28.別れ


「でさ、お母さん、あ、いや。えーと、明李さんは本当につらい思いをしてるの?」

〈え?〉


 宇宙に携わる職に就いて、明李さんと結婚して、娘が生まれる。伊澄が言った通りになるとして、そんな素敵な未来に想像を巡らせてみると、幸せ過ぎてどうにかなりそうになった。

 同時に、疑問に思った点もある。


「たぶん、僕たちはたくさん話し合ったと思う。だから、明李さんは僕が遠くに行くってことを、納得して送り出してくれてるはず……なんだけど」


 自分で言うのも変だが、僕の短所の一つは優柔不断なところだ。だから、転勤先が遠くであるなら、絶対に明李さんと相談を重ねるはずである。十年以上も家族の元を離れるような選択ならなおさらだ。


 伊澄は、明李さんがつらそうにしているということを言っていた。直接聞いたわけではなく、雰囲気から察したのだろう。


 寂しいとは思ってくれているかもしれない。もしかすると、ほんの少しだけつらい思いをさせてしまっているのかもしれない。

 それでも彼女は、僕のことを応援してくれているはずだ。

 僕が好きになった女性は、そういう人だから。


〈キミが言うんなら、そうなのかもしれ……いね〉

 徐々に、伊澄の声が途切れ始めていた。

「うん。だから、明李さんとちゃんと話してみて」

 僕は、ちゃんと伊澄に届くように、声のボリュームを上げる。


 別れの時間は、確実に近づいてきている。

〈わかった。私の両親はね、す……仲が良いの。それだけじゃ……て、お互いを誰よ……大事にしてるなってことが、まだ小さ…………私にもわかったの。お父さんとお母さ……私の憧れなんだ〉


 間接的に尊敬の言葉を投げられて、僕は照れくさくなる。

 同時に、憤りを覚えた。

 これほど思ってくれている娘を置いて、未来の僕は何をしているのだろうか。それは、二十二年後にならないとわからない。


 きっと、この会話が終わったら、僕は忘れてしまうのだろう。彼女と話したことも、彼女の優しさも、彼女の存在さえもすべて……。

 それでも、伊澄と出会えたことは無意味なんかじゃない。


 彼女のおかげで、僕は明李さんに気持ちを伝えることができた。一歩踏み出す勇気をもらえた。


「伊澄、待ってて! 絶対に帰って来るから! それまで、明李さんと二人で!」

 伝えたい言葉をもう一度、心から吐き出した。


 伊澄も、僕と話した内容を忘れてしまうけれど、愛とか希望みたいな、彼女がこれから前を向いて生きていけるような何かを、せめて残してあげたくて。


〈待っ……よ。もう、……が……みたい。そ……じゃ、また二十二年……に…………ましょう〉

「うん」

〈……た…………〉


 握った石を見る。

 もう、彼女の声はほとんど聞き取れなかった。なにかノイズらしき音だけが、かろうじて聞こえる。

 光っているかどうかもはっきりわからない。


 声だけでつながった、遠く離れた二人は、再び離ればなれになった。

 だけど、涙は出なかったし、悲しくもなかった。

 僕はまた、彼女に会うことができるのだから。

 不思議な石は、役割を終えた。


 そして、

 世界が――切り替わる音が聞こえた。


「……あれ? どうしてこんなところにいるんだっけ」

 夢から覚めたような感覚。軽いめまい。

 いつも昼食を食べている小屋の中に、僕は一人で立っていた。


 さっきまで、食堂で明李さんとご飯を食べてて……。

 予想外の事態。告白。

 初めての恋人は、僕なんかとは釣り合わないような、とても素敵な女性。


 断片的な情報をかき集めて、記憶を形作かたちづくっていく。しかしどうしても、隙間に入るピースが見当たらない。

 失われた何かを探しながら、両手で固いものをつかんでいることに気づく。


 手に握られていたのは白い石だった。

 高校三年生のときに拾い、巾着に入れてお守りに入れているはずだった。その石が今、僕の手の中に存在していた。


 そうだ! 僕はこの場所で――大切な誰かと出会ったんだ。

 決して長くはないけれど、密度の高い時間を過ごして。

 だけどついさっき、離ればなれになって。

 名前も、どんな声だったかも思い出せない。


「やっと見つけた」

 その声のした方へ視線を移す。小屋の扉が開いていて、明李さんが覗き込んでいた。


「朽名さん……」

「時光くん、いきなり走って行っちゃうから何事かと思って」

「どうしてここが?」


「前に何回か、こっちの方向から出て来るところを見たことがあったから、なんとなく探してみた。出て来るとき、いつも嬉しそうな顔をしてたから何かあるのかなって思ってたけど、こんな秘密基地みたいなスペースがあったんだ」

 明李さんが小屋の中に入ってきて、見回しながら言った。


 嬉しそうな顔をしていたのはきっと、このスペースのせいではなく、僕が忘れてしまった誰かのおかげだと、直感的に思った。


「ごめんなさい。どうしても、しなくちゃいけなかったことがあって……」

 心配をかけてしまったことを素直に謝罪する。しかし、その〝しなくちゃいけなかったこと〟が具体的に何なのか、自分でもわからない。


「へぇ、何してたの?」

 勝手にいなくなった僕を非難するような響きはない。ただ純粋に疑問に思っているようだった。


「実は、大切な人にどうしても伝えなきゃいけないことがあって、でもその人がどんな人かはわからなくて、たぶんさっきまでは覚えてたんですけど……。あ、何言ってるか意味わかりませんよね。忘れてもらって大丈夫です。すみません」


「いや、そんなことないよ」嘘としか思えないような僕の発言にも、明李さんはちゃんと耳を傾けてくれた。「時光くんが言うなら、きっとそうなんだね」


「信じてくれるんですか?」

 ついそんなことを聞いてしまう。

「時光くんは、嘘つけない人だもん」


 思い出せないその誰かのことを僕は、嘘がつけないと評したことを思い出す。けれど、それ以上は何もわからない。


「で、ちゃんと伝えられたの?」

「ああ、はい」

 覚えていないけれど、今の気分はとても晴れやかだったから、きっとそういうことなんだろうと思う。


「じゃあ、よかったじゃん」

 明李さんの満開の笑顔に、僕の心がキュッと音を立てて弾んだ。

 ――好きだなぁ。思わず口からこぼれそうになった言葉を、僕は急いで飲み込んだ。


「ありがとうございます」

「でも、大切な人っていうのが気になる」

 明李さんの声色が微妙に険しくなった。

「え?」


「カノジョの私とどっちが大切なの?」

 明李さんは頬を膨らませて、じっと僕の方を見ながら問い詰めた。笑いをこらえているような感じもする。冗談で言っているのだろうか。

「えっと、それは……」


 物理的な距離を縮めてくる明李さんに、僕はどう答えればいいかわからなくなって、

「明李さんのこと、一生大切にします!」

 気づけばそんなことを口走っていた。


「何それ、プロポーズ?」

 明李さんは、真剣な表情を崩して笑い始める。


「あ、いや、そんなつもりじゃ……。大切にはしますけど、まだ、結婚とかそういうのではなくてっ!」

 焦れば焦るほど、余計なことを言ってしまう。


 そんな僕を見た明李さんは、楽しそうにこう言った。

「ありがとう。幸せにしてね」

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