赦し、赦される日【完結済】

郡冷蔵

序章 堕落

炎の哀歌

 積み荷を指差し確認し、幌を閉じる。

 まだ少し肌寒い、春の風の吹く朝だった。

 風に揺れる、母親譲りのやや暗い茶髪を手で押さえながら、アーシェラは手慰みに、自分のその髪に似たような色の馬の背を撫でた。欠伸混じりに見る朝霞みの街は、すっと抜けるような淡く冷たい雰囲気に満ちている。住み慣れた街だが、アーシェラは最近では家を空けていることも多いので、こうして見るといつの間にか改築されている家もあるなどした。街は生きている、と偉い人は言ったのだったか。ならば人々はそれを巡る血液だろうか、と考えて、もしや自分は輸血液か何かかとひとりで笑ってしまう。

 アーシェラは父に倣って行商をしている。アーシェラの産まれた当初は、二人目の子供に喜びながらも、父は息子のないことに多少の影があったらしい。しかしながら、どうも女性らしさというものは、粗方姉の方が持っていってしまったようで、アーシェラは子供のころからどこか冷めていて、人形遊びよりも剣を振りたがって、今は馬に鞭を打っている。母親に心労は移ったものの、父は行商人としての跡継ぎができたことにたいそう安堵した様子である。女性に厳しい職ではあるが、父の顔もありそこまで不自由はしていない。いつしか、家族みなで商いをする店を開く父の夢に、娘の夢も加わっていた。

 とは言ってもまだまだ見習いも見習いで、父には遠く及ばない。だがそれでも、仕事の手伝いくらいはあらかたできるようになってきた。馬車に商品の家具を積み終わり、今は二階から降ってきた姉の呼び止めに立ち止まっているところだ。やがて姉が下へ降りてくる。こつこつと石畳を叩く靴の音は控えめだがしっかりと芯がある。持ち主の性格をよく表している気がした。

「シエル、早いのね?」

「うん。早くて悪いことはないしね」

「忘れ物はない? 商品はしっかり数えた? それと――」

「大丈夫だってば、姉さん」

 心配そうに覗き込んでくる茶色い瞳はどんぐりみたいに艶やかな魅力を振る舞っていて、妹ながら少し胸が跳ねる。

 姉は少々……と言って良いものか、自分の魅力に無頓着なふしがあり、男の揉め事が度々起こる。好きこそもののとは言うものの、そういう姉がいたからという環境要因も、アーシェラが剣に達者な理由のひとつだろう。

 ベルトに差した剣に手をかける。研鑽の極致にはまだ遠い。西方から聖銀機関によって派遣される騎士は各地で悪党の取り締まりに精を出しているが、この辺鄙な町では騎士もあまり頼れない。私が姉さんの騎士になるのだと、子供のころから決意していた。アーシェラが信念を改めて腰の長剣に誓っていると、目の前にずい、と小さな包みが現れた。

「はいお弁当。頑張ってね」

「うん。任せてよ」

 普段、行商は父と一緒におこなっている。だが今回は先の長旅で足を痛めた父は療養中である。なので今日は近場の街への日帰りだ。行商と言うよりただの出荷である。夜には自分の家でくつろげるので、だいぶ気楽ではあるのだが。

「じゃあ、行ってくるよ」

 振られた手を振り返して、がたりごとりと車輪の音を聞きながら、幌馬車を進ませた。

 目的地であるヴァイセの街までは半日かからない程度の距離だ。それほど急ぐ意味もなく、アーシェラはのんびりと馬の背や青い空、すっかり若葉色に染まった平原を眺めながら馬車にがるごろ揺られていった。

 馬上行もそこそこに、姉に渡された紙袋の中を覗くと、そこには色も香りも鮮やかなサンドイッチがあった。サンドイッチだけでこれだけ美味しそうに見せられるものなのだろうか、料理下手の人間には見ているだけで楽しめる。だがそうして覗き見てしまったのがいけなかった。気づけば隣街に着いたころ、サンドイッチは跡形も無くなっていた。

「……うん。お腹鳴ったりしたら、いらない買い物押し付けられちゃうもんな」

 そう自分に言い聞かせて、馬車の速度を何となしに緩めて道をからから進んで行く。そうして日が南中まであと二刻といったころ、到着した卸先に馬車を入れる。この辺りではそこそこ有名な商店だ。本当に言葉通り雑貨屋で、東西問わず多岐に渡る品々が評判である。

 店から顔を出した店主に挨拶をする。

「こんにちは。アーシェラ・スフェリオです。物の状態の確認をお願いします」

「おや。今日は、カズの方は?」

「あー、はは。父は足を痛めてしまって」

「そりゃ大変だ」

 禿頭の店主は荷台をぱっと簡単に確認した後、やってきた若い男達にそちらを任せて、アーシェラに奥に入るよう促した。

「茶でも出そう。少し休んでいくといい」

「ええ、それでは、ありがたく」

 通された応接室。鏡のようなマホガニーのテーブルの上にことりと置かれたティーカップに、アーシェラはゆっくりと口をつける。春をそのまま詰め込んだような芳香と、じんわりとした熱が鼻腔を優しく撫でていく。

「唐突だが君、悪魔を信じるかね?」

「はい?」

 世間話のネタはいくつか考えているところだったが、まさかそのような質問が来ようとは思ってもみず、反射的に首を傾げた。

「お伽噺に出てくるあれだ。千と数百年も前、世界を滅ぼしかけたとかいう」

 突如現れた異形の怪物──悪魔に淘汰されゆく人間を救ったのは、一人の騎士と救世の聖女率いる騎士団であったという。その後釜を称するのが、現代における聖銀機関という組織だ。だが、当然現実に起こったとしては眉唾物で、宗教の一派のバックストーリー程度にしか考えられていない。

 ただ、聖銀機関は平素より各地に騎士を派遣して治安維持に努めているので、社会的地位も悪くなく、信じられてもいなければ、煙たがられてもいないというのが現状だった。

 結局何故にこの話題が振られたのか理解できず、アーシェラは率直な感想を述べた。

「……お伽噺は、あくまでお伽噺ではありませんか?」

「私もそう思っていた」

 店主はカップを置き、難しい顔をして腕を組む。厳つい顔に皺が寄り、そこらの獣ならこれだけで追い払えてしまいそうな雰囲気だ。

「ところがだ。どうも最近、その手の噂が聞かれてな。噂だけなら良いのだが、実害まで出ているとなると、また話は別だ。いくつかの村で少なくない死者が出ている。中には住民皆殺し、といったものまで。その正体は悪魔か、あるいは悪魔を騙る人間か。そこは分からないとはいえ、ともかく注意しておいてくれたまえ」

「……ご忠告、ありがとうございます」

「いやなに。重要な仕入れ先のひとつだからな、君らは。それに、まさか新たな情報を得ても我々に教えないとか、そういうことはないだろう?」

 言わばこれは将来への投資なのだ。見通しの立ってきた商人生活でも、これだけはまだしばらく慣れそうにない。アーシェラは少々苦みに寄った笑みを浮かべて頷いた。

「はは。ええ、もちろん。もし何かあったら、必ずお知らせしますとも」

「それはよかった。では、また。お父上にも、身体をお大事にと伝えてくれ」

「ええ。今後ともご贔屓に」

 応接室を見送られ、積み荷の下ろされた馬車を受け取ろうとして、せっかくだからお土産でも買っていこうと思い立った。馬番に少し客としても寄っていくことを告げ、雑貨屋の正面に回って、陳列された商品を眺めていく。

 工芸品の並ぶ中から、葡萄を象った髪止めを見つけて手に取る。一枚の板から彫り通されたものだが、そうとは思えぬほど細緻な描写が為されていて、艶やかな葡萄からは水が滴り落ちるようだった。値段も手頃だ。こういったものを取り扱うのも良いかも知れないな、と頭の片隅で考えながら、勘定台へとアーシェラは歩みを進めた。


 暗く曇ってきた空の下、からからと車輪が家路を歌っていく。心なしか悲しそうに聞こえるのは、恐らく車輪が雨の前の湿気を吸っているからだ。

 買った髪止めを眺めながら、着くまで降らないといいな、と適当な感想を抱いて、馬の足を少し早めた。

 結果的に、町には雨が降る前にたどり着けた。ただし、それよりも更に悪い顛末を共にして、だが。

 視界は、ひたすらに赤かった。

 ぱちぱちと材木が爆ぜる音が、ごり、ごり、と、臼で何かを挽く音に近い、およそ言葉では明確に言い表せぬ奇怪な音が、暗い絶望を彩っている。ついこの朝までは長閑な朝靄に包まれていた町は今、災厄の炎に包まれていた。既に人の気配はなく、どこからか、そう、何かぎとぎとした油が燃えているような、妙な臭みが――。ただの火事という具合ではない。

「シャナ姉……!」

 思い出されるのは今朝の姉の笑顔。その無事を祈りながら、アーシェラは馬から馬車を離そうと手綱を緩めた。

 そのときだった。火の粉散る地獄を、我が物顔で闊歩する影があった。まるで何人もの人間をバラバラに切り分けてめちゃくちゃに継ぎ接ぎしたような、おぞましい異形の何かだ。死人そのものの肌からはまるで生気が感じられないが、対照的に、何ヵ所もある口からは赤黒い涎がべたべたと野生的に降りそぼっている。

 異形を見た馬は、悲鳴のような嘶きと共に、縄を振り切って何処かに一目散に逃げていく。がたん、と御台は地に叩きつけられて、アーシェラは煤だらけの敷石に放り出された。

 起き上がろうと膝を立てながら顔を上げた、その視線の先に町の人々を見つけた。多くの者は血だらけで倒れ伏している。四肢があるのは良い者で、大抵は手足を一本二本失っていた。そして彼らは先程の、数多の身体を持つ異形の足元だ。無数の手が、見知った顔を、がぎり、と変形するほどに強く握って、ニメートルはかくやの頭上に放る。本能的に目を瞑った後、恐る恐る再び瞼を開けると、異形の不揃いな歯の間から、べっとりとした白と赤のマーブル模様が覗いていた。

 込み上げる嘔吐感に何とか耐える。

 見てはならない、見てはならない。

 脳が発する危険信号は、しかし凍りついた身体を動かせない。異形が次にその手に掴んだのは──。


「ねえ、さん」


 こんな私を、いつも甘えさせてくれた。料理ができなくて、整理が下手で。剣ばっかり上手くて、女の子っぽくないと大人にも子供にも言われたその中で、素敵だと、自慢の妹だと、そう抱き締めてくれた。

 あの温もりを守ると誓った。

 あの笑顔を守ると誓った。

 あの、大好きな人を、守ると。アーシェラ・スフェリオは誓ったのに。


 涙の目線が、アーシェラを射抜いた。血の気の引いた唇が小さく動く。

 にげて、アーシェラ。

 彼我の距離も忘れ手を伸ばす。当然、それはいままさに失われようとする、大切なひとには届かない。

 がごん。

 野菜を包丁で真っ二つにするかのような、少々の抵抗感の後に、一気に断たれるものが出す音だった。

 目玉と脳漿とが宙を舞い、べちゃりと地に落ちて、炎の海にさらわれていく。

 住宅街が、心と共にがらがらと崩れ落ちていく。すぐそこまで迫ってきていた涙はどこかで枯れて、商いの成功の喜びも、災禍への悲しみも、家族や友人への心配も、自らの保身も、楽しかった記憶も辛かった記憶も、姉との幸せも。何もかもが、消えて、消えて、消えていく。

 べちゃり、べちゃり。

 撒き散らされる血で、心が黒く赤く塗り潰されていく。

 それでもただひとつ、残ったのは。


 右手に、つるぎを抜いた。


「うあああぁぁああァァッッ」


 その憤怒のままに、咆哮して地を踏み切る。

 抜刀した片手剣は走行の阻害にならぬよう下段に流す。ちりちり波立つ炎で、銀の刃が複雑な陰影を生み出していた。その朧の鏡に、魔の手が映る。

 それは比喩的表現ではなく、言の葉そのものだった。

 肘辺りで引きちぎられたような腕が単体で、空を駆けながらアーシェラの首に指を迫らせている。

「──ッ!?」

 短く息を吐き出して、足を大きく右に踏み込む。左側に倒れ行く身体を跳躍させ、走行の勢いそのままに剣を振り上げて、錐揉み式に一回転。水平感覚を頼りに再び地を蹴り、周囲の気配から距離を取る。

 見れば、腕だけでなく、足だけのそれや、下半身だけの、歪な上半身と肘までのかいなのものが、明確な殺意を携え浮遊していた。……原型の残る大きなパーツのおかげで――大きなパーツのせいで、それが何だったのか理解してしまった。

 あれは、かつてはまともな人間だったのだ。

 慚愧の念が身を切り裂く。しかしまた感じるのは、斬らねば殺されるということと、彼らとて理不尽な死に加えて、それを冒涜されるのを望まないだろうということだ。故に決意する。

「あれは、敵、だ」

 呼吸を整え、いざ往かん。

 吾こそは、かのかたきを淘汰せんと地を駆る復讐者。何人たりとも、立ちはだかるもの、皆斬り捨てて、血の海こそを塗り替えん。

 襲い来る『手』に剣筋を合わせて二枚に裂き、『胸』を足場に空を奪いながら剣先で足元に刃を穿ち、降下のエネルギーを乗せた突きで、『足』の中腹を貫通させる。

 剣央少し下辺りで、『足』は動かぬ死骸に戻り、ぼろぼろと急速に朽ち果て、程なく灰塵となり、熱風にほどけて消えた。一定以上のダメージがあれば、活動は停止するらしい。これで不死身であったら流石に奇跡を想うしかなかったが、斬れば血を流し死すのであれば、勝機はある。

 湧き出る骸を切り開き、かの仇敵への道を為す。毒でも持っているのか、少なからず負った傷はじくじくと熱を持ち、正常な運動を妨げていた。

 それでも、何十分にも及ぼうかという死闘を、アーシェラは凌ぎきった。……元本の死体が無くなったのか、もう増援は現れない。

 なれば。

 火に照らされちりちり揺れる異形の親玉……その巨影にアーシェラは追いすがった。

 見上げる巨駆には、何人分の人間のパーツがあるのだろうか。四本の足が上半身に繋げられ、その首の上には更に二つの上半身があり、それらの所々からは数えきれぬ腕が伸びている。一番上の首の上には猥雑さの中でなお異彩を放つ、三つの人の頭が乗っていた。それぞれの口から、ぐおお、掠れるようなくぐもった声が漏れている。

 先手必勝、滑り込むように脚を斬りつけて後方へと走り抜ける。風船のようにぱあん、と付けた傷が弾けて、ヘドロのような、半固形のどす黒い血が飛来してくる。

 顔の前に来たそれを腕で受けると、たちまち焼き鏝を押し当てられているような、火傷に近い鋭い痛みが感覚をいたぶった。

 思わず意識の途切れたその間隙に、馬のそれのような、力強い蹴り上げが脳を揺さぶる。刹那の浮遊の後、アーシェラの身体は燃え上がる壁にぶち当たり、熱いも痛いも纏めて呼吸の苦しさでやって来る。

 ゆらり、写る影に咄嗟に跳ね起きると、追撃が数秒前のアーシェラの頭をかち割っていた。弾け飛んだはずの黒い脚は、既に元の形を取り戻してそこにある。再生──恐れていた異能の力。不死身の肉体。

「ふざけるな……死ね、死ねッ、どうして死なないッ……!」

 手前はと人を潰しておいて、自分は何も傷つかないなど、天秤が釣り合っていないではないか。怨嗟の声を吐き出しても、断たれた希望は戻ってこない。

 涙がぼろぼろ溢れ落ちる。死ぬのは怖くない。あの大切で、大好きな──最愛の姉の居ない世界にもはや未練などなかった。だがなぜ、神が居るのなら聞いてくれ、なぜ最後の復讐すら私は果たせないのか。

 ゆらりと幽鬼が立ち上がる。

「まだだ……」

 それでも退かない。諦めない。たといあと数瞬の命といえど、せめて最後まで、呪詛の傷を穿ち続けよう。何度何回繰り返しても、決して結実せぬ徒花だとしても。

 笑う膝を叱咤する。震える口元を持ち上げる。

「まだ、まだだ。終わらせない」

 死線で研ぎ澄まされた直感で以て、千の豪腕を回避しながら、隙を見つけては斬りつける、その襲撃を繰り返す。一振りの度、腕や脚は弾けてやはりあの黒い血を飛ばし、そして数瞬の後には元通り再生している。もはや返り血を受けてていないところなどどこにもなく、既に全身の痛覚は焼き切れた。もはやまともな意識は無い。ただの戦闘機械として、またもう一度、血を被る。

 もう一度。もう一度。もう一度、眼前の膿が消え果てる、久遠の果てまで何千何百。

 そうして、夕陽が地平に消え、夜は更け、火勢は弱まり、遠くの森で梟が鳴き、星が落ちて、朝日が水平線から現れたころ、変化が訪れた。

 弾ける血の量が、目に見えて減ってきた。次の一回で更に少なく。その次もまた更に少なく。

 そうしてついに、その一回が訪れる。

 振り抜いた先に、黒い飛沫はない。

 傷口は弾ける代わりに、ざらざらと端から砂のように崩れていき、ついに黒い骸の王の身体が消えていく。無数に絡まった糸の中の、唯一の勝利の一本。その瑞々しい果実。

「あ"……ぁ――? ぁ……う……」

 だがそれに喜びを示せるほどの人間性は、もうアーシェラにはなかった。

 まるで、心と身体との間に深い溝が穿たれたようだった。ぷつんと糸を切られたようにくずおれる。靄のかかった視界とノイズまみれの音に、何を感じるでもなく、呆然と、焼け残った土壁に背を預けている。

 怪物から受けた傷からは止めどなく血が溢れている。そしてどうしてか、その血は鮮血には程遠く、錆び付いたように煤けていた。先程まで飽きるほど狂うほどに見続けた、黒い、黒い、漆色の血だ。

 それを考えるだけの思考も、もはや覚束ない。

 だけど、ああ、あいつを殺せたのだから。もう、これでいいのかな、なんて。

 ベルトに仕込まれた収納から、何となしに、葡萄の髪止めを取り出した。表面の防腐剤が火に炙られ、爛れるように融けてしまっている。

 そして、ずきん、と一際強い痛みと共に、世界が変貌を遂げた。白く霞んでいた風景は、黒の海と赤の線だけの断絶の未来へと。

 取り落とした乾いた葡萄は、血だまりの中に小さな飛沫を立てた。

 この、髪止めは、確か、にあげようと思って――。



「これは……ひどいな」

 誰かが居る、ということは分かった。何かぐじゃぐじゃと赤の線が絡まった塊としか見えないので、それがどんな格好をしているとまではいかないが。しかしそれが誰でもよかった。

「ぁ……あ――」

 殺してくれ。薄れ行く意識でそう告げようとするも、出て来たのは、ただの呻き声だ。もう自らの惨状に涙することもできない。

「……枢機卿猊下。報告致しま――ッ、そ、それはッ?」

「……被害を食い止めてくれた、尊き戦士だ。報告を続けたまえ」

「はッ。既に、周囲に悪魔は見当たりません」

 悪魔。……それがあれの呼び名だった。お伽噺の大いなる悪。光に打ち払われたはずの闇。だが日は再び落ちた。深遠の淵は再び開いた。

「念のため近隣の街に聖水線を引いて行こう。……生存者は?」

「……誰も……」

「……そうか。一度本部に戻ろう」

 そっと首が持ち上げられた。どうも、感触から察するに、目の前の人物が腕を回しているようだ。

「よく頑張った。尊敬に値する戦士よ。もう、眠るといい」

 アーシェラの首元に、鋭い痛みが走る。きゅぽん、と滑稽な音を立てて首の異物が消える。ひゅうひゅうと、息がそこから漏れていくのが分かった。

 直後、身体中が熱を持ち……。身体の内から、ぼこぼこと、何かが沸き上がってくる。

「……再生か。侵食がひどいな」

「猊下ッ、お下がりください」

「ぁ――……」

 手をついて、身体を起こす。じゃらん、と、聞きなれた抜刀の際の金属音がそこかしこで聞こえた。

「ぁ……ま――て」

 悪魔。聖水。封印。……実働する聖銀機関。それはつまり、あの伝説は真に事実であったということか? 知らないことが多すぎる。話はまるで理解できない。だが、ただ、悪魔が、そうあれが、まだこの世を憮然と闊歩しているならば。どうして、この怒りを持ったまま、没することができようか。

 ぎりぎりと頭が疼く。

 怒りの理由は忘れてしまった。

 視界が色彩を徐々に取り戻す。

 それでも悪魔は倒さなければ。そう魂が告げていた。

 思考の靄が晴れていく。

 肺に溜まっていた空気を、血へどと共に吐き出した。

「――待て……あななたちは、何を知っているんだ」

「脳が生きているのか……?」

 晴れた視界には、剣を構え腰を落とす、騎士に似た鎧を着こんだ集団と、それを右手で制する、銀の髪をたなびかせる美しい女性がいた。

「答えろッ。あの怪物は何なのか! あなたたちは何なのか」

「猊下ッ、お下がりくださいッ」

「……あれは……悪魔だ。千余年の封印から解き放たれた過去の絶望の遺構……そして私たちは聖銀機関の者。悪魔を再び現世から廃絶するのが目的だ」

「猊下ッ」

「悪魔は、まだいるのか」

「ああ」

 悲しそうに、頷いた。

「悪魔は尋常ならざるスピードで増殖していく。悪魔の血を被った人間は、死者も、生者も関係なく、みな悪魔に成り果てる。……それは

 悪魔は増える。その手で作った惨劇で増え、また惨劇を引き起こす。そしてアーシェラもまた、悪魔の血を被り続けた狂人もまた、どうしようもなく悪魔に堕ちていた。

「悪魔を滅ぼす……それは、可能なのか」

「やらねばこちらが滅ぶ。故にやるのだ」

「――……私は、悪魔を倒したい」

 何を言わんとしたかを察したように、女性の眉がぴくりと動かされた。

「これは私の復讐だ」

 黒い返り血を浴びた剣を、今一度拾い上げ、刃を握り、柄を女性に向け膝まづく。

 この柄を握るのはだと思っていた。それが誰だったのかはもう思い出せない。涙が出そうになるほど、大好きだったはずなのに、顔も名前も、闇の中。けれど、がもういないということだけは、何故だか分かってしまうから。

 もはや真に柄を向ける人はなく。

 なれば、この刃を悪魔に向ける他に無い。

「だから私は」

 はあ、と銀の煌めきが、息を纏めて吐き出した。

「汝、勇敢なる戦士。悪魔をも打ち倒して見せた、勇気と力を持つ戦士。其の名は何か」

 周囲の騎士たちにざわめきが広がる。名前も到底思い出せそうになかったが、手に持つ剣が教えてくれた。アーシェラ・スフェリオ。……そう、ポンメルに刻印されている。

「――アーシェラ・スフェリオ。我が身、、この剣に誓って、我らに勝利の栄光を、かの敵に断罪を」

 ざわめきを制するように、そう精一杯、凛々しく気高く、告げる。

「アーシェラ・スフェリオ――」

 とん、と肩を剣の腹が叩く。

「お前の誓い、このセルビア・ヴェグナンチカが受け取ろう。その誓いある限り、アーシェラ、お前は私の騎士だ」

 かくして――ここに。

 悪魔となった少女は、悪魔殺しの騎士となったのだった。

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