がくすぐったかった。こんな場面なのに緊迫感のかけらもないな、タギは苦笑した。すぐに顔を引き締めて、足場のあるところは足をかけて、足場のないところは両手の力だけで、タギはぐいぐいと崖を登っていった。

 崖の上の道に着いたときはさすがに少し肩で息をしていたが、タギとしてはそれほどの重労働をしたわけではなかった。手早くロープを外してまとめた。ランを下ろして地面に座らせた。ランは足を投げ出してぺたんと座った。小さな子供だ。十をいくつも超えていないだろう。この時期のアルヴォンの山中を旅するのに一応十分な服装をしている。暖かそうな上着は毛皮だったし、足首までのズボンも分厚く暖かそうだった。足ごしらえも山道を歩くための頑丈な靴を履いていた。大きめの帽子には耳当てがついていて、今は頭の上で止めてあった。小さなつばが前にだけついている。いくらか不安そうな顔でタギを見ていた。


「どこか痛いところはないか?血が出ているところは?」


 ランは首を振った。見たところは多少の擦り傷と、打ち身だけのようだった。タギは足首や膝の関節に手を添えてそっと曲げさせてみて、ちゃんと動くこと、動かすときに痛みがないことを確かめた。あの高さを落ちて、大きな怪我もしなかったとは運がいいことだ、何より崖の下まで落ちなかったのが奇跡みたいなものだ、とタギは思った。タギは水筒を取り出してランに差し出した。


「のどは渇いてないか?」


 ランは頷いて水筒を受け取った。直に口を付けて水を飲んだ。人心地着いたようだった。水筒をタギに返しながら礼を言った。少しだけ笑顔が見えた。


「ありがとう」

 

 

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