15.消失願望


 昔から、たまに消えてなくなってしまいたいと思うことがあった。

 その瞬間は、法則性も予兆もなく訪れる。


 音楽の授業で歌っている最中だったり、友達とファミレスで話しているときだったり、部屋でボーっとしているときだったり……。そんな何でもない日常の中に、ふと、生きていることに対する不安が突然やってくるのだ。


 それは、自殺願望とはまた違うものである。死ぬことは怖い。

 死にたい、ではなく、最初から存在しなかったことになりたい。


 私が生まれてこなかった世界。そこには、私の身体も精神も意志も心も、何もない。今私が生きているこの世界が、突然そんな世界に切り替わることを想像する。もちろん、そんな都合のいいようなことは起きない。わかりきっている。でも、もしもそうなったとしたら、私はどこへ行くのだろう。




 教室では相変わらず、私は一人だった。愛香あいかとも麻帆まほとも由芽ゆめとも、一言も交わさない日々が続く。徹底的に無視されているようだ。


 由芽は、廊下ですれ違ったときに目を伏せる。彼女の代わりに、グループからはじき出された私に対して、後ろめたい気持ちがあるのだろう。 

 しかし彼女は、そうなることを自分から選んだのだ。なら、そんな悲しそうな顔をせずに、もっと楽しそうにしていればいいのに、とも思う。


 かけがえのない親友というわけではなかったから、彼女たちと話さなくなっても私の学校生活に大きな影響はなかった。

 仲間外れにされた瞬間こそショックは大きかったものの、今ではもう、独りでいることに慣れてしまった。


 机に落書きされたり、上履きを隠されたり、水をかけられたり、そういう直接危害は加えられるようなことはされていない。

 学校に話す相手がいなくても、私は問題なくやっていける。




 休み時間はいつも、教室の窓から外を眺めている。楽しく会話をしていた日々が、嘘みたいに懐かしかった。


 でもなぜか、今の私は前よりも私らしいような気がしていた。

 それに最近は、消えてなくなってしまいたい、と思うことも減った。

 きっと、彼のおかげなのだと思う。きっかけを作ってくれた愛香たちには、今では感謝すらしている。


 昼休みに公園に出かけるようになって、一ヶ月以上が経った。

 小さな石から声が聞こえるのは不思議で、たまに怖くもなるけれど、彼と会話をするのは楽しみだった。ありのままの自分でいられるのだ。


 そして、彼とのやり取りを繰り返すうちに、私の予感は確信に変わっていった。

 大学二年生。宇宙の勉強。一途な片想い。何より、その優しい雰囲気。

 石の向こう側にいる宗平という男は、私の知っている時光宗平で間違いない。


 私の正体がバレないように、この関係を続けよう。今まで通り接していれば、彼はきっと、私の正体に気づかないままでいてくれるだろう。


 隠したままでいるのは、なんだか嘘をついているような気がして罪悪感があるけれど、もし彼が私の素性に気づいてしまえば、今までとは同じように話せなくなってしまう。


 思わず父の職業を話してしまったのは失敗だった。宇宙飛行士なんて、そう多くはいない。注意を払わなければ。


 毎日のように話していると、私が知っていたのは彼のほんの一部分なのだとわかる。当たり前のことだけど、彼も一人の人間なのだ。私の知らないこともまだたくさんあるのだろう。


 大きな夢のための、一途な努力を知った。

 穏やかで不器用な、温かい優しさを知った。

 一人の女性を強く想う、彼の純粋さを知った。

 恋をしている彼は、とても素敵だと思った。


 私も、頑張ってみようかな。柄にもなく、そんな気持ちが湧いてきた。

 そのとき脳裏に浮かんだ先輩の顔を、慌ててかき消す。


 それにしても、何で恋愛相談なんか乗ってしまったのだろうか。

 彼らの出会いはロマンチックで、思わず首を突っ込んでしまったけれど、今では少し後悔している。


 応援したいのは確かだが、複雑な気持ちが邪魔をする。

 私は、上手く彼の友人を演じられているだろうか。

 最後まで、彼の恋を応援し続けることができるのだろうか。


 そして先日、彼と話しているときに、私は気づいてしまったのだ。

 もし彼の気持ちを、今の私が変えてしまえたならば――。


 バッグにつけられた白い石のお守りに視線をやる。

 これは、そのためのお守りなのだろうか。




 放課後にはバイトが入っていた。

 人気コミックの発売日が重なっていて、いつもより忙しかったように思う。余計なことを考えなくて済むため、ありがたかった。


 勤務時間を終えて、バックヤードで作業をしていた。学校の休み時間に頭の中でこねくり回したアイデアをまとめて、手のひらサイズの長方形に広げていく。


「お疲れ様ー」

 ドアが開き、先輩が入ってきた。

「お疲れ様です。先輩」

 少し早くなった心臓の鼓動。平然を装って返事をする。


「何やってんの?」

 先輩が横から覗き込んでくる。距離が近い!

「あっ、ちょっと、見ないでください!」

 慌てて手元を隠す。


「もしかして、ポップ?」

「はい。でもまだ途中なので」


 ポップとは、本の販売促進のための広告のようなものである。出版社から送られてきたり、店員が手書きで作ったりと、形態は様々だが、本を誰かに届けたいという気持ちは共通している。


 私もたまにポップに惹かれて本を買ってしまうことがあった。

 そして今、私は手書きでポップを作成していた。最近読んだ小説がとても面白く、もっとたくさんの人に読んでほしいと思ったのだ。


「いいじゃん。見せてよ」

 無邪気な声に、私はガードを緩める。ここで私が拒否したら、たぶんそれ以上しつこく見ようとしない。先輩はそういう人だ。


 だけど、どうせ完成したらスタッフだけではなく客の目にもさらされるのだ。別に今見せても問題はない。

「……わかりました。少しだけですよ?」


 絵を覆っていた腕をどける。長方形の右下と左下にそれぞれ、互いに背を向けた少年と少女が姿を現した。

 彼らの指には赤い糸が結ばれており、紙面を一周して繋がっている。まだ見出しや紹介文は書いていないため、真ん中は空白だ。


「うっわ! すげー上手いじゃん。手先器用かよ!」

「ありがとうございます。でも私、絵は元々すごく下手くそだったんですよ。小学校のときに先生に『どうして腰から腕が生えてるの?』って言われるレベルでした」


「あははは。なんだそれ。でもそれならすごい上手くなったってことか」

「はい。絵を描くことは好きだったので、いつの間にか上達してたんです」

「好きこそ物の上手なれ、ってやつね」

「そんな感じです」


 好きなものは上達する、という意味のことわざだ。私は、このことわざは正しくないと思う。

 私は先輩が好きだけど、先輩とかかわることが上手になれない。むしろ、どんどん強く意識してしまって、接し方は不自然になっていく。


 今だって、一つひとつの発言に、過剰なほどに敏感になっている。変な言葉遣いになっていないか。失礼なことは言っていないか。

 ――先輩を好きな気持ちが、バレていないか。


「まだやってくの?」

「はい。もうちょっとだけ」

 真ん中に入れる紹介文も、すでに決まっている。あとは清書してポップは完成だ。


「そっか。じゃ、お先です。お疲れ様」

 先輩が、コートを羽織りながら私に言った。

「お疲れ様です」


「外、もう暗いから気をつけて」

 そんな一言だけで、とても嬉しくなる私は単純だろうか。




「ただいま」

 家のドアを開けて言う。反応する者はいない。私は一人っ子で、母は仕事だ。

 幼稚園のときに描いた絵は、まだ玄関に飾られている。ちょうど視線の高さくらいで、見上げなくても自然に目に入ってくる。


 いつの間にか、絵を描くことが好きになっていた。その理由もわかっている。昔の私はきっと、絵を描けば父が褒めてくれると思っていたのだ。


 父が遠くへ行ってしまったあと、私は、彼が帰ってきたときに、上手く絵を描けるようになって驚かせてやろうと企んでいた。


 大好きな父に褒めてほしくて、驚いてほしくて、絵の練習をたくさんした。そして気づいたときには、絵を描くという行為自体が好きになっていたのだ。


 父は今、どこにいるのだろう。空港で見送ってから、もうすぐ十年が経つ。

 もしかすると、今は彼の大好きなそらにいるのかもしれない。

 私たちは、世界で一番遠く離れた父娘おやこなのではないだろうか。

 

 父は、大きなプロジェクトの一員として宇宙に関する研究を行っているらしい。しかし、それが極秘で進められているもので、家族にさえ詳細は知らされていない。連絡さえ、することもできないという。


 その話を母から聞く前、小学三年生のとき、一度だけ尋ねたことがあった。

 父は何をしているのか。父はどこにいるのか。父がいつ帰って来るのか。


 聞いているうちに涙があふれてきた。父に会いたかった。

 母もそんな私を抱きしめて「ごめんね。ごめんね」と繰り返すばかりで、明確な答えは返って来なかった。私の涙は、母の着ていた服に染みていった。


 その日は泣き疲れてぐっすり眠った。翌朝、起きた私は反省した。別れ際に父と、母を困らせないよう約束したのを思い出したのだ。

 それ以来、父の話題を出さないように気をつけるようにしていた。


 母が、父の仕事について話してくれたのは、私が中学生に上がった頃だった。父が家を離れてから、すでに五年以上が経っていた。

 私と母の間で、父のことを話したのは、その二回だけだった。


 それでも、父の柔らかい陽だまりのような笑顔が、穏やかで優しい声が、頭に乗せられた大きな手のひらの温もりが、ふとしたときに胸をよぎる。


 母は今日、何時に帰って来るのだろうか。レンジで温めた昨日の夕飯の残りを咀嚼しながら思った。

 母は、いつも私が寝るころに帰って来るくせに、朝起きるのはほとんど同じ時間だ。昼間は家事をして、夕方からパートに出る。私の弁当も母が作ってくれている。


 私がいなければ、母はもっと充実した生活を送れていたのではないか。私が負担になってしまっているのではないか。そんなことを考える。

 消えてしまいたいと、久しぶりに思った。

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