遊星飛行 Flight on the Planet

イーグル・プラス

プロローグ

 重低音が全身を心地よく揺さぶる。

 僕の躰を突き抜ける周波数。


 操縦桿を握る手指がチリチリと痺れる。

 感電というほど強くなく、たぶん、接続されたコードと同じくらい。正常値。

 キャノピィを震わせる風は、エンジンの音に対抗するつもりらしい、そのくらい強く吹いている。


 足元はヒータで温かいけど、マフラーやゴーグル、帽子の隙間から侵入してくる冷気は針みたいに痛かった。視界は水に溶かしたミルクのように白い。霧の海だ。

 前を向くと、カウルの向こう、回転するプロペラ、その中心のスピナー。


 エルロンを切って背面に入れる。

 夏だっていうのに、万年雪を戴いた剣山連峰。ところどころに見える緑は、放牧に使われる牧草地だろうか。

 薄い雲のフィルタ越しだと、それはとても遠い光景。


 機速が不足する前に、機体を正立に戻す。

 天候はお世辞にも上々とは言えないけれど、雨が降ってない分ましと考えるべきだろう。


「シラユキぃ」


 前の座席から声が響く。狭い二人乗りでも、プロペラの音が大きいから、それなりに声を張らないといけない。


「何」


 甲高い声。僕と同じ少女期特有の、つまり不安定な、成長途上の声だ。もっとも、彼女の年齢は僕よりずっと下なのだけど。恨めしい声が僕の耳に響く。


「ロールするならそう言ってよ! 危うくお茶零すところだったじゃない!」


 シートの向こう、複葉の翼の下。振り上げられた拳と頭が見えた。


「ごめん、ごめん」


 愛想の代わりに、バック・ミラー越しに軽く手を振る。


 エンジンの調子は、結構飛んでいるのにまったく変わらない。実に快調。腕のいい整備士がいる証拠だ。この職場に来て巡り会った幸運のひとつに数えるべきだろう。この世で不幸なことのひとつは、ろくでもないメカニックに大事な機体をいじられること。たぶん、空を飛べなくなる次に最悪で最低なことだ。


「っと、そろそろ地形が複雑になってくるから、注意して飛んで。速度も高度も、もっと落として」

「針路は?」

「ひとまずこのまま。で、しばらく行ったら赤い屋根の山小屋が見えてくる。そうしたら右に旋回。さもないと霧が晴れたと思った瞬間に、山に激突するわよ。地表が視認出来る高度を維持して」

「了解」

「自信がないなら、代わってあげてもいいけど、?」


 笑いを含んだ声。悪意がないのは分かっているから、腹は立たない。でも、もちろん、僕は即答。


「やだ」


 ぐ、と力を籠めて操縦桿を傾ける。

 視界がぐるりと回って、

 天地が逆さま。

 スロットルに手をかけた。


「て、だから、普通に降りなさい――」


 悲鳴を無視して、少しだけエンジンを吹き上げる。

 一気に高度を落としながら、味わう、重力の束縛からの解放。

 四肢の力を抜いて、そのまま身を任せたくなる快楽。


「ちょっと、高度……!」


 わかってるよ。


 高度計ははじめから見ていない。

 雪化粧をまだ被っている地面が近づいてくる。

 僕らを押し潰そうとしているんだ。

 きっと、僕が空を飛ぶというのが、この星には都合が悪いんだろう。

 それとも、お帰りって抱きしめてくれるのか?


 僕は笑う。

 どうでもいいことだ。

 操縦桿を倒す。


 ローリング。


 大地が消えて、


 フラップをめいっぱい。


 エレベータを引く。


 機首が上を向いた。


 薄く濁った空が現れる。


 スロットルを一気に押し上げた。


 轟音とともに、おんぼろエンジンが力いっぱい機体を引っ張り上げてくれた。


 現在、軍で使われているものとは、材質でも性能でも劣っているのに、僕を空に飛ばそうと一所懸命に回ってくれる。


「いい子だ」

 躰をシートに押し付けてくる強引さも、ぜんぜん嫌じゃない。

 うっとりと目を細めて、僕は目の前に広がる景色を見つめた。



 心地よい、

 自由で、

 何もない、

 空。

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