告白

 夜々の小さな舌が私の舌をとらえる。微かな水音がして、必死に私の唾液を得ようと動く。小さな手は私の身体に回されて、きつく抱きしめていた。私もそれに応えるようにまだ幼い彼女の身体を抱きしめ、唾液を溜めて少し上の方から彼女へと注いでやる。それを、尻尾をゆらゆらと揺らしながら飲んでいく姿は、どこか親からエサをもらう雛の姿を思わせた。

 たぶん彼女はこの行為が人間たちの性愛の前戯の一種に近い、なんてことは知らないのだろう。動物が親愛の情を交わしている、という感覚が一番彼女の感覚に近いかもしれない。

 普段は私の血液から給することが多いのだけれど、時にはこうした給し方をすることもあった。給されるものは私の体液であれば何でも良かったし、私のイメージからすると、あまり私に甘えられなかった時期が長いと、こういう甘え方を彼女はしてくるような印象がある。最近はずっと王女と行動を共にしていて、給することはもちろん、甘えるようなことも出来なかったからだろう。

 ある程度給したところで満足したのか、口を離してじゃれるように顔を押しつけてくる。私もそれに応えるように遊んでやる。

 最初は私と夜々、二人に別々の寝室を与えてくれようとしたのだが、それに異を唱えたのは夜々だった。こういったことで不平を言う子ではないのだけれど、一体どうしたのだろうと思ったが、こういう事情があったわけだ。

 夜が更け、もうすぐ日付が変わるだろう。そろそろ寝ようかと思い始めた時に、夜々が耳をピクリと動かして音を探るような仕草をした。それから、すん、と鼻を鳴らす。誰かが廊下をこちらに向かって歩いて来ているらしい。

 すると案の定、コンコンコン、と三度ノックの音が部屋に響いた。夜々が「王女のようです」と私に一言告げる。

 私は返事を返してからゆっくりと立ち上がった。


『夜分にすまない。フェリーユだ。もし良ければ、少し時間をもらえないだろうか?』


 ドアによってゆっくりと開く。寝間着の上から羽織をかけ、彼女はどこか所在なげな顔をしていた。


「すまない。もう、眠っていたか?」

「いえ。月を見やっていました。雲がなく、綺麗に見えましたので」


 彼女は「そうか」と少し安堵したように微笑んだ。起こしてしまったのではないかと心配したのだろう。


「それで、何用でしょうか? 呼んで下されば私の方から出向きましたのに」

「深夜の茶会に誘うに、呼びつけるというのは間違っているだろう?」

「まさか。姫さまからの申し出とあらば、誰もが喜んで参上するはずですよ。例え永久の眠りについていた死者でさえ、その招待には飛び起きることでしょう」

「貴女も、時にはベタな世辞を使うのだな」


 くすりと彼女が笑う。精神的にもっと一杯いっぱいになっているかもしれないと思っていたが、やはりそこまで弱い人ではない。

 それはそうだ。一度だって、姉さまが一杯いっぱいになっていた姿など見たことがあっただろうか? 最後の最後、誰もが顔をしかめ、全てを諦めようとしていた時だって、姉さまは柔らかく微笑み、みなを励まし続けていた。そんな姉さまの魂を宿しているかのような彼女が、こんなこと程度で参ってしまうわけがない。


「少しレイラを借りても良いだろうか?」


 王女が夜々に問う。夜々は数瞬だけ迷った様子を見せたが、私の表情を見てから「構いません」と返事を返した。さっきまで存分に甘えることが出来たから、あっさりと了承したのかもしれない。

 深夜の屋敷はしんと静まり返っていた。柔らかい絨毯が敷かれているおかげで、私と王女が廊下を歩く音はほとんどせず、世相を表しているのか、外で鳴く夜鳥の声も聞こえない。まだそこまで深い時間ではないけれど、全てが眠りに落ちてしまっているかのようだ。

 王女の部屋は、当たり前だけれどこの屋敷の中で最上級の客室だった。私と夜々が普段使っている屋敷も元々は貴族の別邸ということでそれなりの広さがあるが、ここほど大きな客室はない。パチパチと暖炉の中で薪が弾け、部屋は柔らかな暖かさに包まれていた。すすめられるままにソファに腰を下ろす。


「レイラはお酒を嗜んだりするだろうか?」

「多少は、といったところです。飲んでいるのですか?」


 特別彼女が酔っているようには見えなかった。独特の匂いもほとんどしない。


「少しだけな。普段は社交界の時に軽く飲むくらいで、一人で飲むことはほとんどないんだが、考え事をする時にちょっとだけ飲むことがある」


 小さなグラスを渡されて、赤い液体が注がれる。酸味のある果実の匂い。口をつけると、深いコクを感じられた。口に酸味が広がり、喉を過ぎていってその風味を堪能する。お酒に詳しいわけじゃないが、上等なワイン、ということぐらいはわかる。

 今度は私が瓶を持って王女のグラスに注ぐ。考えてみれば王女から酌をしてもらえた人間なんてこの世界に何人いるだろうか、なんてことを考える。

 姉さまはお酒の類を自分から進んで飲むようなことはなかった。何かの催しの時に口をつけることはあっても、決して好きだったとは言えなかったように思う。

 王女はどうなのだろうか? 飲む姿は様になっていたが、好んで飲んでいるかどうかまではわからない。今はただ、考えることに疲れて酔いを求めているだけなのかもしれない。酒は思考を鈍らせるが、鈍らせることによって必要なことだけが突然クリアに見えてくる時もある。泥酔するのでなければ、酒は百薬の長だ。

 暖炉の音をBGMにゆっくりとお酒を飲んでいく。

 言葉はないが、彼女が一人で考え事をしたくない気持ちはよくわかった。相談に乗る乗らないじゃなく、そこに誰かがいてくれることが大切なのだ。一人じゃないというだけで、人は時としてもの凄い力を得ることが出来る。今日その時、選ばれたのが私であって、まるで私は姉さまから認められているかのような誇らしさがあった。

 とは言っても、このままでは本当にそれだけの役にしか立たない案山子だ。私は、少なくとも彼女にとっての案山子で満足しようとは思っていない。


「迷っておいでなのですね」


 彼女が私を見る。まるで私の言葉を待っていたようだけれど、彼女はそこまで意志薄弱な人間じゃないだろう。


「……迷っていない、と言ったら嘘になる」

「立つか、立たないか」

「理屈はわかる。そして、理想だけで現実が動かないことも一応は知っているつもりだ。ましてや、今は誰ひとりとして理想像を共有していない。争いが起こってしまうのは必須だろう」

「でも、争いが愚かなことなのも変わらない」

「その通りだ」


 大きくため息を吐く。彼女の決断ひとつで、正に国を二分して戦うようなことになるのだ。争いに負ける負けないの話でなく、争いが起こってしまった瞬間に、『余程のことがなければ』この国は混乱から内乱に落ちるだろう。


「こうなることも考えていなかったわけじゃないし、その時はその時だと腹をくくったつもりでいたが……いざ目の前にすると怖気づく気持ちがどこかにあるんだ。私はそれだけの人の命を背負える人物なのか、国の命運を決めてしまうことが出来る人間なのか、と。所詮、今までの私はお気楽な王女だったのだな」

「ですが、姫さまが立たなくても、いずれレカナの軍勢は動くでしょう。もしかしたら、その前に教会側が急襲するかもしれません」

「つまり、私が立つ立たないは些細なことである、と?」

「そうではありません。だからこそ、姫さまの決断が人々を勇気づけるのです」


 彼女の深い瞳が私を見やる。言葉の意味をつかみ損ねているのではない。十分にわかってしまうからこそ、本当にそれで良いのかを悩んでいるのだ。


「人は、どうしても他に拠り所を求めてしまう存在です。私も、多少なりとも人というものを見てきました。意識しているしていないは別に、人は自分を背負い切れないと感じた時、自分でもない何かに理由を求めてしまうのです。姫さまがこの度立たれれば、人々は姫さまのため、ということを理由に戦うことが出来ます。立たれないと決断されれば、それを理由に教会との対立を止める人も出てくるでしょう。それは、どちらの決断を下すにしても、姫さまによって勇気づけられるからこそ下せる決断に違いありません」

「それが、上に立つ者の責務、か……」

「そうとも言えるかもしれません」


 コトリとグラスをチェストに置いた。

 随分と柔らかい言い方をしたけれど、要するに人間という生き物は無責任なのだ。自分の行動の理由を他者に求め、それゆえに責任さえも転嫁する。弱い存在だ。王族という、否が応でも他人の上に立ち、責任を取らなければならない人間だって、時には別の所に責任をおっかぶせる。

 彼女はまだ若い。きっと、王族という責務から逃れても非難する人は少ないだろう。けれど、彼女は自分の責務と真正面から向き合おうとしていた。


「でも、そうだな……」


 残っていた僅かなお酒をあおって、空になったグラスを見て王女はクスリと笑った。


「私だって、今こうしてレイラに頼ろうとしてしまっている。一人でいるのが怖いから、貴女に傍にいて欲しいと思ってしまっている。それどころか、もしかしたら貴女がどうするべきなのか言ってくれるんじゃないかと期待しているのかもしれない」

「ご冗談を」


 私もそれに合わせて小さく笑ってみせた。


「姫さまは、年相応に恐怖を抱いておられるだけです。もし私がここにいることで少しでもそれが和らぐのであれば、これほど嬉しいことはございません」

「優しいのだな、貴女は」

「……誰にでも優しいわけではありません」


 真っ直ぐに彼女を見やる。私自身、思った以上にはっきりとした口調だった。少しだけ彼女が驚いた表情を浮かべる。それでも、私は口を閉ざさなかった。


「私がここまで誰かを想ったのは、過去に何人もいないでしょう。現在で、ということだけで言うなら、夜々と姫さま。その二人だけに違いありません」

「レイラ……」


 彼女の表情に言葉に詰まる。今の言葉は、私にとって紛れもない告白だった。

 視線をそらす。

 なぜ言葉にしたのか?

 まさか、それほど飲んでもいない酒に酔ったとでも言うのだろうか?


「……不遜なことを申し上げてしまいました。忘れてください」


 早口で言う。

 しかし、


「誰が忘れてやるものか」


 王女はひどく楽しそうだった。


「ここまで気持ちの良い言葉は久しぶりだ。多くの者が私に好くしてくれるが……そうか、考えてみれば当たり前なのかもしれない。言う者が誰であるかによって、こんなにも私の気持ちが違う」

「姫さま……」

「冗談ではないぞ。似たようなことを言われて寒気がしたことだってあるんだ。なのに、貴女の言葉はこんなにも心地良い。私の中にするりと入ってきて、満たしてくれる」

「それはきっと、お酒の力あってこそでしょう。上等なお酒です。人を惑わす力も強いに違いありません」

「もしそれが事実なら、私はとうの昔に酒に溺れている」


 私を蒼い瞳が見やる。しんとした沈黙がふいに降ってきて、暖炉の音だけが奇妙なくらいに大きなものに聞こえてきた。耳を澄ませば、私と彼女、二人の呼吸音や心音さえも聞こえてきそうだ。


「なぁ、レイラよ。貴女さえよければ、私の傍仕えになってはくれないか?」

「………………」

「いきなりこんなことを言われても困るだろうが……しかし、貴女がいれば、私は強くあれる気がするのだ。私が望む、上に立つ者として相応しい振る舞いの出来る人間であれるような気がする。冗談や軽口でない。本当にそう思えるんだ」


 その言葉が私にとってどれだけ嬉しいものだったか、言葉にするのは難しかった。

 姉さまだって……いや、姉さまは姉さまだからこそ私を束縛しようとはしなかった。私が姉さまを好いていると知りながら、姉妹であるからこそ私を自由にしようとした。つなぎ止めようとはしなかった。

 けれど、彼女はどうだ?

 赤の他人であるからこそ彼女は私を求めてくれている。必要としてくれている。傍にいてくれと、姉さまに望んで望んで……だからこそ与えられなかった言葉を与えてくれる。

 ……いっそ、本当に彼女のためだけに生きられたら良かった。

 その時初めて私は自身の存在を少しだけ恨むことになった。私は私という存在であるからこそ、彼女に付き従うことは叶わない。それだけは、私はしてはならない。守護し、見守る者として許されなかった。


「未来のことは、どうともし難いものです。必要とあれば、きっと神さまが導いてくださいますでしょう」


 だから、今の私はそうやって言葉を濁すことしか出来なかった。

 王女は少しだけ哀しそうな顔で「そうかもしれないな」とだけ言って微笑んだ。

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