1-4

 見渡す限りの一面が氷に閉ざされた世界。

 風はなく、耳鳴りするような静寂でシンとしていた。

 東西を分断する大河は凍てつく冷気に凍っている。その氷中には、氷付けされた人間の姿が見て取れた。

 全九圏ある地獄の最下圏反逆地獄。またの名を氷地獄コキュートス、その最下層ジュデッカで、いま正に対峙している三体の影があった。

 一つは、先ほど生放送番組から忽然とその姿を消した久遠時雨。

 傍らには、とぐろを巻く蒼い鱗の蛇に乗る、真っ赤なドレスで着飾った金髪の美しい少女が佇んでいた。『嫉妬』を司る悪魔レヴィアタン。

 相対するのは、十本の角を持つ黒衣の悪魔王、サタンだ。

 何が起こったのか理解できないといった挙動で、周囲を見渡す時雨。それとは対照的に、落ち着いた様子のレヴィアタンが口火を切った。


「どうやら、わたくしが最初のようですわね」

「まあな」


 返事しながら、サタンはおどおどする時雨を一瞥する。


「ソレがお前の契約者か」

「ええ」


 ソレというのが自分を示していると気づいた時雨は、ビクつきながら身を縮ませた。


「どうやら望みを叶えたようだな」


 サタンの言葉に答えることはせず、レヴィアタンは時雨へ青い目を向ける。

 その視線にはなんの感情も灯っていない。自分がこれからどうなるのか理解していない者への、ささやかな憐れみさえも。


「ちょ、ちょっとアンタ! ここどこよ、生放送は!? 」


 自分を余所に訳知り顔をして話すサタンへ、レヴィアタンの背に隠れながらも、時雨は及び腰で強く問いかける。


「ほう、悪魔王である俺をアンタ呼ばわりか。下等な人間風情の小娘が、ずいぶんとデカい口を利く。躾がなってないんじゃないのか、レヴィアタン」


 凶悪な笑みを貼り付けて睨みを利かすサタン。弓形に歪んだ口元から鋭い牙を覗かせている。

 底知れぬ不気味さに恐怖を感じたのか、時雨は小さく悲鳴を上げて頬を引きつらせた。

 目元のメイクが滲んだパンダ顔で慄く様に気分を良くしたのか、悪魔王は肩を上下させて哄笑する。


「ククク……ハハハハ! 実に小物らしい怯え方だ。こんなやつらが物質界に君臨していると思うと反吐が出る」

「こ、小物はアンタでしょ! 私よりチビなくせに!」

「口の利き方に気をつけろよ、女」


 ドスの利いた声。

 鋭い眼光を飛ばし、瞬時にサタンが手刀を振り上げた直後だった。


「えっ」


 時雨の耳元を『何か』が横切った。その『何か』がなんなのか、彼女自身にも分からない。ただ、何かが通り過ぎた。それは間違いなく空気で感じられたのだ。

 次の瞬間、ずるっと右腕が肩から滑った。氷河の上へ、粘着質の嫌な音を立てて落下する。

 音のした方に目を向けると、そこにはくの字に折れた筆が落ちていた。

 黒い布でラッピングされた筆に、赤い墨汁をつけて半紙に落としたような奇怪な光景。そして同時に、視界に入っていないといけないはずのある部分が、感覚ごと自分の体にないことに時雨は気づく。


「い、いやぁああああああ!」


 落ちていたのは自分の腕だった。それを認識した彼女は、叫びながら右腕を拾い上げた。頬に黒い筋を引きながらも、なりふり構わず懸命にくっ付けようと試みる。

 何度も何度も試みる。その度に鉄臭い濃厚な臭いが辺りに散漫し、下品な水音を立てた。

 しかし努力も空しく、腕が元に戻ることはなかった。それを嘲るように、肩の切断面からは熱い血潮が延々と噴出している。けれど、不思議と痛みはなかった。


「ははは! 滑稽だな、実に愉快な見世物だ。貴様らの慟哭が苦痛が叫びが嘆きが! 地獄に至上の歌を響かせる」

「私が、なにをしたって言うのよぉ」


 捥げた右腕を抱きしめながら、時雨は泣き腫らした目でサタンを睨め上げる。

 悪魔王は辟易したように肩を竦ませた。なにも理解していない人間に、これ以上ないくらいの侮蔑を込めた視線を送る。


「貴様は悪魔と契った。そして望みを叶えただろう」


 時雨の望み――人気アイドルユニット『プリンシパル』よりも、有名になること。


「それに対してお前は罪を負った。戦争への参加同意。死後、地獄へ落ちること。嫉妬の代償は魂を以って贖うこと。契約書に全て書いてあっただろう」


 サタンが何を言っているのか、時雨は上の空で聞いていた。

 静謐すぎる氷の世界で、男の声と血の滴る音だけが鼓膜を揺らす。これは夢だと思った、そう思いたかった。

 しかし嫉妬の代償と聞き、これが罰なんだと自ずと理解した――。


 仲の良かった幼馴染は、時雨と同じくアイドルを目指していた。

 二人で夢を叶えよう、そう誓い合ったこともあった。しかし、時雨より先に、その子はユニットとしてデビューが決まる。

 最初はそれを喜んだ、応援もした、自分もいつかは……そう思い、悔しさを糧に頑張った。

 それからしばらくして、時雨も事務所が決まる。けれど、なかなか日の目が当たらない。

 鬱屈とした毎日を過ごすある日、幼馴染から彼氏が出来たと報告が入る。その彼は、時雨の想い人だった。嫉妬に駆られ、嫌がらせの手紙を何通も送りつけた。幼馴染だけ欲しいものを手に入れてッ。

 深夜。いつものように、ポストへ手紙を投函しに行った時だ。道化師長ニバスに出会ったのは。

 そして渡された『嫉妬』の棺。

 不思議と迷いはなかった。血を捧げ、契約し、そして時雨は願ったのだ。

 幼馴染を蹴落としてでも、有名になりたい。想い人を振り向かせたいと。

 そうして手にした一時の名声。プリンシパルは事故に遭い、スケジュールのなかった自分に急遽出演依頼が来たというのに――。


「さて、そろそろお喋りは終わりだ。レヴィアタン、どうする。俺と殺り合うか?」


 沈黙を保っていたレヴィアタンが静かに口を開く。


「領域が書き換えられない時点で、わたくしに勝ち目はありませんわ。ジュデッカでは水は不利。それに、どうせ貴方はルシファーが目的なんでしょう?」


 呆れるように言われ、悪魔王は鼻を鳴らす。

 レヴィアタンはそれを無言の肯定として受け取った。

 サタンはゆらりと右腕を垂らし、小指から順に折り、拳を固く握り締めた。


「わたくしは止めておきますわ。無駄なことはしない性分ですの」

「そうか」


 握った拳を開くと黒炎が渦を巻いていた。やがてそれは収束し猛火の球となる。


「出来れば、早いとこ終わらせてほしいものですわね。この無意味な戦いを」

「その点は安心しろ。俺も雑事に時間を割くつもりはない」

「どうだか」


 レヴィアタンは肩を竦めては、相方である蛇の頭を撫でる。寄り添う蛇を愛でながら、いまだへたり込む時雨へと視線を落とした。

 千切れた右腕を空ろに見つめ、ただ涙するその姿は悲壮感に満ちていた。

 それでもなお、レヴィアタンの青い瞳に時雨への憐憫が宿ることはない。


「たとえ一瞬でも良い夢が見られたでしょう? 悪魔と契約するって、こういうことですわ」


 最後に呟いた冷たい言葉は、彼女の精一杯の哀れみだったのかもしれない。


黙示録の獄炎メギド・イグニート


 悪魔王の腕が振り下ろされた瞬間、時雨を巻き込んでレヴィアタンは黒く巨大な火柱に包まれた。

 並みの炎では決して溶けることのない、ジュデッカの永久氷河を抉る途轍もない熱量。

 蒸発する氷からは膨大な水蒸気が巻き起こる。爆風で霧散するなり外気ですぐさま凍りつき、針葉樹にも似た奇怪な氷のオブジェを形作った。

 どこまでも透明な氷塊を、無感情に見つめるサタン。その中に、二人の姿はもうない。



          †



「――間違いなく、久遠時雨は死んだわね」


 涼しい顔をして、銀髪の少女はとんでもないことを言い出した。

 チャンネルを変えたテレビでは、驚天動地な事件を伝えようと特番が放送されている。

 久遠時雨が失踪したことをどこも彼処もが取り上げていたのだ。物理学者やオカルト研究者などが呼ばれ、不毛な熱い討論を交わしている。


「……なんで断言できるんだ?」


 人間の死に対して感心なさげな堕天使に、湊は怪訝な顔をして問いかける。


「有史以来、サタンが悪魔王の座から降りたことはただの一度もないのよ」


 湊は喉を詰まらせた。

 一体いつから地獄があるのかは分からない。しかし悠久であるというのは想像がつく。その永い時の間に、サタンが王の座を明け渡したことがない事実に驚愕した。


「でも、死ぬって。死ぬってどういうことだよ! いくらなんでもそれは……」

「大罪と契った人間は、負ければ死して魂で贖うの。聞かれてもどうせ答えられないからアレだけど、契約書には書いてあったし、それにミナトは追及することもなかったわ。あなたは最悪のことも想定して同意したはずでしょ」


 それは、否定しない。何かしらの代償は覚悟していた。でも彼女の口から『死んだ』という単語が、さも当然のように出てきたことが信じられなかった。

 悪魔に慈悲はないものだと、湊も少なからずそんなイメージを抱いていた。

 しかしルシファーは堕天使で、そんな想像の悪魔とはどこか違って見えたのだ。出会って数時間だが、人間臭さのようなものを感じていた。


「私たちは契約者に対し望むモノを与えるわ。富でも名声でも権力でもね。その望みを叶えたのだから、それに対して代償を払うのは必定でしょ」

「だから代償って、代償ってなんなんだよ?」

「罪のことよ。ここで言う罪というのは、その者が本質的に具えている大罪のことじゃないわ。その与えられた望みに対して負う罪。魂の罰。それにより死後、地獄へ送られた際にどの場所に逝くかが決まるのよ。もちろん例外はあるけどね」

「久遠時雨も、地獄に落とされたっていうのか……?」


 湊は探るような視線を堕天使に投げかける。自分もそうなるかもしれないという最悪を想定して、その事実を確認しておきたかった。


「――ええ」


 なんの躊躇も遠慮もなく、一切の間を置かずにルシファーは首肯した。

 湊は肺の中の鬱々とした空気を一息で吐き出す。そして天井を仰いだ。見慣れたはずの白色LEDが、今夜はなんだか眩しく見える。

 この戦いは生死をかけるものだった。まさか自分が殺し合いの当事者になるだなんて。大罪と契ったばっかりに。

 握っていた銀スプーンで照明を遮る。ふと見た鏡面に映る自分の顔が、少しやつれて見えた。

 覚悟が足りなかった。生半可な気持ちで契約しなければ……。そんな思いが今さら込み上げてくる。

 目線をルシファーへずらすと、真紅の眼差しが真っ直ぐに返ってきた。無言のまま交錯する黒と赤の視線。やがて耐えられなくなった湊は顔を天井に戻す。

 兎にも角にも、明日からは気の抜けない日々になることだろう。ため息を一つ。

 食事がまだ途中だったことを思い出した湊はテーブルに向かう。

 スプーンで掬ったカレーは、もうすでに冷え切っていた。

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