第9話

 それから二日、三日と過ぎて行き、倉橋さんが来ると予告していた「来週」になった。その予告通りなら彼女は今週の五日間のうちに学校に来られるようになるはずだ。

 ベッドの上で寝返りを打つ。暗闇の中に僕の動きだけが見えていた。今は倉橋さんの言ってた「来週」の二日目の夜だ。

 今週は倉橋さんの事で頭がいっぱいなので、祐介と岡本さんがどうなっているかは割愛させてもらう。気になる人はたくさんいるだろうけど、僕は倉橋さんの事だけを考えておくべきなんだ。この前の曇天模様を見てからそんな想いに取り憑かれている。

 倉橋さんを待って、今週も既に二日が過ぎようとしているという事実は僕に大きな焦燥感を抱かせていた。今週彼女が来てくれないと一生僕はこのまま時間が止まったような人生を送る事になりそうな気がする。焦燥感は更に肥大化していく。

 先程まで空には月が輝いていたのだが、いつの間にか雲に隠されてしまっていた。月明かりが無くなって、部屋には人工の明かりだけが広がってくる。夜ってこんなに暗かったのか。

 寝る前に見た夜のメロドラマを思い出す。大人たちのドロドロとした愛の汚さが、純愛しか知らない中学生には酷く不快に感じられた。僕はあんな風にはなりたくない。もう一度寝返りを打つ。壁に背を向ける形になった。

 部屋の真ん中に置いてある小さなテーブルの上には、作家、野上のがみ祐太ゆうたの『春雷』が置かれていた。

 その本はある少年の初恋を描いた物語だ。中学生の主人公が、春に一人の女の子と出逢う場面の描写がなんとも言えぬ美しさを醸し出している。五分の四程読んだので、今は丁度クライマックスに到達するところだ。はたして少年は好きな子と結ばれる事が出来るのか、自分の現状と重なるような物語に心惹かれて読み出したのだ。

 あまり眠くないのでその本を最後まで読んでしまおうかと思ったが、一度横になってしまった体は起き上がる事を拒んでしまった。それに今その本を読んでしまうと、僕と倉橋さんがどうなるのかわかってしまうような気がする。もし、二人が結ばれなかったら僕はどうすればいいと言うのだ。そんなの気にしなくて良いのだろうけど、あまりに現状と似過ぎているので怖い。仕方なく目をつむる。

 それから焦りと恐怖で中々寝付けずに約一時間は過ごした記憶がある。もしかしたら明日になれば何か動きがあるんじゃないか。やっと眠る事が出来たちょっと前にそんな事を思っていた。


 気がつくと目の前にスピンがいた。青みがかったその目は真っ直ぐに僕を見つめている。

「どうしたんだよスピン。なんでお前がいるんだよ」

「そんな事は気にしなくていいよ。僕は君の悩みを聞くだけが使命なんだ」

「あっ、またこいつ話してる。お前って化け猫だなぁ。てか、悩みってなんだよ。いつ僕がお前に悩みを相談したんだ」

「そんなの一々相談されなくてもわかるよ。僕はそのためにあるんだから」

 スピンが振り向いて歩き出す。現状がよくわからないが僕もその後をついて行く。気がつくといつもの公園に来ていた。

「さあ、そのベンチに座って、悩みを話してごらん」

「だから悩みってなんだよ。今そんなに悩んでる事なんて無いぞ」

「本当にそうなのかい?まあ、とりあえず座って」

 仕方なく言われた通りにする。常日頃から変な奴だとは思ってたが、今日は一段とおかしい。

「よし、それじゃあ思い出すんだ。君は今どんな状況にある?」

「今の状況?そうだな、倉橋さんがずっと学校に来てない。でも今週には来られるって言ってたよ」

「それは岡本さんも同じ事を言われたんだろ。本当に詩織ちゃんは来てくれると思ってるのかい?」

「そりゃ、多少は来ないかもしれないとは思ってるけどさ。来るって信じてないとやっていけないだろ」

「その事については悩みは無いのかい」

 彼に指摘されて少し考えてみる。

「そうだな、もし来なかった場合はどうすればいいんだろう。その時考えようってなってるけど、時間が経つ程倉橋さんが来るのは難しくなりそうだよ」

「それが今の君の悩みだよ。そして僕はその悩みの相談に乗るために来たんだ」

「それは頼もしいな。それで、僕はどうすればいい?」

 僕がベンチに座って彼が目の前で話していたのだが、僕の質問に答える前に彼もベンチに登ってきた。

「それでは答えよう。君は何よりもう一度詩織ちゃんと会うべきだよ。でないと、取り返しのつかない事になるかもしれない」

「取り返しのつかない事?何だよそれ。何か悪い事が起こるのか?」

「悪いけどこれ以上は教えられないんだ。君が自分で考えるしかないね」

「何だよ、無責任だな」

 改めて真横に座る猫を見つめる。一片の悪気も無さそうな足で耳の辺りを掻いている。

「じゃあ、それで倉橋さんと会ってどうすればいいんだ。今週に彼女が来なかった場合どうすればいいか教えてくれるんだろ?」

「残念ながらそれも教えられないよ。これから君が生きていく上でこの類の悩みは何度か訪れるだろうけど、僕はそれの相談だけには乗ってはいけないんだ」

「何言ってんだよ、お前が悩みを聞くって言ったんだぞ。教えられないで済ませるなよ」

「僕は聞くと言っただけだから、解決するとは言ってない」

 本当に何言ってんだ、こいつ。何のためかはわからないけど僕を馬鹿にしに来たとしか思えない。

「お前なぁ…」

 そう言いかけた時、足元に白い霧のようなものが立ち込めてきた。咄嗟に足を上げるが、危険なものではなさそうなのでゆっくり足を元に戻す。

 ふと、辺りを見渡すと景色が無くなっている。白っぽいもやが僕らを包んでいた。

「なんだここ…。何も見えないぞ」

「そろそろ時間だね。相談を解決してやれなくてすまなかったね。でもいいかい、詩織ちゃんとはすぐにでも会うんだよ」

「時間?ちょっと待てよ、何を言ってるんだよ、スピン」

 すると彼はベンチを降りて走り出してしまった。急いで後を追いかけようとする。しかし、どれだけ走れども距離は開いていくばかりだ。

「スピン、待ってよ。どこ行くんだよ、どうしたんだ急に。おい、スピン。スピンってば!」

 僕の声は虚しく、白い靄に隠されていく形で彼の姿は見えなくなって行った。


 目覚まし時計の音が鳴り響いた。目の前が薄白い、なんだこれ。ああ、目を閉じているんだ。

 目を開くと、視界にはいつもの見慣れた天井が入ってくる。僕の部屋だ。

 何だったんださっきのは。辺りを見てみると、真っ暗だった部屋は既に置いてある物が全て視認出来る程の明るさになっていた。なるほど、さっきのは夢だったのか。

 体を起こして大きな伸びをする。窓から見える空は雲で覆われている。この前僕を不安にさせた空は、あれからずっと同じ場所に居座っているように見える。今日も憂鬱だ。

 夢の中でスピンに言われた事を思い出す。倉橋さんに会いに行けと言ってたな。なんだか真剣な表情をしていたから本当に会いに行った方がいいかもしれない。

 今日の放課後に彼女の家に行くか検討しながら朝の身支度を済ませ玄関へと向かう。まだあの母親への嫌悪感が消えたわけではないけど、どうもスピンの言葉が耳に残っている。勇気を出して訪ねてみた方が良いかもしれない。中々上手く出来ずに靴紐を二回結び直した。

 一歩外へ足を踏み出すと何か異様な空気を感じた。怠さと眠気が混じったような感じのもので、急に気分が落ち込む。家の側をはしゃぐ小学生たちが通ったが、そこから発せられる元気でも僕を明るい気持ちにさせるには及ばなかった。

 その小学生たちの後を見送り反対側に歩き出す。だんだん歩くうちに、先程感じた嫌な空気が重くなってきているのを感じる。倉橋さんの家はおろか、出来れば学校にさえ行きたくないと思ってしまう日だな。しかし倉橋さんのためにもそれは出来ない。でも、彼女に会うにはあの母親をどうにかしなくてはいけない。やっぱり憂鬱だ。

 十五分程歩いて学校に着いてもその憂鬱は消えてくれなかった。それどころか途中で傘を持ってくるのを忘れた事に気づいて、自分の机に着いた時には早くも帰りたい気分だった。そんな気分になったのだから、倉橋さんが来ていなかったのは言うまでもない。

 なぜこんなに気分が重いのか、特に身に覚えもなく全然わからなかった。虫の知らせって言葉が一瞬頭をよぎった気がするが、そんなものを一々気にしてる心の余裕は無かった。

 とりあえず夢の中のスピンの話は放課後になってから考える事にして、午前中の授業を無為に過ごした。僕の気分は暗かったが、周りはいつも通りに動いていた。変わりばえもなく体育や国語があって、好きな社会でも気分は上がらなかったが、それでも屈託の無い日常が流れていた。

 途中で祐介や岡本さんとも会ったが、彼らもあまり浮かんだ表情はしていなかった。倉橋さんが来るはずの週になって三日目となってもまだ彼女は来ていない。それでも諦めずに、イメージアップを目指してはたらきかけながら倉橋さんを待ち続けているのだから顔も暗くなるだろう。

 二人といつも通り昼休みに会う事を約束し合った事を思い出しながら給食を食べる。本当にいつも通りの事なのでわざわざ約束などしなくてもみんな集まるだろうな。そんな事を思いながら牛乳を飲み干した。こいつの味だけはいつもより美味しくない気がする。味が硬い。

 いつもと違うのは僕の心とこの牛乳だけか、と皮肉めいたような言葉が浮かんだ。どこが皮肉なのかと言われると説明出来ないから、本当は皮肉など込められていないのかもしれない。

 みんなが給食を食べ終わり、容器や食べ残しを片付けに行く準備をしていた時だった。急に担任の先生が、話があると言ってみんなを席に座らせた。昼休みになると同時に、校庭のサッカーゴールを確保するためにサッカーボールを待って走り出す準備をしていた男子たちから文句が出る。

「悪いな、でも大事な話だからな、怒らずに聞いてくれ」

 そう言ってため息をつく。先生も僕と同じような浮かない顔をしている事に初めて気づく。

「えー、ちょっと前から話し合っていた事なんだがな、今日の朝正式に決まった事なんだ。倉橋についての事だ」

 すぐに顔を上げた。最近は祐介と岡本さんの二人以外からその名を聴く事がなかったから少し違和感を感じた。一体、先生は彼女について何を話すって言うんだ。

「えー、本当に残念な事なんだけどな」

 先生はそこまで言って、一呼吸置いた。どこか話を続けるのを躊躇っているようにも見える。教室中が先生に注目して静かになる。それに後押しされるように先生が顔を上げ口を開く。


「倉橋は転校する事になりました」


 先生の声が静かな教室中に行き渡る。他の音は一切しない。漫画だったら確実に『シーーン』という効果音が付くだろう。そんな状態になった。

 それから三秒くらいの静けさを有してみんながざわめき出し、やっと僕は言葉の意味を理解し始めた。

 テンコウ、転がるに学校の校と書いて転校。別の学校に移動し、在籍する学校が変わるという意味だ。つまり、倉橋が転校すると言えば倉橋さんがこの学校からいなくなってしまう事を意味する。倉橋さんがいなくなるというのは、つまり…どういう意味だ?

「えー、この前倉橋が自分が犯人だって名乗り出ただろ。それでお母様と大分揉めたらしくてな。もうこの学校にはいてはいけないと言われたらしいんだ。それで一週間くらい前からずっと話し合ってたんだけどな、今日の朝、正式な手続きを済ませていった。本当は最後にみんなに挨拶しておきたかったらしいけど、昼ごろには新しい町に引っ越すって言ってたから時間が取れなかったんだ。だから、そろそろこの町を出て行く頃だな。急な事でみんなにさよならを言えないのが残念だと言っていた。本当に急な事で悪いし寂くなるけどな、もう決まってしまった事なのでどうかみんなには早く受け入れてほしい」

 最後に先生が、以上だ、と言い、教室中のざわめきが収まらないうちに昼休みに入った。

 目の前に死んだ母親の死体を差し出されて、「これはお前の母親だ」と宣言された気分だった。確かにそれは母親なのだろうけど、信じたくない。精巧に作られた偽物でまた普通に生きて会える、そう信じたい。もちろんそんな経験をした事は無いが、きっとそうなれば今と同じ気持ちになるのだろう。大袈裟な表現と思われるかもしれないが仕方ない、実際にそう感じたんだ。

 ふと先生を見ると荷物をまとめて教室を出て行こうとしていた。咄嗟に体が動き先生を引き止める。

「あのっ、それ本当ですか?ドッキリとかじゃ」

 先生は怪訝な顔をする。友達の転校をすぐには受け入れられない中学生を、憐れみの目で見て慰めようとするような顔にも見える。

「悪いな、本当の事なんだ。俺もどうにか止めようとしたんだけどな。こんな事言っちゃいけないけど、あそこの母親はちょっと変わってるから。笠木は倉橋と仲良さそうだったから辛いよな」

「そうですか…」

 何か、何かしなければ。彼女がいなくなるなんてまだ信じられない。でも何かしなくては。でも、何を?僕の脳がかつてない程働きだす。

「あっ、そういえば彼女の家、車無かったですよね。どうやって引っ越し先まで行くんですか?」

「バスに乗って駅まで行くって言ってたな」

「電車に乗るんですか?」

「そうらしい」

 先生は彼女の引越し先を教えてくれた。なんと二つも隣の県だった。行ってしまったらそう簡単には会えないだろう。

「えっと、それじゃあバスは?どこから?」

「そんなのは聞いてないけど、多分一番近くの公園にバス停があったからそこだろ」

「わかりました。ありがとうございます」

 公園前のバス停といえば彼女と彼女の父親が分かれる前に最後に会った場所じゃないか。そんな所から恐怖の意識があるバスに乗るとは考えにくかったが、他に彼女たちがバスに乗れそうなバス停も思いつかなかった。

 これはもうそのバス停に行くしかない。このままわけもわからずにお別れなんて出来るはずがない。

 僕が振り返って走り出そうとすると、先生に呼び止められた。

「笠木!」

「はい?」

「わかってるとは思うが午後からも授業はあるんだからな」

「…はい」

 先生は僕が彼女の元へと向かおうとしている事を感じ取ったのかもしれない。教師としてのメンツを守るため授業はサボるなよというような事を言ったが、その目は急げよと僕を急かしていた。その目に勇気付けられて走り出す。

 全力で靴箱に向かっていると別の教室から岡本さんが出てきた。

「あっ、笠木くん。今丁度そっちに行こうとしてたとこ、ってそんな事より大変よ!詩織ちゃんが…」

「わかってる、当然僕も聞いたよ。だから今から会ってくる」

「実はね、私少しこんな事になるんじゃないかって気がしてたの。でも確信出来るものなんて何も無かったし、笠木くんたちを不安にさせるのも良くないなって思って…」

「悪いけど今それを聞いている余裕はない。僕たちの事を考えてくれたのはありがたいけど続きは戻ってからだ。もう行くよ」

 まだ何か言おうとしていた岡本さんを置いて再び走り出した。とにかく急がないと。倉橋さんが行ってしまう前に言わなくちゃいけない事がたくさんある。それはもう、簡単には数えられないくらいに。だから頼む、どうにか間に合ってくれ。

 足を止めずに靴を履きながら全速力で学校を出て行った。周りの目なんて全く気にならない。ただひたすら全力で走り続ける。

 人がいてもスピードを落とさずに避け、赤信号は車が来てない事を確認して渡った。右、左、右と体が勝手に覚えてしまっている公園までの道を一度も止まる事なく走った。

 走っている間、わけがわからないなりにも涙が出てきた。こんなにも急に彼女がいなくなってしまう事を、案外早く僕の脳は理解し始めたようだ。涙が溢れて後ろの方へと飛んで行く。夏の気配を帯びた風が頬を切る。僕は足を止めない。

 最近建てられた大きなビルも、迷惑にしかならないような合唱を続ける蝉たちも、犬も猫も、太陽すらも僕に急げと言ってるようだった。それらの応援を受けて更にスピードを上げる。するといつもよりも五分以上早く公園が見えてきた。これが火事場の馬鹿力ってやつなのだろうか。そんなの今はどうだっていい。

 公園の中に滑り込みバス停を見る。首を動かすと額と髪先から数滴の汗が飛んで落ちた。顔だけでなく、夏本番直前の真昼にダッシュした僕は全身汗まみれだった。どんどん吹き出てくる汗を制服の袖で拭う。

 そしてもう一度バス停へ顔を向けると、そこには大きな荷物を抱えた二人の女性の姿があった。倉橋さんとそのお母さんだ。

「倉橋さん!」

 間に合った事に安堵する暇もなく、出せる限りの大声で名前を呼ぶ。

「笠木くん!?」

 突然の大声に肩をピクッと揺らして振り向いた倉橋さんがすっとんきょうな声を出して驚いている。約一週間ぶりに見る彼女の姿は少しばかりやつれているようだった。

「え、ど、どうしたの?なんでこんなところに」

「どうしたじゃないよ、どうして急に、転校なんてする事、になったんだよ」

 全力疾走のせいで息を切らせてしまい、何度も息継ぎを繰り返しながら喋った。彼女が返事をするよりも先に、彼女のお母さんが周りを気にするように離れた所へ逃げて行った。怒られるのを覚悟の上でここまで来ていたので意外だった。やはり外では人の目が気になるのだろうか。

「あ、そうだよね、みんなにとっては急にいなくなったわけだよね。その事は本当にごめんなさい」

 彼女が深々と頭を下げる。長い髪が垂れて顔を隠した。

「いろいろ言いたい事はあるけど、なんで転校する事になったの?先週は来られるようになるって言ってたじゃないか」

「そうなの、本当はその予定だったんだけど、お母さんがどうしても転校させるって言って。私ずっと抵抗してたんだけど笠木くんと話すために家を出た時に、お母さんに転校するって学校へ電話されてたの。それからもずっと抵抗し続けていたんだけど転校しないなら親子の縁を切るって言われちゃって。昨日とうとう私の方が折れちゃったの」

「僕と話してた時…」

 なんだそれ、じゃあ転校するのが決まったのは僕のせいって事になるじゃないか。あの時僕が彼女の家に行かなければ、母親が学校に電話する事なんてなかったんじゃないか。

 自分に突きつけられたあまりに残酷な現実に息が詰まってきた。僕はただ、彼女を助けたかっただけなのに。目がふらつき頭が真っ白になる。息は荒くなり手足が震えだす。体がいたるところで悲鳴を上げ出した。

「そ、そんな。ごめん、僕のせいだ、僕のせいで…」

 体の異常が一瞬にして消え、それら全てが両目に集められたかのように涙が流れてきた。どうしよう、止まらない。

 すると、暖かい手が伸びてきて、ミヤコワスレの花柄のハンカチがその涙を拭ってくれた。目の前の倉橋さんが微笑む。

「笠木くん、私のために一番何かをしてくれたのは君だよ。君が助けてくれる度に私は何度も幸せな気持ちになれた。そうやって今回も私を助けようとしてくれて、その結果こうなってしまった事は全然悲しくない。寧ろ私は嬉しいの。たとえ親友に裏切られても、母親に怒鳴られても、私にはこんなにも心配してくれる人がいるんだってわかったから」

 ゆっくりと顔を上げて倉橋さんを見つめた。そこにあったのは僕が今まで見た中で一番優しい笑顔だった。

 ああ、この人の優しさはどこまでも計り知れない。周りの人たちに畏れ多いくらいの愛を与えて、自らの身を滅ぼす事にもなってしまうくらいに。そして、その優しさをかけがえのないくらい大切に思う人もいるんだ。例えば、僕みたいに。

 倉橋さんの手が離れる。ハンカチを当てられた目からはもはや涙は流れていなかった。彼女には不思議な力がある。

「僕、まだ信じられないよ、君が転校してしまうなんて。もしかしたら本当は嘘なんでしょ?みんなして僕を騙してるんでしょ?」

「笠木くん…」

 彼女の目が細められる。慈愛に満ちた女神のような目だ。

「私もそうだったらいいなと思うんだけど、残念ながら本当なんだよ。本当に今にも泣き出しそうな程辛いの」

「そんな、君がいなくなったら僕はどうすればいいんだ。これからどうやって生きていけばいいって言うんだ」

「笠木くんなら大丈夫だよ。だから、そんなに哀しまないで。せっかく決心したのに私まで泣いてしまいそうになっちゃうよ。だから、今は我慢して笑ってお別れさせて」

「そんなの無理だよ。出来るわけ無いじゃないか。だって僕、僕…」

「お願い」

 そう言って彼女が僕を抱き寄せる。今まで感じた事のない暖かさに心が満たされる。そのままの状態でしばらく動けなくなる。

 そこに僕は何かを感じた。正体はわからないがとてつもなく大きな何かの存在を。もしかしたら人はこれを神と呼ぶのかもしれない。そう、彼女は女神だ。

「…わかったよ、他ならぬ君の頼みだ。今は泣かない」

「ありがとう」

 二人がそっと離れる。それでもまだ暖かさは残っていた。

「最後に何かお話しようよ。いつもみたいになんでもない話を」

「そうだね、君に会えない間に話したい事がたくさん溜まったよ。まずは…」

 本当にたくさんあり過ぎて何から話せば良いのか悩む。しかし、まず報告するべきと言ったらあの事だろう。

「まずは岡本さんの事かな。彼女本当に反省して人が変わったようになったよ。それでこの前から祐介に恋までし始めたよ」

「ええっ!?日奈子ちゃんが?何それ、すっごい話!」

 彼女の表情に花が咲く。見る者を幸せにする笑顔が眩しく目に突き刺さる。

「話の流れで祐介が岡本さんにかわいいって言ったんだ。そしたらその時から急に意識し始めたって感じだったよ。人が恋に落ちる瞬間を初めて見たよ」

「田中くんか〜。ちょっとハードル高いけど日奈子ちゃんならきっと大丈夫だよね。応援してるって言っといてね。それで他には?もっといろいろ話してよ」

「そうだなぁ…」

 それから十五分程僕の話は止まらなかった。祐介と岡本さんと三人でいろいろした事や最近のスピンの様子、果ては僕の勉強事情など普段はおもしろくないだろうと話さなかった事までが口をついて出てきた。彼女はその一つ一つに大きなリアクションを取りながら嬉しそうに笑っている。

 しかし、無限に続くかのように思われた時間はバスの到着と共に終わりを告げる。バスの到着する音が悪魔の笑い声のように聴こえたのは人生で初めてだ。再び、彼女がいなくなる事への恐怖が湧いて出る。

 離れていた倉橋さんのお母さんがやって来て、行くわよ、と言いながらバスに乗る。僕たちの様子など全く気にしないように言い放ってきたので、こちらも気にしてないといった調子で僕たちは話しを続けた。僕は少しでも彼女を留めておきたいという一心だったかのもしれない。

「それと、この前君に薦められた本、最近読み始めたんだけどあれおもしろいね。主人公の悩みとかすごい共感できる」

「でしょ?私もずっとそう思いながら読んでた」

「あと昨日スピンに餌をやりに行った時さ、あいつこの前の太っちょ猫と喧嘩してたよ」

「ほんと?スピンは体が細いからちょっと心配だなぁ。笠木くん、これからもしっかり守ってあげてね」

「もちろんだよ。あと、それとね、えっと…」

「笠木くん」

 彼女が真っ直ぐに僕を見つめてくる。思わず声を上げてしまいそうな程に綺麗な瞳に身動きが取れなくなる。

「残念だけどそろそろお別れだよ。最後に話が出来て、本当に良かった」

「そうか…」

 ついにやって来た別れの瞬間にあと一つ決心がつかない。彼女と別れる決心が。

「あ、そういえばバスは怖くないの?ちゃんと乗れるかい?」

「大丈夫、こうやって笠木くんが来てくれたおかげで勇気出たよ」

「それは良かった。本当に無理しないでね」

「うん。笠木くんこそずっと元気でいてね。それからスピンのお世話はちゃんと続けてね。出来れば一週間に一回は写真送ってほしいな」

「大丈夫だよ。僕の猫好きはもう知ってるだろ。責任持ってお世話するよ。なんなら家で飼ってもいいよ、もう二匹もいるけどね」

「三匹になったらちょっと多すぎるね。大変だろうけどよろしくね」

 バスの中から倉橋さんを呼ぶ声が聴こえた。中を覗くと彼女のお母さんが運転手に必死で、待ってください、って言いながらこちらを睨んでいた。いよいよ彼女にさよならを言わなければならない。

「そ、それじゃあもう行くね。この町を出る前に笠木くんに会えて本当に良かった」

「僕もだよ」

 彼女は軽く微笑み、振り返ってバスの階段を登りだした。駄目だ、まだ行かないでくれ。まだ一番伝えたい事を言ってない。

 このまま彼女が去って行ってしまいそうになるのを感じて、焦って声を上げる。

「く、倉橋さん!」

「はいぃっ!」

 なんとか呼び止めた。彼女の目が丸くなっている、それほどの大声が出た。

 頭が真っ白になる。伝えたい事、彼女への想いを言わなくてはいけないのに何て言えばいいのかわからない。彼女の後ろでは彼女のお母さんが本当にあと少しだけって運転手に 懇願している、僕を睨みつけながら。この母親が僕らの話を待ってくれている事がとてつもなく意外だ。女心と同じくらいに親心はわからない。

 しかし、こうなったら早く言わなくては。もう呼び止めたんだ。後はこの想いを伝えるだけだ。そうだ、言え、言うんだ。早く、ほら。

 全身の血の巡りが急に加速するのを感じる。心臓は壊れたおもちゃのように暴れまくっている。そうだ、僕は彼女が好きなんだ!

 思いっきり息を吸い込む。周りの景色が一瞬にして消える。今この世界には僕と彼女しかいないんだ。僕らだけの世界なんだ、もう、どうとでもなれ!………今だ。


「僕はぁ、君の事が、大好きです!!」


 夏を前にして訪れた梅雨の、とある一日の昼下がり。一人の少年の想い人への告白が空にこだまする。それは、ささやかながらにも美しい光景だったに違いない。

 辺りが色付いてくる。僕の声によって景色が戻ってきた。以前として曇っている空や、遠くで聴こえる蝉たちのうるさい鳴き声に懐かしさを感じる。

 言った、ついに言ったぞ。

 目の前の倉橋さんの顔が一気に赤くなる。後ろにいる乗客たちは驚いた顔で見つめている。にやにやしてる人もいる。お母さんはポカンとして突っ立っている。唯一、運転手だけが興味無さそうに、もういいですかぁ?と尋ねていた。

 倉橋さんは赤くなったまま黙ってしまった。今にも湯気が出そうだ。

 面食らった表情のまま倉橋さんのお母さんが後ろから彼女の背中を押した。何か返事しなさいよ、って。

 背中を押され、倉橋さんはゆっくり階段を降りて来た。最後の段まで降りて来たがバスからは降りずに止まる。

 それから数秒間俯いて目を右往左往させていたが、突然意を決したように頷いて僕の両手を握る。

「か、笠木くん!」

「はいぃっ!」

 一瞬の静寂。そして、

「わ、私も大好きです!!」

 僕だけの時間が止まった。この上なく幸せになれる言葉をいつまでも残しておきたいと、時間というあまりにも巨大な存在に抵抗しているようだった。

 その抵抗も虚しくすぐに時間は進み始め、乗客の一部から歓声と拍手が送られる。それらから溢れ出るお祝いムードの中、倉橋さんのお母さんはただただぼうっとしていた。

 やった、やったぞ。ついに二人は結ばれたんだ、これからはずっと一緒に…。

 その時、

「ドアが、閉まりまぁす」

 唯一関心を持たない運転手の声が僕を一瞬にして現実に引き戻した。ずっと一緒に、じゃない。彼女は行ってしまうんだ。全てをぶち壊して恐怖が蔓延する。

 慌てて彼女が手を離す。ドアが動き出すための音を立てて、彼女が少し後ろに下がった。

 駄目だ、待ってくれ。行かないでくれ。僕は君がいないと、君がいないと駄目なんだ。僕は––––。

 必死に手を伸ばそうとする。同時にドアが閉まり出す。止まれ、止まれ止まれ止まれ。

 するとその時、彼女が微笑んだ。心がじんわりと暖かくなって、一瞬、目を奪われる。

「笠木くん」

 僕が見たなかで一番の笑顔になる。一番優しいのか、それとも一番明るいのか。いや、そのどちらでもないかもしれない。僕の人生の中でとにかく一番なんだ。

 この時目を奪われてなければ彼女を引き止める事が出来たのかもしれない。しかし、もう遅い。全ての動きがスローモーションになる。彼女の顔に注目すると一番の顔を保ったまま口が開きだす。ああ、美しい。

「またね」

 彼女がそう言った直後、スローモーションは終わりすごい速さでドアが閉まって僕はドアに手をついた。

 勢いよくバスが動き始めて慌ててに手を離す。すぐにまたフラフラと手を伸ばしてみるが、バスは変なお客のせいで生じた遅れを取り返すべく、急にスピードを上げて走り去って行ってしまった。

 どんどんバスの姿が遠のいて行く。信号が黄色になっても一切減速などしない。僕から逃げるように、はたまた、彼女が呑み込まれて、どうしようも無い表情になっている僕を嘲笑うかのように去って行く。みるみるうちにバスは小さくなって、ついに、消えた。

 この瞬間、僕の人生に訪れた希望は遥か遠くの彼方へと去って行ってしまったのだ。

 梅雨の薄暗い午後に、最愛の人と別れて独り取り残された僕は、糸が切れたようにその場にへたり込んだ。

 いつの日か彼女が言ってたように、バスは僕の大切な人を呑み込んで行ってしまった。無慈悲に、あまりにも残酷に、どこか会えないかもしれないような場所に連れて行ってしまった。

 力なく体育座りになって涙を流す。今度は二度と止まる事の無いように思える。

 灰色の空はついに雨粒を落とし始め、狂気の蝉たちが雨粒を怖がるようにより一層強く鳴き始めた。車も自転車も、僕の周りには人を感じられるものはいなくなっていた。

 神様、神サマ。どうか僕を––––。

「倉橋さん…」

 そして、僕はバスが嫌いになった。

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