第一章

第1話

 リングの上には、二人の男が対峙していた。

 かたや、痩せた男であった。

 切れ味の鋭いジャックナイフを思わせる、引き締まった筋肉は、闘いに必要ない余分なものをすべて排除したかのようだ。

 瞳はまるで知性を有さない、野に放たれた獣そのものの眼光だった。


 もう一人の男は大きかった。

 身長の面では大した差はないが、肉厚が違いすぎた。隆々と鍛え抜かれた肉体は、古代ローマの彫刻を思わせる。褐色に焼けた皮膚がライトの光を受け、その逞しさを際立たせていた。

 ここさいたまスーパーアリーナは、三万人を越える観衆で埋まっていた。


「アルティメット・クラッシュ闘魂スペシャル・超日vsクレイジー5×5決定戦」


 そう銘打たれて行われているこの大会は、超日本プロレス主催では久々の、ゴールデン生中継のビッグマッチである。これでプロレス人気を一気に回復しようと目論む、関係者の気負いは相当なものだった。

 メインイベントの藤山和男vsヒカエロ・クレイジーをはじめ、乾坤一擲のカードがずらりと並んでいる。

 

そのうちのひとつがこれから始まろうとしている、ふらりと一週間前に帰国し、参戦をエントリーしたこの筋肉質の男と、狂犬ライアン・クレイジーの一戦であった。

 二つの瞳が、互いに敵を認め合った瞬間。

 澄み切ったゴングの音色が、広いアリーナに響き渡った。

 

 猛然と駆けた。

 どちらが?

 二人ともだった。

 何の迷いもなく一直線に、互いへ向かって駆けた。

 痩せた男――ライアン・クレイジーは豹のようなしなやかさで前へ出ると、左右の拳を振るった。

 テクニックもくそもない、マシンガンのような乱打だった。

 しかも一発一発に、必殺の威力が秘められている。


 この凶拳で人気レスラーのサムライ・マシンが、無残にマットに沈められるシーンを、プロレスファンは皆、試合前のプロモーションビデオで嫌というほど繰り返し見せ付けられている。

 褐色の男はその拳を、すべてスウェーでかわして見せた。


 客席から、ほうっと感嘆の声が漏れた。

 K-1でならよくお目にかかる光景だが、プロレスラーがパンチをこうも見事にかわすことは、ほぼ不可能に近い。

 この一瞬で、男の動体視力のすごさが垣間見えた。

 勢いあまってライアンは男に激突した。 

 ふたりともそのままの体勢で、コーナーにもつれこむ。


「なあ、フェイク野郎」


 密着した状態で、ライアンが囁きかけた。


「……?」


「俺はよ、こんな腰抜けの揃った地球の裏側くんだりまで、サンバを踊りに来た訳じゃないんだよ」


 怪訝な表情の男に、なおもライアンはささやく。


「――なあ、あんたも本当は負けるのは嫌なんだろ? だから俺に勝ってみたらどうだい?」


「どういうことだ?」


「そのままの意味さ。シュート・ファイトだよ。それとも、八百長でないと怖いかい? フェイカー」


「こら、試合中の私語はつつしめ!」


 レフェリーがブレイクを命じながら、カメラに写らない位置で注意をする。


「甲山、ブック破りは大罪だぞ」


「……わかってます」


 この試合はライアンの言うとおり、彼の負けに決まっている。

 二勝二敗でもつれ、緊張感を保ったまま、大将戦の藤山和男vsヒカエロにつなぐ。そうして高視聴率獲得を狙う筋書きであった。

 この試合がブックであることは、甲山も聞かされているし、当然、ライアンも承知の上のはずである。

 ライアンは彼を見て、にたにたと笑っている。

 完全に馬鹿にしている。


「おい――」


 彼はライアンに、すっと人差し指を立ててサインを送った。


「そうこなくっちゃな」


 ライアンは嬉しそうに頷いた。

 ファイターにしか通じない、シュートサインである。

 何のやりとりがあったのか。まだ年若いレフェリーを含めて、ほとんどの人間が分かっていない。

 2人は再びリング中央に戻され、そこから試合再開となった。

 ライアンは、またも拳でのガトリングラッシュ。

 とりあえず男はガードを上げたが、その隙間の至る所から拳が降り注ぎ、顔面に数発もらった。衝撃でよろめいたが、効いたそぶりは見せなかった。


 ライアンの圧力に押されるように後退――

 ――と見せて、素早い低空タックル。

 ライアンは膝を合わせようとして失敗した。

 想像より、褐色の男が敏捷だったのだ。

 タックルでとった足を引きずりこみ、テイクダウンを奪う。

 クラッチしたまま、両足で、相手の脚を挟みこむ。

 

――アキレス腱固めだ。


 瞬間、ライアンの顔が歪んだ。

 笑みの形に。

 それは勝利を確信した笑みだった。


 男がアキレス腱の体勢に倒れこむと同時に、ライアンは反動で立ち上がった。

 彼は、これを待っていたのだ。

 そのまま素早くマウントポジションに移行しようとして――できなかった。体が動かない。

 ブチブチと聞きなれない異様な音も耳に残った。


――オイオイ、何が起こったんだ?


 刹那、理解できなかったライアンだが、やがて激痛とともに彼も理解した。せざるをえなかった。

 アキレス腱が断裂したのだ。

 掴まれたその一瞬で。こんな化け物そのものの怪力を、彼は経験したことがなかった。

 痛みにのた打ち回るライアンを傲然と見下ろして、褐色の男はつぶやいた。


「どうだい、お芝居は楽なもんだろう?」


 ――場内、寂として声もない。


 一連の攻防は、あまりに刹那で、観客は声を喪失したかのように沈黙している。

 ただ、プロレスを見慣れた一部の観客――俗にいうコア層は、何が行われたのか、おぼろげながら状況を把握していた。


 このプロレスのマットでたった今、セメントが行われたのだ。


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