第2章 訪問者

第2章 訪問者(1)

 風の強い夜だった。

 歩道を歩けば、前を行く派手目の女がこれ以上乱れぬよう片手で髪を押さえながら歩いている。

 大鷲紀人は足を止めた。自分の頭を撫でる。


「丸刈りは最高だ」


 頭から手を離し、上着の内ポケットからスマホを取り出した。時間を確認する。

 約束の時間はとっくに過ぎていた。このまま先に進んでバイパスに出てしまうと合流が難しいかもしれない。

 大鷲の後方で何かを知らせるような、軽めのクラクションが鳴った。方向指示器を点滅させた車が近づいて来る。

 国産車、黒の高級セダンで、大鷲に横付けすると後部座席の窓が下がる。

 薄暗い車内に眼鏡を掛けた男が座っている。

 白髪頭しらがあたま、口元に微笑を漂わせ、眼鏡のブリッジを右手中指で押し上げた。


「お乗りください」

「遅いね、葉室さん」

「申し訳ありません。色々と手間取りまして――」


 葉室と呼ばれた男の声が別のクラクションに掻き消された。後続のバンが急加速で追い越していく。その車を葉室が目で追う。

 大鷲はとくに気にすることなくドアハンドルに手をかけ、乗り込んだ。

 革張りのシートに広くゆとりのある後部座席、運転席にはインストルメントパネルに組み込まれた各メーターの青い照明が灯っている。

 大鷲は運転席に座る若い男に話しかけた。


「柏木くん、今日も寝癖がビンビンだね」

「え、本当ですか!」


 柏木はルームミラーに顔を寄せ、左右に振って自分の髪型を確認した。車内が暗いせいでよく見えないのだろうか、ルームミラーを何度も動かし、自分の茶色い髪を触る。


「上司がこき使うから鏡を見る暇もないんだね、可哀想に」


 大鷲はちらり葉室を見た。葉室は憮然とした面持ちで言った。


「そうなのか柏木? 寝癖を直せないほどに忙しいのは私のせいなのか? もし、そうならば私は上司として、お前のこれからを考えなければならないが」

「いやだな葉室さん、そんなことないですよ。これは話のきっかけを作るための、大鷲さん流のビジネストークですって、ね? 大鷲さん?」


 柏木はぎこちなく笑っている。葉室がやれやれと首を振った。


「出せ」

「は、はい」


 車が動き出した。

 大鷲の自宅マンション前にある通りを抜け、バイパスに入った。交通量は相変わらずの多さでそれほど速度は出せない。交差点に差し掛かり、信号が黄色に変わった。

 車がゆっくりと止まる。

 大鷲は葉室に言った。


「晩酌の途中だったんですがね、別に明日でもよかったんじゃないですか?」

「申し訳ない。今日、ホーエン・カンパニーの幹部が来日しまして。突然のことで私たちも慌てているのです」

「幹部が? じゃあ、また大きな取引があるかもしれませんね」

「ええ。大鷲さん、例のデータは持ち出せましたか?」

「もちろんです。伊達に国戦部のメンバーをやってませんから」


 大鷲はスマホを取り出し、昼間、会社にいたときにまとめておいたホーエン製薬の資料を表示した。

 葉室に差し出す。


「どうぞ、関連がありそうなものを見繕っておきました」


 葉室が受け取る。すぐに裏返し、手の甲を上に向けた。

 大鷲を見つめ言った。


「もう一度だけ念のために確認しますが、本当によろしいのですか?」

「葉室さん、ここまで来たんだ。今更、同意を取って責任逃れするのはやめてくれないか」

「違います。これは私の責任逃れではなく、あなたの立場を考えて聞いているのです」

「だったらご心配なく、駄目になったら駄目になったで、また一からやり直せばいいだけですから。こう見えて俺、優秀なんで、引く手あまた、再就職先には困ってないんですよ」

「……わかりました。では」


 葉室はスマホを表に返し、画面の灯りを点けた。人差し指でページの下部まで移動、スワイプする。次のページでも同じように移動、スワイプ、それを何度か繰り返し、時々、親指と人差し指を使い拡大する。

 数十ページの電子データ、中身はほとんど数字の羅列だったが、目的の情報までたどり着くのに一分もかからない。


「例の物を隠すためか、数日間にかけてかなりの物資が流れていますね。それに取引のあった日付と更科大学病院で行われた移植手術の日付も近い」


 葉室は脇に置いた鞄からケーブルを取り出し、スマホに接続した。操作する。


「コピーします」


 コピーが完了した。


「ご協力ありがとうございました」

「本当はこんな会社を売るような真似はしたくないんですが」


 大鷲は葉室からスマホを受け取ると上着の内ポケットに入れた。


「お気持ちはわかります。ですが」

「ええ、わかっています。祖先の恩を汚す輩は見過ごせない」


 大鷲は嫌悪感を覚える。


「葉室さん、次は何をすればいい?」

「いえ、これ以上はもう。ホーエンの幹部も来ていることですし、下手に動いてこちらの動きを悟られたくないので」

「そうですか、わかりました。じゃあ、これからしばらくの間は大人しくしていようと思います」

「はい。そうしてください。私のほうからも何人か身辺警護をつけます」

「警護? いりませんよ、そんなもの」

「いいえ、そういうわけには」

「大丈夫です。俺のそばには上泉がいますから。あいつなら俺たち家族全員余裕で護れます」

「上泉? それは、あのエイジス家の英雄のことですか?」

「あいつのことを知ってるんですか? 日本の警察が優秀なのか、葉室さんが優秀なのか」

「あなたとエイジス家の関係は警察の資料を読んで知っています。ですが、あの英雄の逸話は本当なのですか? 私にはどうにも、現実味のない御伽話おとぎばなしにしか思えないのですが」

「警察官が警察の資料を信じないんですか?」

「信じています。ただ一応、念のために確認しているだけです」


 大鷲は少し考え、答えた。


「その資料を直接見たわけじゃないから、どの逸話のことを言っているのかは分かりませんが、確かに、現実のものとして、イージスの盾と英雄が率いる騎士団は存在します。あまりにも非現実的で、幻想的ではありますが」

「……そうですか、資料に補足しておきましょう」

「間もなく通過します」


 柏木が車の速度を落とした。


「右の窓です」


 葉室が右の窓に顔を近づける。


「あなたの御所望通り案内しましたが、何の変哲もないビルですよ」

「どれどれ、悪党のアジトを拝見」


 葉室が顔を引いて場所を譲った。大鷲が身を乗り出し、顔を窓に近づける。対向車線の向こう側に立ち並ぶビルを眺めた。


「どれです?」

「赤場ビルです。あそこに照明の光が漏れている階が一つだけあるでしょう。あのビルです。あそこにホーエン製薬が入っています」


 一フロアだけ光っているビルがあった。

 窓は四つ、人影は見えない。それにしても……。

 ホーエン製薬の入るビルは夜ということもあり、外観がはっきりとはわからなかったものの、建てられてから相当な年数が経過しているように見えた。


「ぼろいですね」

「カムフラージュ、ペーパーカンパニーですから」


 ビルを通り過ぎる。後方に過ぎ去った。


「戻ります」


 柏木がハンドルを切った。来た道を引き返し、バイパス沿いのコンビニで停車した。大鷲が降りる。

 開け放したドア、後部座席の奥から葉室が身を乗り出した。


「本当にここでよろしいのですか?」

「梅酒でも買おうかと思いまして」

「梅酒?」

「妹の好物なんですよ」


 葉室の鞄からスマホの震える音が聞こえた。取り出し確認する。画面を見た葉室の横顔が険しくなった。


「どうしました?」

「部下をホーエンの幹部に張り付かせていたのですがかれたようです。すみません。私たちはもう行きます。ドアを」


 大鷲がドアを閉めると車が動き出した。方向指示器が点滅し、駐車場の出口で止まった。

 大鷲はその後ろ姿を眺めながらスマホを取り出した。電話をかけようとしてやめた。今いいところかもしれない。

 車が駐車場を出てバイパスに合流した。遠ざかる。

 大鷲はコンビニに入り、瓶詰めの梅酒を買って店を出た。

 ゆったりと歩き、家に帰る。

 道も半ば、雨が降り出した。

 見上げると空は厚い雲に覆われている。

 大鷲は走った。

 ずぶ濡れになりながらも道を照らす街灯を何本かくぐり抜け、あと少しでマンションの入り口というところまで来た。

 そこで足を止めた。

 街灯の真下、灯りから外れた暗闇に人影が見える。

 うまく電柱を利用して隠れているつもりだろうが、いつも会社の行き帰りなどで通る道、すぐに違和感を覚えた。

 何か嫌な予感がする、引き返そう。

 そう思い、大鷲が振り返ると、別の男がそばに立っていた。

 黒いスーツに黒革の手袋、体格のよい男で、いきなり掴みかかってきた。

 大鷲は梅酒の入ったビニール袋を振り回した。

 男が体を引き、ひょいとかわす。

 大鷲はその隙に走り出した、もと来た道を駆ける。

 背後に目をやった。

 男二人が追いかけてくるのが見える。

 バイパスに出て、先ほどのコンビニに向かった。

 激しい雨で見通しがきかなかったが、前方にある信号の色はわかった。

 赤から青に変わる。

 大鷲は躊躇ためらうことなく横断歩道の白線に足を踏み入れた。

 突然の衝撃、気づいたら地面に頬をつけていた。

 目の前で雨が飛沫しぶきとなって散っている。

 体が動かない。

 雨の音に紛れて車のエンジン音が聞こえ、ドアの開く音がした。


「回収しろ」


 男の声だった。

 何者かが近づいてくる。大鷲の体を仰向けにすると、ポケットをまさぐった。スマホを奪われた。


「城島さん……車が……」

「…………乗れ」


 ドアの閉まる音がして、ぱっと視界が明るくなった。

 エンジンが唸り、光が遠ざかる。

 光は車のヘッドライトで、そのシルエットは先ほど、葉室と合流したときにセダンを追い越していったバンと似ていた。

 バンは後進し、横に膨らんで脇道に入った。ハンドルを切り返し、赤いランプが姿を現す。遠く離れていった。

 信号の青が点滅して赤になる。

 雨が激しくなり、もう雨の音しか聞こえない。

 大鷲は上泉の言葉を思い出した。


『雨の音を聞くと胸に華咲くというか、ときめくんです。鈴と初めて出会った時も雨でしたから――』


 鬱陶うっとうしい、雨だ。

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