そして、僕はバスが嫌いになった。

稲光颯太/ライト

第1話 第一章 出逢い、そして恋慕

 公園のベンチに座って、一人バス停を眺めていた。僕の通っている中学校は夏休みに入り、公園内には蝉たちの大合唱が鳴り響いている。目に落ちてくる汗を拭って、またバス停の方に目をやる。

 バスは嫌いだ。後ろの乗車口は大きな口みたいで、たくさんの人を呑み込んで二度と会えないような場所に連れて行ってしまうから。たとえそれがどんなに大切な人であろうと、容赦なく。

 みんなにとってバスはそんな物などではないかもしれない。しかし僕の大切な人は呑み込まれてしまったんだ。だから、少なくとも僕にとってはこの上ない残酷なモノにしか感じられなくなったんだ。

 それは今から三週間前、夏を前に訪れた梅雨の、とある日に起きた事だった。



 僕には好きな人がいた。

 同級生の女の子、倉橋くらはし詩織しおりさん。彼女を好きになったのは一年生の春の事だった。最初に話はそこまで遡る。

 まだ入学して間もないある日の放課後、周りの誰からも制服が似合わないと言われてしまうような時期だ。小学校からの友達と別れて一人で家に帰っている途中、僕の家まであと五分という所にある公園で彼女を見つけた。

 基本的に女子に慣れていない僕は、外出した時に同級生の女の子と会っても顔すら合わせようとしないのだが、彼女の場合は不思議と足が止まった。入学して間もないこの時期に同じクラスの子を見つけ、早くクラスに馴染むため女子の知り合いも作っておくべきだとでも思ったのかもしれない。

 公園の中で桜に囲まれている彼女を、一人でしゃがみこんで何をしてるのだろうとよく見てみると、どうやら猫のお世話をしているようだった。

 足を止めたはいいが人見知りな上に女子に慣れていない僕は、公園の入り口でただその様子をじっと見ていた。

 いや、どちらかと言うと猫を見ていた。これは別に照れ隠しとかではない。猫を見ていたのは、無類の猫好きだと自負しているからだ。やはり、猫はいつでも目の保養になる。

 すると、そのうち彼女がこちらに気づき、

「あ、えっと…笠木かさぎくん?」

と声を掛けてきた。笠木というのは僕の名前だ。正直、同じ小学校以外の人に名前を覚えられてないと思っていたので驚いたが、名前を呼ばれたからには行かないわけにはいかなかった。

 彼女の元に行くまでに必死に名前を思い出す。確か出席番号が二人くらい後ろの人だ。えっと、僕が笠木だから、か、き、くと続いて…そうだ、倉橋さんだ。

「倉橋さんだよね。何してるの?」

「おっ、名前覚えていてくれたんだね。嬉しいな〜」

「もちろんだよ。そっちこそ覚えてくれてて嬉しいよ。それで、何をしてるの?」

「見ての通り猫の世話だよ。私猫好きなんだ」

「へ〜」

 一瞬、これで話が終わってしまうのではないかと思った。いくら女子と話すのに慣れていないからって、それは流石にマズい。今後の人生が危ぶまれる。

「えっと、この子は君が飼ってるの?」

「ううん、飼ってるわけじゃないよ。この子は捨て猫でね、家に連れて帰るとお母さんが怒るからこの公園でお世話してるの。うちのお母さん、世間体を気にし過ぎる人でね、ご近所から文句言われたりしたら嫌だからなるべくそういうことは避けてるの」

「へぇ〜…」

 世間体という言葉は小学校を卒業したばかりの僕にはイマイチわからなかったので少し曖昧な返事になってしまったが、大体の内容は把握出来た。

「雨の中ずっと震えててね、ちょっと見捨てられなかったんだ」

 まるで漫画みたいな話だな。それならこちらもお決まりの台詞でいこう。

「優しいんだね」

 そんなことないよ、と照れながら彼女が笑った。今まで見た中で一番明るい笑顔の持ち主だった。

 僕が猫を撫でてやると、彼女にはあんなに懐いているのに、五秒も経たぬうちに逃げてしまう。まあ、そんな素っ気ない態度から急に甘えてくるというギャップが猫の魅力の一つでもあるんだが。

 逃げられてしまったのは仕方ないので、猫についてはそれ以上構わずに代わりに倉橋さんと少し話をした。お互いの簡単な自己紹介から始まり、猫について語り合った。

 語り合ったと言ってもせいぜい三分ぐらい。僕にしては良く話せた方だ。

 これが僕と彼女の出逢いだった。


 それから僕たちは頻繁に会うことになった。僕が倉橋さんに会うために、猫のお世話を口実にしてよく公園に行ったからだ。当然ながら彼女にはそんな下心は無かっただろう。単純に猫の世話をしてやりたいだけだ。

 二人とも公園に行く時間はまちまちで毎日会う事はなかったが、学校内の誰よりも多くの時間を彼女と過ごしたと思う。その中で触れた彼女の優しさはいつでも僕を幸せな気持ちにしてくれた。

 女子との付き合いがなかった僕だったが、彼女を想う時のこの気持ちが好きって事なんだと自覚していった。


 中学生活最初の夏休み前の暑い日、いつものように公園で猫の世話をしていた。すると僕より十分ほど遅れて倉橋さんが公園に入ってきた。

「クラス日誌書かされて遅くなった〜。猫ちゃーん遅れてごめんね〜」

 僕の手を離れて猫が彼女の元へと走っていった。僕よりも彼女の方がいいのは、まあ当然の事だろう。

 僕は仕方なく楽しそうな一人と一匹の様子を眺めていた。絵になる構図だ。

「あっ!」

 急に何か凄い事に気づいてしまったかのように彼女が声をあげた。

「どうしたの?」

「そういえばこの子の名前、まだ決めてなかった。ずっと『猫ちゃん』で呼んでたじゃん」

 確かにそれには僕も驚いた。猫の名前を決めていなかったのを今更気づいたという事にだ。僕はお世話を始めてすぐに気づいたけど、彼女がずっと『猫ちゃん』で呼ぶから名前を付ける気は無いんだと思っていた。

 ちなみに僕は『猫くん』って呼んでた。だって…アレが付いてるし。

「飼い猫じゃないからって名前は付けてあげないとかわいそうだよね、名前は大事。笠木くん、どうしよっか?」

「名前ねぇ…」

 いきなり呼び方を変えるのには少し抵抗があったけど、彼女が名前を付けたいんなら反対はしない。この時既に彼女は僕の中で最重要に尊重される存在になっていた。

「じゃあ、ミケとか」

「もうっ、ちゃんと考えてよ。そもそも三毛猫じゃないし、って、あれ?それじゃあ何猫なんだろう?」

「黒猫って言うしかないよね。まあ三毛猫じゃないのは確実だ」

「じゃあ何でミケとか言ったのよ」

「なんとなく」

「もうっ」

 こういうやり取りは楽しい。変化のない日々の中で一番の幸せを感じられる時間だ。

「そうだな…えっと、倉橋さんの名前がしおりだから、スピンなんてどう?」

「スピン?何それ」

「文庫本とかに付いてる紐みたいなやつだよ。栞の代わりになるやつ」

「ああ、あれってそんな名前だったんだ。スピンね。うん、結構いい感じじゃない」

 スムーズに名前を思い付いたのは、実はたまにこの猫を見ながら考えていたからだ。

 スピンという名前を思い付いたのは彼女の影響である。彼女が読書好きだと知ってから僕も本を読むようになった。それでスピンの事を知ったのだ。

 彼女がいい感じと言ってくれたので内心では叫びたいくらい嬉しかったが、こっそり手だけでガッツポーズするに抑えた。

「じゃあそれに決定!猫ちゃん、あなたは今日からスピンね。いい?スピンよ、スピン」

 突然呼び方を変えられたスピンは自分の事を言われてるなんて少しもわかってない様子で爪を舐めていた。


 少し肌寒くなってきた秋の日には他の出会いがあった。

 いつものように公園に行くと、彼女の隣に見知らぬ女の子がいた。僕らの中学の制服を着ているから同級生なのだろうけど、他クラスの女子は大体知らない。

 声のかけ方がわからず、最初の時のように入り口で様子を見ていると、知らない方の女の子が振り向いた。

 その子がちょっと不審そうな顔になり、倉橋さんに多分だけど「あの子だれ?」みたいな事を言うと、倉橋さんが振り向いて僕を呼んでくれた。

 なんとか近寄って行くきっかけができて、ホッとしながら二人の所まで行くと倉橋さんから女の子の紹介をされた。

「今日は君の方が遅かったね。まあそれはどうでもいいや。えっと、この子は友達の岡本おかもと日奈子ひなこちゃん。スピンの事話したら会ってみたいって言うから連れてきたの」

 岡本さんがどうも、と頭を下げる。僕は、スピンの事は二人だけの秘密のようなものだと思ってたから、倉橋さんが他人に話していた事は少しショックだった。

 そんな僕にはお構いなく、倉橋さんは僕の紹介を始めた。

「この人は同じクラスの笠木かさぎ大志たいしくん。いつもここで一緒にスピンの世話をしているの」

 彼女がそれを言い終わると、僕も頭を下げた。

 正直同じクラスっていう紹介のされかたもショックだった。ただのクラスメイトじゃなくてもっと仲の良い感じの紹介の仕方がないのか。これじゃこの男の子の事はなんとも思ってないですよって言われてる気がするじゃないか。僕の考え過ぎか?

「ということで今日は三人になるけどいいよね?スピンも嬉しいでしょ」

 倉橋さんはそう言ってスピンの頭を優しく撫でた。

 何がいいもんか、こんな状況になったら僕はどうしようもなくなるに違いない。

 その予想通り僕はほとんど話したり出来なかった。前にも言った通り、僕は女子と話すのが得意ではない。倉橋さんは例外中の例外なんだ。

 目の前で女の子たちが楽しそうに「この子人懐っこいねー」「そうでしょー、ちょっと目を離すといろんな人の所に行って甘えたりするの」なんて話しているところに、「僕にはあんまり懐いてくれてないんだよー。やっぱり女の子がいいんじゃないかな」という感じで陽気に話しかける事なんて出来るわけない。

 それなのに岡本さんは、

「笠木くんってあんまり話さないんだね」

とか言ってくる。誰のせいだと思ってるんだ。

 それでも、陰キャ(学校で影が薄く、あまりいけてない感じの子)だと思われるのは嫌なので、せめて質問をする事にした。

「あ、あのさー、その、二人はいわゆる親友って感じの間柄なの?」

「え?うーん、わざわざ言うのも恥ずかしいけど、まあ、そんな感じ。ね?」

「うん」

 くそっ、僕としたことが質問を間違えた。これでは余計に僕の入り込む余地が無くなってしまうじゃないか。

 その後、また僕は黙り込んでしまい、何もすることがなくなってしまった。とうとう公園の木の数なんて数え出してしまった自分に気づき、この日はもう帰る事にした。

 そろそろ帰るよ、と伝えると倉橋さんだけが顔を上げて、

「また明日ね」

 と言ってくれた。それだけで少し嬉しくなった僕は、自分がどれだけ彼女に好意を寄せているのかが明瞭にわかってきた気がした。


 その次の日に学校に着いて席に座ると、前の席の田中たなか祐介ゆうすけが声をかけてきた。

「なあ、大志ってさ、倉橋さんと付き合ってんの?」

「はぁ?」

 急にそんな事を言われたので持っていた筆箱を落としてしまった。

「おっ、その動揺の仕方はまさか…」

「何言ってんだよ、そんなわけないだろ。何で急にそんな事を言い出すんだよ」

「いやこの前さ、お前と倉橋さんが公園に二人でいるのを見たっていう奴がいたんだよ。大志みたいな奴が倉橋さんと公園で二人きりなんて事、絶対ないって言っておいたけど、そいつが一応確認しておいてくれって」

 僕みたいな奴が、って失礼だな。でも倉橋さんは結構男子からの人気は高いのでそう思われても仕方がないかもしれない。こうやって気になる輩が出てくるのも至極当然の事のようにも思える。

 一瞬、否定しようかと迷ったが、別にこいつになら言ってもいいかと思い直した。祐介とはかなり仲が良い。

「いや、一応それは本当だけど、別に付き合ってるとかじゃないから」

「えぇっ!嘘だろ、お前があの倉橋さんと!?」

 どういう事だ、と肩を揺さぶられる。声を小さくしろと言いながら説明を始めた。

「だから別にそういうんじゃないって言ってるだろ。倉橋さんが拾ってきた猫を偶然二人で世話する事になっただけだよ」

「でも放課後に公園で二人仲良く猫のお世話って充分凄いだろ。お前、あの人の人気知ってるのか?顔もいいし性格もいいで大人気なんだぜ。ほんと、超羨ましいぜ」

 だんだん公園にいるのを見たってのは別の人じゃなく祐介自身なのではないかと思えてきた。

 祐介とは小学校も同じだった。仲の良さは普通程度だったが、最近席が前後ろになった事で特に仲が良くなった。

 彼は気の利くタイプで、周りの人の事をよく見ていて異変があればすぐに気配りしてくれ、男女問わず人気のある生徒だ。僕と倉橋さんの事もその性格のせいで気づかれてしまったのだろうか。

「あんまり人には言うなよ。多分彼女にも迷惑になると思うし」

「大丈夫だって、聞いてきた奴にもお前の見間違えだって言っとくから。お二人の邪魔はしませんよ」

「そんなんじゃないって…」

 まあこんな感じに気を利かせてくれるし、話せばわかるいい奴だ。

 そう思っていると祐介が急に顔を寄せてきて、周りに聴かれないように注意しながら小声で話し出した。

「それでさ一つ相談なんだけど、俺もその猫の世話に行っちゃいけないかな?」

「えっ?」

 祐介も来たいだって?ただでさえ昨日は岡本さんに邪魔されたのに今度はお前かよ。たった今、気の利く奴だと思ったのに。

 しかも、明るくてすぐに人と仲良くなれる祐介なら彼女ともいい感じの関係になってしまってもおかしくない。そしてこんなお願いをしてくるって事は、やっぱり祐介も倉橋さんを狙ってるって事じゃないか。彼が本気を出したら、僕なんかは到底太刀打ち出来なくなるだろう。

 つまり僕にはなんのメリットもないという事になる。どうにか断らなきゃ。

「どうだろ、彼女結構人見知りなとこあるし急に行ったら困るかもしれない」

「じゃあ今日お前から彼女に話しといてくれよ。そして明日行けば大丈夫だろ、な、な?」

 肩を組んできて人懐っこい笑顔を僕に向ける。駄目だ、そんな事されたら僕の良心が断る事を許してくれなくなっちゃうじゃないか。

祐介は「頼むよ〜大志ぃ〜」と言いながら僕のほっぺをぐりぐりしてくる。マズい、僕は押しに弱い。

「…わかったよ、今日会ったら聞いてみる」

「よっしゃぁ、流石我が友よ」

 結局僕が折れてしまった。こういうところが自分の駄目なところでもあり、一方で、人と付き合うには必要なものかもしれないと思う。

なんとか彼女が嫌だと言ってくれはしないかと願っていた。


「田中くん?全然大丈夫だよ!」

 僕の願いも虚しく、案の定彼女は断らなかった。僕には寧ろ嬉しそうにも見えるのは気のせいだろうか。

「そ、そう。あ、でもスピンは大丈夫かな?女の子には良く懐くけど男の子だったらあんまり嬉しくなかったりするかも」

「え?よく小学生の男の子たちと遊んでるの見るけど。私たちが来るまではその子たちが遊び相手をしてくれてるんだと思ってた」

「あ、そ、そうか、じゃあ大丈夫か」

 なんだよ、あまり懐かれてないのは僕だけじゃないか。家で飼ってる猫二匹とは兄弟と言ってもいいくらいの繋がりを感じるのに。こいつは僕の何が気に入らないんだ?

「じゃあ明日、田中くんが来るんだね。楽しみだね〜、スピン」

 スピンに腹を立ててる場合じゃない。これで祐介が来るのは決まってしまった。これはもう諦めるしかないのか。

 そうだ、僕が明日休んでしまえば話はうやむやになって終わるかもしれない。僕が来れなければ祐介も来る事は出来ないのだ。

 そう思った時だった、

「田中君って結構女子の中でも人気あるんだよ。ちょっと楽しみだな〜」

 その彼女の言葉に希望を打ち砕かれた。これはもう駄目だ、成り行きに任せるしかない。彼女が興味を持った以上、僕が何をしてもただ邪魔になって嫌われるだけだ。

 居心地が悪くなってきたので、一度深いため息をついて別れを告げた。

 彼女は僕の元気が無くなった理由を全くわかってないようだった。


 家に帰って自分の部屋に入ってもまだ祐介の事が頭から離れなかった。

 普通に考えて僕では勝ち目はない。今まで培った彼女からの信頼などのハンデが唯一の救いだった。

 でも、もし二人がいい関係になったらどうしよう…。僕は祐介に対して今まで通りに振る舞えるだろうか。最悪の場合は…。

 その時、僕はある事に気づいた。いや、ある感覚を初めて自覚したと言った方が正しいかもしれない。

 それは、独占欲だ。倉橋さんに対する独占欲。岡本さんや祐介が僕たち二人の間に入ってきた事で、彼女が取られそうな気がして焦っている。そんな自分に気がついた。

 このまま本当に彼女と僕の今の関係が壊れてしまって、僕が彼女を失った時、僕はどうするんだろう。現実をしっかり受け止められるだろうか。何か嫌な事をしでかしたりするかもしれない。そう考えると、怖い。

 頼む、どうか今のままでいてくれ、倉橋さん。

 リビングからお母さんが食事ができたと呼ぶ声が聴こえたが、しばらくの間天井をじっと見つめたまま動けなかった。部屋の中では時計の針の音だけが一人ではしゃいでいた。


 翌朝、ベッドの中で相当悩んだが結局学校に行く事にした。どうも僕の良心は祐介に甘いようだ。

 重い足取りで学校に着き、祐介に倉橋さんの許可が出た事を伝えると、それから放課後までずっと上機嫌だった。僕には少し鬱陶しかった。

 放課後になると彼は急に元気が無くなってきた。多分緊張してきたんだろう。隣でずっと髪を整えている。そんな事しなくても充分イケメンなのに余計印象が良くなるじゃないか。だからやめてくれとは言い出せなかった。彼と僕の良心は仲が良い。

 公園に行くまでの間、僕はなるべく遅く歩いた。できるだけ二人が会っている時間を少なくしたい。我ながら小さい奴だと思うが、その抵抗はやめられなかった。邪魔すると嫌われるかもしれないという考えは遠くに出かけてしまったようだ。

 公園に着くといつものように彼女がスピンを撫でていた。近づいて行くと途中で彼女が振り向いた。

「あ、やっと来た。遅かったじゃん」

「ごめん、二人で歩くと一人で歩く時より少し遅くなっちゃうんだよ。大体みんなそうでしょ」

「ふーん。まあそんなことはいいから紹介してよ」

 あっ、そうか僕がお互いを紹介するところから始まるんだ。岡本さんと初めて会った時、まず倉橋さんがお互いを紹介してくれたのを思い出した。

 僕らのやり取りを棒立ちで見ていた祐介の方を見る。顔からは緊張の様子が伺える。普段女の子とは話せるけど、好きな子の前では急にいつも通りでいられなくなるタイプなのか。

「えっと、こいつが昨日話した田中祐介。実はかなりの猫好きなんだって」

「初めまして、田中です。えっ、き、今日はよろしくお願いします!」

 お見合いかよ。本当は犬派なのに僕に嘘をつかせてまで彼女との距離を縮めようとするさっきまでの威勢は、もはや面影もなくカチコチになっている。意外と僕にも勝機はあるかもしれない。

「で、こちらが倉橋詩織さん。いつも一緒にこの猫のお世話をしてる」

「えっと話すのは初めまして、倉橋です。こちらこそよろしくお願いします」

 さりげなく祐介の言葉を訂正してきた。確かに同じ学校なんだから会うのは当然初めてではない。彼女は賢くもある。

「一緒に猫のお世話をしたいんだよね?じゃあ今からちょうど餌をあげるから一緒にどう?」

「あっ、それじゃあ遠慮なく」

 二人だけで餌やりを始めそうだったから急いで僕も加わる。今日は負けてられない。

「この子名前はなんていうの?」

「スピンっていうんだよ、笠木くんが付けた名前なの」

「スピン?なに、フィギュアスケートでもできるの?」

「違うよ、本に付いてる栞として使う紐の事だよ。私の名前、詩織だから」

 倉橋さんが笑いながら名前の由来を教えた。まずい、祐介が持ち前の社交性を発揮しつつある。もう笑わせるなんて。

 僕は負けじと二人の間に割って入る。

「ほら、このパンをちぎって食べさせてあげてよ。なるべく食べやすい一口サイズにして」

「お、おう」

 倉橋さんからパンを取って祐介に渡す。自然に二人の邪魔をしにいく。

 彼が彼女に話しかけると僕も会話に加わって、スピンの事はほとんど僕が話した。それでも祐介は楽しそうだったし、倉橋さんもいつもと違うこの時間が嬉しそうだった。


 約一時間ほど公園にいて、僕と祐介だけが先に帰る事にした。祐介はまだ残りたい様子だったが強引に連れて行った。

 二人で歩いてると彼が突然、

「お前やっぱ倉橋さんの事好きだろ」

と言ってきた。

「な、急に何言ってんだよ!」

「まあそんなにごまかすなって。今日だって俺の邪魔ばっかしてきただろ」

「いや、そんな…」

 図星だった。なるべく自然に振る舞ったつもりだったが彼にはとっくにバレていたのだ。

「あはは、そんなに動揺すんなって。好きな子を取られたくないのは誰だって同じなんだから仕方ねえ。これから俺とお前は恋のライバルだ」

 そう言って肩を組んできた。恋のライバルなんて言葉、僕の人生を語る上で出てくるはずの無かった言葉だ。

 祐介は隣で嬉しそうに笑っている。なんでこんなにも余裕があるんだ。心に。

「…祐介がモテる理由が少しわかった気がするよ」

「おっ、何だそれ」

「教えない」

「え〜なんだよー、教えろよー」

 彼は僕の肩を揺さぶりながら、僕は、教えない、と言いながら、二人で笑いながら歩いた。

「あっ、俺こっちから帰るわ。じゃあまた明日な」

「うん、バイバイ」

 僕の家の近くの交差点で彼と別れた。

 やっぱり祐介はいい奴だ。顔も良くて人気者、それなのに僕みたいな奴とも仲良くしてくれる。しまいには恋敵だなんて。笑える。

 僕と彼とでは勝負になるはずがないだろう。現に今日だって彼はたった一日で彼女との距離を大幅に縮めた。対して僕は邪魔する事だけしか出来なかった。

 そう思った時、祐介はいい奴、という気持ちから一気に、祐介は恐ろしい奴、という気持ちに変わった。

 そうだ倉橋さんを取られてしまったら、彼は僕にとっていい奴ではなくなる。そして彼はそれが出来る力を持っている。恐ろしい奴だ。

 友達としては最高だが恋敵としては最悪だ。どうしよう、彼女が取られるかもしれない。怖い。ただひたすら怖い。自分の独占欲は肥大化している事に気づく。

 友達の素晴らしさを感じていたはずなのに、いつの間にかそんな考えに至ってしまった僕は、結果として気持ちは沈んでしまったまま家へと帰ることになってしまった。


 次の日、流石に二日続けて連れて行ってくれとは言われなかったので一人で公園に行った。僕が公園に着いた時はまだ倉橋さんは来てなかった。

 ベンチの方に向かうと、途中で遊具の中からスピンが出てきた。僕がベンチに座るとスピンもベンチに乗ってきて手を舐めてくる。

 珍しく積極的に接してくるなと思ったが、「餌はまだだよ」と言うとなんとなく理解したらしく、ベンチの上で丸まってしまった。

 餌はいつも倉橋さんが持ってきていた。朝、毎日種類を変えながらこっそり買っているらしい。その種類は猫の餌や缶詰、人間の食べるパンなどと様々だ。一度だけ僕が買おうかと提案してみたが自分で選びたいと拒否された。たまに朝忙しくなる時だけは僕が頼まれる。そうやって頼られるのは僕だけにしたいものだ。

 そっぽを向かれても構わずスピンを撫で続けていると、一度ベンチを降りて草むらの方に行き、出てくると僕の真横に座り直した。先程よりもかなり近い。僕の家の猫たちのように膝の上に乗ってはこないが、かなり距離が縮まったのを感じる。ようやく懐いてきたか。

 少し嬉しくなっていつも以上に構ってやっていると、急に僕の手を払いのけるようにベンチを飛び降りた。嬉しそうに早足で向かった先を見ると、そこには倉橋さんの姿があった。

「ごめん、委員会の仕事あるの忘れてて。あ〜スピンもごめんねー。お腹すいたでしょ〜」

 なんだ、結局僕は彼女が来るまでの暇つぶし程度だったのか。いつになったらちゃんと懐いてくれるんだろう。懐いてもらうって考えてる時点で駄目なのか。友達みたいに平等な関係を築く感じで接していかなくてはいけないのかなぁ…。

「どうしたの?考え事?」

 彼女が目の前に顔を近づけてくる。いい匂いがした。僕は反射的に顔をのけぞらせてしまう。

「なによ」

「いや、別に…。あっ、早く餌あげようよ。君が来るのずっと待ってたんだ」

「あっ、そうだね。ごめんね〜、ほらスピン、餌だよー」

 そう言いながら鞄から猫の餌を取り出し始めた。

 …やっぱり彼女は他の人に取られたくない。こういう少しのやり取りの中でも、彼女の事が好きなんだと再認識させられる。彼女の姿を見ながらそんな事を思った。

 彼女がスピンに餌をやっている間、横でその顔を見ていた。改めて見るとやはり学年屈指の美貌の持ち主なだけはあって目鼻立ちがしっかり整っている。常に大きくぱっちりとした目には女性らしい綺麗なまつ毛が乗っている。低くも高過ぎもしない鼻の下では、細くて紅い潤った唇が楽しそうに笑ってた。

 彼女がこちらを向きそうになったので急いで目をそらす。前を向きなおしたのを横目で確認してまた見つめる。

 ところで、今朝から一つ聞いてみたい事があった。少し怖いけど思い切って聞いてみようか。

「昨日はさ、楽しかった?」

 彼女は唐突な質問に少し不思議そうな表情を見せた。

「昨日?まあ、普通に楽しかったよ。他の人が来ると特別感あるし」

 やっぱり聞くんじゃなかった。僕はいつも質問を間違える。彼女が楽しくないなんて言うわけないじゃないか。事実、楽しかったんだろうし、そうでなくとも楽しかったと思い込める人だ。

 少し落ち込んだ様子を隠さずに出してみると、予想外の嬉しい慰めの言葉をかけられる。

「でもね、ああいうのはたまにだからいいんだよ。そうじゃないと特別感なくなるし。普段は笠木くんと二人でいいよ」

「倉橋さん…」

 ああ、どれだけ君は僕を幸せにしてくれるんだ。最早、女神。女神と言ってもいいくらいだ。

 これはもう、結果はどうなろうといつかは告白するしかない。普通に考えていつかお別れする日は来るのだろうけど、この想いを伝えずに君と別れる事なんて出来るわけがない。そうだ、いつか、きっと––––。

 あれ?いつかとは思ったばかりだが、今って結構いい感じなんじゃないか?チャンスなのではないか?

 彼女の目がうっとりしてるように見えるのは気のせいだろうか。この公園に二人しか居ないのは偶然だろうか。実は神様が作ってくれた、絶好の機会というやつではないだろうか。

 急にそんな事を意識しだして、心臓が大きく脈打ちだした。呼吸が荒くなる。頭が真っ白になってきた。本当に今ここで告白するのか?していいのか?

「今日結構静かだね。実は遅れたの怒ってる?」

「えっ?」

 急な予想外の問いかけにまごつく。

「いや、そんな事ないよ、全然。そ、そんなに静かだった?なんかいろいろ考え事してたかも」

 最後に、あはは、とわざとらしい笑いを付け足した。彼女が不思議そうな目で見てくる。

「なんかいつもと違うよ。なんとなくだけど、何か言いたい事があるとかじゃない?」

 言いたい事、確かにそれはある。僕は君の事がー。

「何かあるなら言ってよ」

 これはもう完璧なチャンスだ。彼女の注意は僕に向けられているわけだし、向こうが勝手に言いたい事があるとわかってくれている。

 倉橋さんがスピンを抱きかかえて立ち上がった。顔からは僕が何か不満めいた事を言うのではないか、そんな風に思っているのが伺える。その状況で急に告白されて真っ赤になるであろう彼女の顔を見てみたい。そして、祐介の先を越したい。

「どうぞ」

「あっ、あの…」

 きた、もう言うしかない。言え言え言え言え言え言え言え言え。ここで、ここで言わなきゃ男じゃない。そうだ、男じゃない!

「えーと、す…」

「す?」

 男じゃ、

「す、スピンと結構仲良くなったからさ、これからは君が忙しい時以外にも僕が餌を買って来たいなー、なんて」

 …なかった。

「なんだ、そんな事かぁ。もっと深刻な事言われるのかと思ってドキドキしちゃった。いいよ、明日選んできてよ。やっと仲良くなれてよかったね」

「うん、そうだね」

「あっ、ちょっとこの後用事あって私もう帰らなくちゃいけないの。それじゃ悪いけど、また明日ね」

 そう言って夢が覚めるように帰って行った。

 よかったのか…これで。僕は僕らしく言えないままでいるのか。つくづく自分が嫌になってくる。なんか本当に男じゃないような気がしてきた。こんなこと言うと今の時代は男女差別だとか言って怒られそうだけど。

 でもまあ、彼女を好きならちゃんとした男だろう。それならよかった。まだこれからチャンスはあるはず。焦らないでいい。

 スピンが僕を見上げている。言えなかった僕を馬鹿にしているのか、慰めてくれているのかはわからない。撫でてやろうとするとどこかへ行ってしまった。やっぱり薄情者だ。

 空を見上げるとまだ明るいにも関わらず、薄ぼんやりとした月が見えた。いつか必ず、この気持ちを彼女に伝える。必ず。

 まだ光り輝く事無く白っぽい、そしてクレーターが微妙に目に見えるような月に、そう誓った。

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