08_友達

 エレクトラが歌う声で目が醒める。闇に慣れた眼にも曇天の朝は優しい。

 怠い躰を起こして壁に預け、鳥の歌に耳を澄ます。慢性的に躰を支配する怠さの原因を僕は知らない。シリウスが言うようにちゃんと食べないせいだろうか。この躰がすでにどこか可笑しくなっていたって驚きはしない。

 残り二枚のビスケットの内、一枚を食べる。残り一枚。今日の夜食べたら終わり。

 そうしたら、どうしようか。倉庫に取りに行くのは面倒だが、そうしなければ食べるものがない。

 もうそれでもいい気もするが、死んでしまっては仕方がない。今日か明日、取りに行こう。

 吐き気をこらえて立ち上がる。制服に着替えて荷物を整理する。最後に銀のナイフが入っているのを確認して、鞄を肩に掛ける。

 扉を少し開けて安全を確認し、エレクトラの部屋へ移動する。

 エレクトラはベッドの中で寝転がっていた。うつ伏せで頬杖を突いて歌っている。歌に合わせてぱたぱたと足がベッドを叩く。

 僕はエレクトラの正面に座って、口許に朝食を運んでやる。今日はあまり機嫌が良くないらしく、しばらく嫌がるような素振りを見せたが、やがて黙って食べ始める。

 昨日と同じように、エレクトラの分から自分の朝食と昼食の分をもらう。水差しから水をもらう。エレクトラに勧めてみるが飲まない。

 僕は櫛を濡らして、エレクトラの髪を梳く。エレクトラはじっとしている。

 外が明るくなってきたら、僕はエレクトラの部屋から出る。

「行ってきます」

 エレクトラは答えない。

 僕は廊下を覗き、あの女がいない事を確かめる。静かに階段を下り、外へ出て、息を吸う。吐く。

 空は曇っている。荒れた庭に灰色の光が落ちて、暗い印象を強くする。美しくはないけれど、僕は決してこの空気が嫌いじゃない。

 門まで歩くと、シリウスがやって来るのが見えた。

「お早う、アルベール」

 嬉しそうに笑うシリウスに、僕は「お早う」と笑い返す。シリウスは黒い傘を持っている。確かに今日は雨が降りそうだ。傘を持ってくるべきだったかもしれないが、戻る気がないので考えても意味はない。

 僕はシリウスと並んで学校へ向かう。いつも通り、道には人がいない。

「昨日はちゃんと食べて寝たか」

「うん」

「そっか、なら良かった」

 お前は痩せてるんだからちゃんと食べなきゃ駄目だぞ、とシリウスは言う。ちゃんと食べられないからこんな体なんだよ、と僕は思うが言わない。シリウスは僕より頭ひとつ大きい。

 僕は足許を見て歩く。シリウスは顔を上げて歩く。だから、雨が降り始めた事にはシリウスの方が先に気付く。

「雨だ」

 呟いてシリウスが傘を広げ、僕を見る。

「アルベール、傘ないのか」

「うん、忘れちゃった」

「この間と逆だな」

 シリウスは笑って、僕を傘の中に入れた。

「ありがとう」

「……いや、」

 少し困惑したような顔で、シリウスは言う。

「いいんだ。どうせこの程度の事しかできないんだから」

 この程度。昨日の話の続きだろうか。

 昔の傲慢なシリウスが、どうしてこんな風になったのか本当に不思議だ。

 何か──致命的な事でなければ良いのだけど。

「十分だよ」

 僕が笑うと、シリウスは口を閉じた。

 ねぇシリウス、そんな事は本当にどうだっていいんだ。僕はあの檻から出られさえすれば何だって構わない。学校がどうだとかはもう関係ないんだ。ここにはもう僕を、僕とエレクトラを受け入れる余地なんてないんだから。

 早く気付いてよ。そして僕をここから出して。

 僕を助けるというのなら、檻の鍵を盗む以外に方法はないんだ。「マリア」がいない世界で、「野良猫」に望むのはそれが全てだ。

 君は君の役割を果たしてくれさえすれば、それでいい。

「──ああ、そうだ」

 唐突に表情を緩めて、シリウスが鞄から何かを取り出した。掌大のそれを僕に差し出す。

「これ、やるよ。昨日送られてきたんだ」

 シリウスがくれたのは林檎だった。受け取って、果物を見たのは何日振りだろうと首を傾げる。顔を近づけると、甘い香りがする。

「真っ赤で綺麗だろ」

「そうだね。おいしそうだ」

 林檎の赤は綺麗。

 魔女の赤は穢らわしい。

 ふたつを隔てるものが僕には判らない。

 僕は鞄に林檎を仕舞う。学校に着くと、シリウスは先に教室に入る。僕は慎重に階段を上り、教室に入って、シリウスに再び出会う。

 そうして今日も授業が始まる。



 雨の日のにおいは嫌いじゃない。

 今日の授業はそれなりにつつがなく終わり、生徒は我先にと外へ出て行く。開け放しの扉や窓から、雨のにおいが流れ込んでくる。

 雨滴が打ち付ける窓硝子を眺める。外が暗いから、硝子にはくっきりと中の様子が映っている。

 僕や、僕の後ろに憑いた影も。

 エレクトラが鎌風を喚んだ日も雨だった。

 僕が窓を開けたら、再び風が吹き込むのだろうか。

 硝子に左手を触れてみる。ひやりとして冷たい。鍵はかかっていないから、少し力を入れれば開く。

「あ」

 いきなり視界が揺れて、僕は慌てて傾いた躰を支える。左の側頭部が痛いので、大方、誰かに鞄をぶつけられたんだろう。振り向くと、遠ざかっていく同級生が見えた。

 ああ間違えた。別にこれは痛くない。少し熱いだけだ。痛くなんてない。

 左手で触れた熱に、冷たい風が当たる。雨のにおいがする。顔を上げると、窓が少し開いている。

 僅かな隙間から雨が吹き込んで床を濡らしている。雨のにおいが強くなる。冷たい風が傷を冷やす。

 ただ、それだけだった。

「アルベール」

 教室に一人残ったシリウスが駆け寄ってくる。

「大丈夫か」

「平気だよ。ちょっと当たっただけ」

 そうだ僕は魔女じゃない。魔女にはなれない。エレクトラのような事はできない。今までだってそうだったじゃないか。一体、何を、今更。

 窓を閉める。硝子に映った蛇の眼が嘲う。僕は影から眼を背け、シリウスを見る。

「雨、強くなっちゃったね」

「アルベール、一緒に馬車の所まで来いよ。そしたらこの傘貸すから」

「いいの」

「ああ。今日は街道の方まで出なきゃいけないんだけど、歩けるか」

「大丈夫だよ」

 僕が苦笑すると、シリウスは頷き、じゃあ行こう、と言った。

 シリウスの迎えの馬車は、学校まで来る時もあれば、街道までしか来ない時もある。一定の法則があるようだが、僕はそれを知らない。

 雨の中シリウスと並んで歩きながらその事を口にすると、シリウスはちょっと表情を変えた。

 しばらく押し黙った後、ぽつりと言う。

「妹の迎えの都合が、あるからな」

 妹。昔はいなかった筈だ。ここを離れている間に生まれたのだろうか。

 首を傾げてシリウスを見上げる。シリウスは僕を見返す事なく、じっと前を睨んでいる。

「あの馬車は、俺を乗せた後、街にある学校に通ってる妹を乗せて屋敷に戻るんだ。時間がある時は学校まで来るけど、そうじゃなければ街道までしか来ない。妹の都合に合わせてるんだ」

「へぇ」

 僕は頷き、言う。

「優しいんだね、シリウス」

「違う」

 軽く投げかけた言葉が、シリウスの硬質な声に弾かれて落ちる。濡れた地面で点々と水滴が弾ける。やがて形を失って地面に浸み込む。

 噛み合わないやりとりの末路を見送って、僕はシリウスに視線を戻す。

「俺が、あいつのついでだからそうなるだけだ」

 聞き取るのに苦労する程抑えた声だった。雨音がすぐにその残滓を掻き消す。

 シリウスは顔を背けている。金色の髪に阻まれて、僕からは表情が見えない。

 雨音が段々煩くなってきている。シリウスの声は逆に小さくなる。

「二年前、母さんが死んだ時にできたんだ。一歳下の妹が」

 二年前。シリウスがここを離れていた間の事だ。

「俺は知らなかった。妹の母親と、母さんは仲が良かった。俺も、あいつとよく一緒に遊んだ。年も近かったし、それなりに仲も良かった。だけど、血が繋がってるなんて事は、少しも知らなかった」

「……シリウス」

「母さんが死んで、あいつと母親が家に来た。父さんは俺には何も言わなかった──俺はもうあの家には、父さんには必要ないんだ。領主の座もきっと、あいつかその夫が継ぐ事になる。しばらくして、向こうで皆にその事が知れてさ。俺は直ぐに、あそこには居られなくなった。だから戻って来たんだ」

 シリウスはゆっくりと僕の方を振り向く。僕の顔を見て、視線を少しずらして呟く。

「……ごめんな」

「……」

「だから俺には何もできないんだ。直接お前を庇ったり、助けたり、そういう力が俺にはない。助けてやりたいのに、何もできない。本当に……ごめん」

 雨の向こうに広々とした街道が見えてくる。

 街道に人影はない。これだけ酷い雨なら仕方ないだろう。街道の両端は鈍い灰色の奥へと消えていて、どこへ続いているのか見えない。

 馬車はまだ来ていないようだ。

 街道に足を踏み込む手前で足を止めると、シリウスは僕の正面で立ち止まった。

 僕とシリウスが傘を挟んでまともに向き合う形になる。

「でも、アルベールは友達で居るだけで良いって言ってくれた。俺にそんな事言ってくれるのは、きっとお前だけだ」

 そう言って、シリウスは笑う。

「ありがとな。嬉しかった。前みたいに皆が俺から離れて行っても、アルベールだけは一緒に居てくれるよな」

 近づいてくる馬車の音を聞きながら、僕はシリウスを見上げる。

「もちろんだよ」

 馬車がシリウスの背後で停まる。シリウスは僕に傘を手渡して馬車に乗り込む。その窓から僕に大きな手を振る。

「じゃあな、また明日」

「うん」

 馬車が動き出す。最初はゆっくり、徐々に速く。シリウスが振る手が遠ざかる。僕は馬車が見えなくなるまで手を振り返す。馬車が灰色に溶け込み見えなくなると、耳鳴りのような雨音だけが五感を覆う。

 雨音。

 一面の灰色に、堪えきれずに目を覆った。

 ──そうか。

 そういう事か、シリウス。

「ははっ」

 酷く乾いた笑い声が喉から漏れる。僕は左手の傘を投げ捨てる。水溜りの水を跳ねて傘が転がる。遮る物を失くし、雨滴が直接僕の肌を打つ。大粒の雨は冷たくて痛い。

 両手で顔を覆う。座り込む。雨音が耳鳴りのように響く。雨が打ち付ける背中が痛い。冷たい。寒い。

「あははははははははははははははははははははは」

 そうかそういう事だったのか。シリウスがこちらに戻って最初に僕に声を掛けたのは決して裏切らない味方を作りたかったからか。ああシリウス、君の行動は正しい。僕には誰もいないから君を裏切るなんて事はありえない。この上なく安心で安全な盾であり味方。

 当然の帰結だ。あのシリウスが変わったのだから、その原因が致命的なものでなかった筈なんてない。

 ああ。

 シリウス、君は馬鹿だ。

 今の状況をまるで判ってない。この状況が続けばどうなるかまるで判ってない。シリウスから他の皆が離れる前に、僕が、大切な盾が、失われる可能性にまるで気付いていない。

 ああ、でも、きっと。

 それに気付いた所で、君は僕を助けようとはしないだろう。

 傲岸で、夢見がちで、そのくせ非力で愚かな、友達想いの「野良猫」。

 他者を唆す事はできても、自分ひとりで事を起こす事などできはしない。

 やっぱり役は揃えなければ駄目なんだ。「マリア」が居なければ、物語は上手く進まない。分不相応な期待など、抱くべきではない。

 そうだ、判ってた事じゃないか。

 僕はエレクトラが居ないと駄目なんだって事は。僕が居なければエレクトラが上手くいかないように、エレクトラが居なければ僕は何一つ上手く行かない。

 昔から、ずっとそう。

 最初から何も変わってない。

 エレクトラをあの庭から連れ戻せば良いだけの事。

 ──だから、落胆する必要などどこにもない。

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