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 終りの日に次のことが起る。


 ――旧約聖書イザヤ 2章 2節


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「ドーナツ、ドーナツ」


 それはドーナツだった。


 中古車が並んだガレージ。

 停めてあった1974年型シボレーのフロントガラスにヒビが広がり、反響した轟音が不安定な周期で行ったり来たりしている。


 そして、目の前には銃弾によって円環状にぶち抜かれた死体が転がっている。


 ――伊左だった。


 それは紛れもなく伊左の死体だった。


 しばし呆然とした時間があった。

 俺はこの手で伊左を、無二の親友を殺した。だけど、実感なんてどこにも無い。


 俺は奴の死体を抱きかかえた。

 伊左のたるんだ身体は未だじっとりと汗ばんでいて、まだ熱を帯びている。それは冷たい死体のイメージとはかけ離れていて……。


 もしかしたら、まだ生きているんじゃ――そう思いながらも俺は伊左を上向きに起こす。


 だが、それはどうしようもなく甘い期待だった。


 伊左の顔は眉間に開いた穴を中心にして、歪んでいた。

 瞳に光はなく、視線はあらぬ方向を見上げ、未来永劫変わらぬ闇を見つめ続けている。


 伊左は死んでいた。疑いの余地なく。


「はは……」


 乾いた笑いが漏れた。


「ははは……」


 俺は伊左を腹を思い切り蹴飛ばした。


「女一人にギャアギャア喚きやがって、だからこういう結末になるんだ」


 一回、二回、三回、だぷんだぷんと肥え太った脂肪に蹴りの衝撃が吸収されていく。


「くそ……くそっ……」


 何回目か蹴りが空ぶって、身体が無様にひっくり返った。

 強かに腰を打ったが、そんなことどうでも良い。俺は蹴りを拳に変えて何度も何度も伊左の胸にそれを振り下ろす。


 ――伊左、どうして……。どうして、俺たちこうなっちまったんだ。


 俺は伊左の死体にかしづくと額を押し当て、少しのあいだ目を瞑った。


 闇の中にはあの頃の俺たちがいた。


 なぜ俺はこんな結末を迎えるはめになったのだろう。


 そう自問自答した。


 お袋という地獄、裏社会での陰惨な日々。そして、この末路。


 俺にだって、こんな俺にだってなにか残せるはずだ……。そう思って、俺は堅気をやめた。まっとうになんて生きられるわけなかった。


 あの家が俺をそうプログラムした。俺をこんな風に仕立て上げた。


 それは二度と消えない烙印だった。俺を縛るルーツ。それを怒りと憎しみで作った血印で俺は押し続けてきた。


 伊左、いや誰でもいい。教えてくれ。


 俺のこの十数年は何のためにあったのか。

 俺はなぜ、こんな結末を迎えることになったのか。


 ――なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?



『……それは辿ってきたからだ。道を』



 ただ一つ、俺の疑問に応える声なき声あった。


 振り向けば、そこにイザヤがいる。


「ど、ど、ドーナツだ。う、うまそうだ」


 イザヤは自分の腹に空いた穴を見つめ、そうつぶやいた。

 銃創が、血の溢れる虚を中心にして綺麗に円環まるになっていた。


「ドーナツ、ドーナツ。どうする、ドーナツ」


「うるせぇんだよ」


 俺は持っていた銃の底でイザヤを殴った。

 イザヤは「ぐひぃ」とか「ぎぃ」とかそんな声を上げる。


「どうすればいい。なぁ、どうすればいい……」


 俺は夢中で俺はイザヤの肩を揺さぶり続けた。


 やがて、目玉がぐるりと一回転し、あの深淵な知性を湛える皺が表れる。


「ああ、君か……」


 そう言って、イザヤはひどく緩慢な動作でこちらを見た。どう見積もっても、イザヤの命の灯はもってあと数分というところだった。


「一つ聞いて良いかね……今は――」


「2701回目だ」


 俺はイザヤの言わんとしていることを先読みして応える。俺の応えにイザヤは満足したように頷くと、そうかと一言つぶやいた。


「おい……」


 俺はイザヤを肩を揺すった。


「俺はこれからどうすればいい……俺はいったい……」


 イザヤの瞳から急速に光が失われていく。奴の身体から命が失われようとしている。


「待て。行くな……。俺はまだなにも……」


「げぶぅ……」


 一際盛大にイザヤの口から血が噴き出した。


「くそ……」


 イザヤは血を吐きながらも視線だけは迷わず俺を見据え、必死に何かを喋ろうとしていた。


「きょ……狂気に呑まれてはいけない。この先、君は悠久ともいえる月日を彷徨うことになるだろう。無限の時間の中で君は何度も思うはずだ。狂ってしまえば、この現実を忘れられると……。だがそれは大きな誤りだ……」


イザヤは震える手で俺の襟元を掴むと強引に引き寄せる。その力は死を間近にした人間のそれとは到底信じられない強さだった。


「狂気に飲み込まれるとどうなるか。まず最初に自己認識が失われる。精神とは、役割ごとに独立した一つ一つの認知活動からなるゲシュタルトの様相だ。何かを見るという処理にも様々な働きが視覚モジュールとして統合している。

 意識の統合が失われれば、当然ゲシュタルトを構成する要素は砕け散る。本来、意識に統合されてこそ、その機能を発揮する要素たち……しかし手綱を握っていたはず精神が失われたとき、どうなるか……」


 俺はイザヤの気迫に気圧され、何も言うことができない。


「それは……生きながらにして地獄に落ちるようなものだ。私も、かつて2000回もの“繰り返し”の中で、その生き地獄を味わった」


 俺の中に浮かぶのはあの光景。幾千もの月が拡がる夜空と、その向こう側で叫び続ける俺自身。


イザヤは騙り続ける。


「人間は意識という鏡を通じて自らの欲求を知る。その鏡が映すのは間違っても自己などという紛い物などではない。鏡が映すのは世界だ。我々は意識という鏡を通じて世界を認識している。

 鏡を粉々に砕けば、それはつまり世界の死だ。砕け散った破片は現実の仮借なき刃となり、我ら現象としての生を苛むことだろう……。我々にとって、命の終わりは死足りえない。我らが目指すべきは最後の審判、救済のラッパが鳴るそのときだ……」


 ひゅー、ひゅーと木枯らしのような音がイザヤの口から漏れ始めた。

 同時に目の焦点が天上を、ここではないどこかへ向いて、ゆっくりと滑っていく。


 まもなく死が訪れようとしていた。


「この先、長い時間を掛けて君は知るだろう。このわたしのように……。これが最後の手向けだ。心して聞き給え……。


 ――ヨハネの福音書11章25節。


 イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる」」


 俺はそのとき確かに感じた。イザヤの身体から重みが消失するのを、何かが失われていくのを。


「さあ、行け。いま君の前に広がるのは世界そのものだ。命を掛けても、全うすることのできない無限の荒野だ。

 さあ、今こそ復活の時。ラザロよ、神の哀れな子羊よ。一人の聖人の誕生をいま私は祝福する。ラザロ復活、大地にさらなる光明よあれ……」


 そして、イザヤの掲げた腕が力なく落ち、瞳から完全に光が失われた。


 あとには応える者なき静寂が広がっていた。




 そのあと、どれぐらいの時間、俺はそうしていただろうか。

 地べたに座り込んで、俺はしばし放心していた。やけに視界が霞む。


 イザヤの死を見届けたあと、俺は急な寒気に襲われ立ち上がることもできなかった。そのまま少しの間、意識を失っていたらしい。


 だが、辺り一面に響き渡るサイレンの音が俺を正気に戻した。

 逃げなければ……。この惨状を見られれば逮捕されるのは確実だ。


 立ち上がろうとした俺は何かに足を取られ、がくんと無様に地面に転がった。


 何に躓いたのだろうと思い、足元を見るも何もない。

 もう一度、立ち上がろうする。だが、できない。足に力が入らない。


 いや、足だけじゃない。全身が鉛のように重く。立ち上がるのさえも困難になっていた。


 原因はすぐにわかった。


 五百円玉ほどの穴が、俺の腹に空いていたのだ。


 どくどくと血を外に吐き出すそれは言うまでもなく銃弾によるものだった。


 そう。あのとき俺が伊左を打ち抜いたように、伊左もまた俺を打ち抜いていたのだ。


 二つの銃声は重なりあい一つの轟音になる。それは嫌なことにイザヤの言っていた通りだ。


 痛みは選択される。


 それに気付けなかったのも、俺が奴ら二人の作るブラッドバスにその身を浸していたからだ。俺が流した血もそこに注がれていることも知らずに。


 全く笑えない冗談だった。奴らの死を悠長に看取っている間に、俺自身も呑気にそこへ後追いをかけていたってわけだ。


「ふざけやがって、俺はこんなところで……」


 俺は、目の前にあった作業台に捕まり立ち上がろうとする。だが、俺が体重を掛けた途端、作業台は俺もろとも盛大にひっくり返った。


――そのときだった。


「ぐおおお……!」


 火箸を押し付けたような痛みが走り、俺はたまらず悲鳴をあげた


 見れば太もも辺りから何かの柄みたいなものが飛び出している。


 形状からするに、それは解体に使っていたペティナイフだった。作業台をひっくり返した拍子に突き刺さったらしい。


「くそお……」


 俺は柄に手を掛けて引き抜こうとしてみた。だが、ぬめる血で満足に柄を掴むこともできない。なんとか手近にあったビニール紐で柄を縛り引っ張ってみたが、あまりの痛みに抜けたものではなかった。


「ぐおお……」


 痛みに俺は子供みたいに声をあげて泣いた。

 泣いて、泣いて、泣きはらしているうちにもパトカーのサイレンは容赦なく近づいてくる。


 音のする距離からして手前の倉庫にはもう辿り着いているだろうか。


 そのとき涙でグズグズになった視界の先に小さな影が表れた。


 ガキだった。ガキの頃の俺が居た。

 

 この世すべてを見限った冷たい目の奥に燃えるような怒りだけがある。


 俺はしばし呆然と影を見つめていた。


 やがて影がゆっくりと口を動かすのが見えた。

 声は聞こえなかったが、俺にはそれがなんて言っているのかわかった。


『泣いていても誰も助けちゃくれないよ』


 それはお袋が俺を殴りつけるときに良く言った言葉だった。


 俺は無言で這いずりを再会した。

 どれだけ最下層に落っこちようと誰も助けちゃくれない。この世は自分で助かるしかない。


 そんなこと、とっくの昔に知っている。


 俺は腹部の傷口を地面に擦り付けるのも構わず、這いずった。引きずって出来た血の跡が、赤い墨汁画のような線を引く。


 顔を上げれば扉まで、あと数メートルだった。


 ――あそこさえ開けることができれば……。


 「ひ、ひひ……ひひひひっ……」


 痛み、痛み、痛み。

 あまりの痛みに俺は笑いが込み上げてきた。


 俺は握りこぶしを作ると、太ももから突き出した柄を思いっきり殴った。


 自分でも聞いたことのない咆哮があがった。


 その痛みで俺は前進した。


 ドアノブを掴む。

 そのまま倒れこむように扉の外に転げ出た。


 その先で俺は真っ白い光に包まれた。

 光の中、目を細めると銀のクラウンが俺を照らしていた。車の上には簡易の赤色灯が付いていた。


 覆面パトカーだった。


 ――間に合わなかったか……。


 と思った束の間、光の中からぬうっと黒い筒が俺に向けられた。


「よう。トチったな、お前……」


 経理の金井だった。

 次の瞬間、乾いた音と共に衝撃が俺の身体を貫いた。


 倒れていく最中、俺の中でイザヤの最期の言葉がぐるぐると回り続けていた。


「わたしはよみがえりであり、命である……。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる……」


 やがて、俺の意識は泥のような闇に沈んでいった。

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