第4話 二〇〇三年新盆、そして一九一四年の荒船風穴


 

 お盆の平日二日だけ休みをとった。新盆のせいもあり、いつもは来ない親戚たちもやってきた。綾子はむかし祖母に教わったとおりに茄子で牛を胡瓜で馬を作ってみた。従妹の息子になんで馬と牛なのと聞かれたので、来るときには早く来られるように馬で、帰るときにはゆっくり戻るように牛だと答えた。従妹は、綾ちゃんはそういうおばあちゃんの知恵袋的なことほんとによく知ってるよねと笑った。たいていの物事にはいわれがある。それをその都度説明してくれたのが祖母だった。

 昔懐かしい蚊取り線香が焚かれ幾つもの回転灯篭が賑々しいほどによく廻る部屋で、昼間プールに行った子どもたちが寝静まり、その横の部屋で風呂の順番を待つ女たちが明日の予定を話している。クーラーがなくても過ごせるのだと団扇を扇ぎながら口をひらく。

「おばあちゃんの実家って養蚕農家だったんでしょ。まだその当時のままなの?」

 伯母が綾子を一瞥した。そして、純代、と綾子の母の名を呼んだ。ちょうど高校生の伯母の孫が風呂からあがったところで、伯母はそのままお先にと立ちあがる。美人で気の強い長女である伯母を、母が少し苦手にしているのを知らないではない。母の口許はこころなしかへの字に曲がっている。

 母はのそりと膝を起こし台所へと立った。従妹はその背を目で追ったがそのまま時刻表へ視線を落とした。綾子は団扇をおいて立ちあがる。

 母親は流し台のうえの明かりだけつけて、伯母と自分のグラスを洗っているようだった。綾子はきゅうに喉が渇き冷凍庫から氷をすくってグラスに投げ入れた。従妹が飲んで痩せたと自慢していた健康茶を乱暴に注ぐ。そのグラスを持ち上げたときだった。

「おばあちゃんはあの家を追い出されたのよ」

「え」

「裕福な庄屋さんの長女で士族のお家に行儀見習いにいって、銀行の三役になるようなおじいちゃんに見初められて結婚したけど、あの家は追い出されたんだって」

 追い出されたという言葉以外は旧知のことだった。綾子は続きを待つように、年をとって丸くなった母の背を見つめた。

「おじいちゃんのお葬式、綾子は覚えてないわよね。おばあちゃんのお父さんは養子だったからあれだったけど、長男の代になったらおばあちゃんは帰れなくなったのよ」

 綾子には、母親がなにを言わんとしているのかがわからなかった。いつもそうなのだ。こういう微妙な問題のときにかぎって、母親と意思の疎通がうまくはかれない。

「それ、どういうこと」

 綾子はじぶんが尖った声を出したことに気がついた。

「どういうって、だからおばあちゃんは弟に帰ってくるなって言われたってはなし、それで財産も何も分けて貰えなくなったの」

「だからそれ、どういうことなの? 弟と喧嘩でもしたの?」

「喧嘩したとは言ってないじゃない」

「だって財産もらえないとか」

「むかしは今と違って色々あるのよ。核家族じゃないでしょ、うちのお父さんのほうだってほら、綾子がおばあちゃんて呼んでたのはお父さんのほんとの母親じゃなくて」

「それは知ってる。お父さんの家のはなしじゃなくて、今はおばあちゃんのこと聞いてるの」

 母親はグラスを拭き終えて戸棚にしまった。それでも綾子を見なかった。手の中のグラスが冷たい。母親がひときわ大きくため息をついた。

「……おばあちゃんは出入りの養蚕教師の子どもだったそうよ。だからいちど、群馬に連れていかれたの。第一次世界大戦の年だったって。綾子は風穴のはなし聞いたでしょ。遊びにいったわけじゃなくて、あれは家を出されたんだそうよ。でも戦争でそっちのお家の景気が急激に悪くなってね、それでこっちに戻されたの。うちのおじいちゃんのお葬式のとき、その弟はもう亡くなってたから向こうの家からようやくひとが来てくれたんだけど、おばあちゃんそのときはおとなしく弔問を受けたのに、そのあと大変だったのよ」

 母親はテーブルの向こう側に腰かけた。綾子は立ったままでいた。お葬式のときの事など何もおぼえていない。それどころかまだ、母の言うことの全ては理解できていなかった。

「ほら、桑中之歓て言葉があるでしょう」

「……知らない」

 母親は眉をひそめた。そして太い息を吐いてから言った。

「人妻と密会することをそう言うの。政府公認の養蚕教師で羽織袴着て威儀を正したって、もとは夢使いなんだもの、みんながみんなそうなわけじゃないだろうけど、囲い者だったりしたわけよ。でも、おばあちゃんのお母さんはそれこそ徳川家の乳母にあがったようなひとだから気も強かったんでしょう。その長男より、長女のおばあちゃんのほうがずっと可愛いって言ってはばからなかったそうだもの。そりゃ、長男としたら面白くなかったんでしょ」

 だから追い出されたというわけか。綾子はようやくそれをのみこんだ。

「おばあちゃんもあのとおり気性のきついところがあったしね。でも、よそさまには愛想がよくて賢婦人だなんて褒められてね。お茶もお花も踊りもお料理も上手でお人形を作らせても歌を詠んでも賞をもらう。なんでも必ず一番の負けず嫌いで、お母さんはおばあちゃんに比べて何も出来なくて叱られてばっかりだったけど、綾子はおばあちゃんによく似てるものね」

 なにも、言えなかった。

 薄暗がりで見る母は、祖母に似ていた。ずっと、母は祖父のほうに似ていると思ってきた。祖母の色白のうりざね顔と違い、えらの張った輪郭だったから。

「お母さんにもそのお茶ちょうだい。太ると膝に悪いから飲んで痩せないと」

 いま戸棚におさめたばかりのグラスを取りだして綾子は冷蔵庫から取りだしたお茶を注いだ。氷いる、と聞くといらないと声が返る。

 グラスを両手でもった母が低い声で言った。

「……向こうのお義母さんからうちにも電話があったわよ」

「こっちにも何度かかかってきた」

「そう」

 母親はグラスのお茶を飲みほして、あんまり美味しくないわねと呟いて、先にお風呂入るわよと立ちあがった。

 ひとり残された綾子は立ったままグラスをあおった。たしかに酷い味がした。

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