第八色 ③

 集合住宅に到着すると、三階にある七両しちりょうの部屋へ向かった。

 夕飯は一画いちかくで済ませて来ていたので、後は寝るだけだ。

 歯を磨いて二人分の布団を敷いた後、琥珀は七両へ尋ねた。

 「ねぇ、さっきの赤い実って何?」

 「何って、ただの香辛料だ」

 七両は布団の上であぐらをかいたまま、筆に視線を落としてそう答える。

 「香辛料? あの辛いやつ?」

 「ああ。お前は食うなよ。辛いもんダメだろ?」

 「うん。七両は辛いものが好きなの?」

 「好きってわけじゃねえよ。甘いもんよりはずっとマシだ」

 「そっか」

 七両はいつものように枕元に筆を置いてから、照明器具に顔を近付けた。

 「もう灯り消すぞ?」

 同じく枕元に置いてあった和紙が張られた照明器具の上部を除くと、オレンジ色の火がゆらゆらと揺れている。

 「うん。おやすみ」

 「ああ」

 火が消えると、真っ暗な闇が部屋を包んだ。


 「あった。十六夜堂ってこの店でしょ?」

 琥珀が七両を振り返って尋ねる。

 目の前にあるのは二階建ての黒色の木造建築だ。周りの建物の色が派手な分、この建物だけ落ち着いた色合いなので、一目で見つけることが出来た。

 白地の提灯には黒墨で『筆屋 十六夜堂』と書かれている。

 「ねえ、柑子こうじが顔がないって言ってたけど本当なの?」

 「あんなもん、ただの噂だぞ? まあ、店の主人は滅多に顔を見せねぇらしいから、それで変な噂が出回ってんだろ。顔にひでえ火傷の後があるから、客の前に出て来ないとかな」

 七両が店の引き戸を開けると、

 「いらっしゃいませ。女郎花おみなえしと言います」

 黒と白の縞模様の着物を着た女性が現れた。山吹やまぶきよりも薄い黄色の髪と目を持つ、三十代半ばくらいの女のヒトだ。

 「七両だ。こっちは琥珀」

 琥珀が頭を下げる。彼を見た女郎花は一瞬驚いた表情を浮かべたが、彼女はすぐに笑顔を作ってあいさつをした。

 「筆が割れちまったんで、修理を頼みに来たんだが」

 「見せて頂いても?」

 七両が筆を渡すと、

 「この筆は、街長まちおさから依頼を頂いた……」

 顔を上げて七両を凝視する。しばらく彼を見つめた後、再び筆に視線を落とすと、

 「だから、柄の部分を濃い紅色にして欲しいと言ったのね。あなたの色と同じだわ。でも、この割れ方は……」

 「もめ事があってな。筆を壊されたんだ。修理出来るか?」

 「柄の部分を別の物に替える必要があるわ。もの自体がだいぶ古いから、いっそのこと新調した方が」

 「新調はしねぇ」

 きっぱりとした口調でそれを否定する。

 琥珀と女郎花が同時に七両を見上げた。

 「高くついてもいい。この筆じゃねえとダメなんだ」

 七両がここまでこだわることに、琥珀は驚いていた。普段あまり物事にこだわることがないので尚更。

 女郎花は黙ったまま口を開こうとしない。何やら考え込んでいるようにも見える。やがて顔を上げると、

 「分かったわ。少し待っててもらってもいいかしら?」

 「ああ。ところで、この店の主人は?」

 七両が尋ねると、

 「申し訳ないけれど、主人は人前に出るのが苦手なの。お客様からの注文は私が受けているのよ」

 女郎花はそう答えると、立ち上がった。不安そうにこちらに顔を向けている琥珀に気付くと、「そんな顔しなくても大丈夫よ」、と笑顔で答えてくれた。

 「では、一旦失礼」

 彼女はそれだけ言うと、背を向けて向かいの部屋へ入って行った。

 店の中に七両と琥珀だけが残される。

 それほど広くない店内を見て回りながら、女郎花が戻って来るのを待っていると、向かいから足音が聞こえて来た。

 「あっ、戻って来たね」

 けれど、足音が先程聞いたものとは違う気がする。

 「いや、違う。これは……」

 七両が呟いた時、目の前の障子が開いた。

 目の前に現れたのは、四十代半ばと思われる男のヒトだ。薄茶色の作務衣さむえを着て、頭には同じような色の手拭いを巻いている。

 男のヒトは黙ったまま七両と琥珀を見つめている。

 (あれ? このヒト……)

 琥珀は目の前に立つ男のヒトを見て、あることに気が付いた。その時、七両が口を開いた。

 「あんたがこの店の主人か?」

 「ああ。一応な」

 「俺の筆の件だが……」

 「筆?」

 男のヒトが不思議そうにそう呟いた時、慌ただしい足音が聞こえてきた。

 「ふじ、どうしてここに……」

 姿を見せた女郎花は彼の袖を掴んで、困惑した表情を浮かべている。片手には先ほど七両から預かった筆があった。

 彼は女郎花の持つ筆に視線を向ける。

 「この筆はお前のものか?」

 「ああ。修理に出しに来た」

 七両がそう答えると、女郎花が彼にその筆を見せた。

 藤と呼ばれた男のヒトは女郎花から筆を受け取ると、それを凝視してから、

 「だいぶ古いけれど、新調はしないわ。割れた柄の部分だけを取り換えて欲しいの」

 説明を聞いた藤は、顔を上げて七両を見た。

 「他の依頼も来ているから、すぐには直せん。一カ月ほどかかる」

 「え? そんなに?」

 琥珀が七両を見上げると、彼は頷いてから、「構わねぇ」とだけ答えた。

 「では、この筆は預かるぞ。完成したら……」

 藤は言いかけてから、思わず目を見開いた。視線の先にいるのは琥珀だ。

 (人間の子供?)

 「藤、あなたは部屋に戻って作業をして。後は私に任せてちょうだい」

 女郎花は藤を無理矢理回れ右させた後、ぐいぐいと部屋へと押し戻した。

 藤が別の部屋に入ったのを確認した女郎花は振り返って笑みを作ると、

 「ごめんなさいね。びっくりしたでしょう?」

 「まあな。それより、完成したらどうすりゃいいんだ?」

 「手紙を送るわ。悪いんだけど、台帳のこの部分にあなたの名前と住んでいる場所を記入してもらえないかしら?」

 女郎花はそう言うと、近くに置いてあった台帳を広げて空白の部分を指さした。

 七両は頷いた後、その台帳に記入し始めた。

 琥珀は彼が書き終える間、藤が消えた障子を見つめていた。

 見間違いなんかじゃない。

 (あのヒト、人間だった……)

 それから、七両と琥珀が店を出るまで、藤が姿を現すことはなかった。

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