三日目(3)

 物置の一角、物陰で入り口からはちょうど死角になる位置に、横一メートル、縦二メートルほどの長方形で区切られた床板があった。一般家庭でもよく見られる(地下室がある家を一般家庭と呼ぶべきかどうかはさておき)ありふれた構造である。

 錦野が取手を引き起こし長方形の床板を持ち上げると、その下に、地下室へと続く細い階段が現れた。


「中は暗いですので、足元にはくれぐれもお気を付けください……これをどうぞ」


 錦野はそう言うと、仄香たちに小型の懐中電灯を二つ手渡した。

 物置の照明がさほど明るくないせいもあるが、地上から視認できるのはせいぜい足元の数段ほど。その先には、底無し沼のように先の見えない深い闇が蟠っていた。階段の角度もやや急で、錦野の言う通り、光源のない状態で降りるには危険を伴うだろう。

 錦野は仄香たちが先に降りるのを待っている様子だったが、霞夜は慎重だった。


「錦野さん、先に降りていただけませんか?」

「……あ、はい。では、失礼します……」


 錦野が犯人だった場合、仄香たちが階段を降りてしまった後で、飛んで火に入る夏の虫とばかりに床板を嵌め、地下室に閉じ込められてしまうおそれがある。霞夜が錦野を先に行かせたのは、それを警戒してのものだった。霞夜はやはり錦野を強く疑っているのだ。

 錦野は大きな体を屈め、一歩一歩確かめるように階段を降りていく。仄香たちも、足元を懐中電灯で照らしながら錦野に続いた。


 階段は予想していたよりもずっと長く、十段、二十段と降りてもまだ地下室には辿り着かない。少なく見積もっても、既に地上から五メートル以上は降りているはずだ。壁はコンクリートで固められているが、階段は木製で、巨体の錦野が一段降りるごとに、足元がミシ、ミシと小さな音を立てる。

 霞夜が辺りを囲む暗闇を見回しながら言う。


「この階段、結構長いんですね……」


 霞夜の声は、まるでエコーがかかったように二重、三重に響いて聞こえた。

 錦野はちらと後ろの霞夜を振り返り、すぐにまた足元へ視線を戻して答える。


「ええ、この屋敷の地下室は、元々はシアタールームとして設計されたものらしいのです。夜中に大音量で映画を見ても地上には響かないようにと、かなり深く、物置の床板も厚く作られています。物置には浄水器やエコキュートなど大型の装置がありますから、いずれにしても床は厚く頑丈に作る必要があり、一石二鳥だったというわけですな。しかし、基礎の工事がある程度終わってから、大型の蓄電池や非常用ディーゼル発電機の必要性に気付き、その設置場所として、地下室に急遽白羽の矢が立った。あの洒落たリビングの中に置かれた無骨なテレビとオーディオセットに違和感を覚えられたかもしれませんが、元々は地下室にシアターセットを置く予定だったと言えば、納得して頂けるでしょうか」

「本当はもっと大きなスクリーンとプロジェクターをこの地下室に置くつもりだったみたいだね。でも、パパもやっぱり諦めきれないみたいで、この島に新しく離れを作って、そこにもっとちゃんとしたシアターセットを作ろうかって話をしてたよ」


 仄香は素早く手を動かしながら錦野の話を補足した。


 階段を降り始めた直後には、まだ物置にあるエコキュートや浄水器からの微かな振動や動作音が伝わってきていたのだが、いつの間にかそれもなくなり、周囲は完全な静寂に包まれている。確かにこれならば地下室で大型のスピーカーを鳴らしても地上までは響かないだろう。普段なら気にも留めないような、靴やサンダルの小さな足音が狭い階段の中を反響して、否が応にも緊張感が高まってくる。

 それからさらに数段降りたところで、錦野が不意に立ち止まった。霞夜が驚いて懐中電灯を前方に向けると、錦野の背中の向こうに、白い小さな鉄製の扉が見えている。


「さて、着きましたな。ここが地下室です。地下室の鍵は、先程お渡しした鍵束の中にあるはずです。開けていただけますか?」

「あ、はい……えーと」


 鍵束には大小さまざまな鍵がぶら下がっており、その全てに小さなラベルが貼ってある。霞夜はその中から『地下室』と書いてある小さな鍵を手に取り、扉のドアノブにある鍵穴に差し込んで右に捻った。ガチャ、という音がやはり大きく反響し、霞夜の後ろにいた仄香が驚いて身を竦める。それに気付いた霞夜が、仄香に声をかけた。


「仄香、ここの地下室にはあんまり来ないの?」

「……うん、ここは普段管理人さんかパパしか出入りしてないはず。新築の頃、一度中を見せてもらった覚えがあるけど、私はそれっきりかも……」


 今回も霞夜は錦野を目で促して、先に地下室に入らせる。錦野も霞夜の指示に大人しく従った。


 一般的に地下室といえば、暗いことはもちろんだが、空気はじめじめして黴臭く、一面に埃が積もっている、というイメージがある。だが、この地下室は意外なほど空気が綺麗で、暗さの割に不気味さはあまり感じられない。

 霞夜がひくひくと鼻を動かしながら言った。


「……なんか、思っていたより空気が澄んでいるんですね」

「ええ、この地下室には、ディーゼル発電機に蓄電池、それにパワーコンディショナーまで設置されておりますからね。外までダクトを伸ばして、二十四時間排熱と換気を行っているのですよ。ホコリは少々舞っておるかもしれませんが、空気は乾燥しているし、カビも生えていない。なるほど、出入りの不便さを除けば、犯人が身を潜めるには絶好の場所とも言えますか……」


 錦野は感心したように頷きながら顎をさする。そんな錦野に鋭い視線を送りながら、霞夜は地下室の中へと懐中電灯を向けた。

 十五畳ほどの広さがある長方形の地下室だが、三方の壁に沿って一つずつ、合わせて三つの大型の機械があるだけで、部屋の中央には何も置かれていない。そのため、実際の広さ以上にガランとした印象を受ける。

 向かって左側の壁には、一見するとロッカーのようにも見える、高さ二メートル弱、縦長でグレーの直方体のものが四つ並んで立っている。正面の壁には、それより少し背の高い、やはり直方体の白い装置が一つ。右側の壁には、高さ一メートル強、横幅二メートルのエメラルドグリーンの装置が一つ置かれている。

 錦野はまず中央の装置にライトを当てた。


「あれが、ソーラーパネルで得られたエネルギーを、我々が使えるように変換する装置。パワーコンディショナーと呼ばれるものです。それから、左手に見えるのが――」


 続いて錦野は、向かって左側の装置にライトの向きを変える。


「あれが、太陽光発電の電気を貯めておくための蓄電池です。一般家庭ではまず使われない、産業用の大容量タイプですな。淡水化装置やエコキュートは消費電力が大きいですが、乙軒島は日照時間も長いですし、普段私一人が生活する上では困ることがありません。が、今回は皆様も滞在されておりますし、まだ数日晴れ間が見えないようですので――」


 と、今度は右側の装置にライトが向けられた。


「万が一の事態もあるかと、今朝、朝食の準備を始める前に、あちらのディーゼル発電機の調子を見に来たのでございます。あれも非常用電源としてはかなり大規模なものらしいですな」

「向こうの発電機は、たしか二、三年前、冬休みに来たときに一度使ったことがあるぐらいじゃないかな。夏場はほとんど使ってないと思う」


 錦野の説明を仄香が再び補足し、霞夜は周囲に間断なく視線を走らせながら頷いた。


「……なるほど。あのディーゼル発電機の燃料はどこに?」

「上の物置にも若干は置いてありますが、船着き場の近くにあったログハウスに、ボートの燃料のガソリンと一緒に保管しております。ここからは少々遠いですが、向こうには火気がありませんから、安全面を考慮して、大部分はログハウスの中に保管してあるのです」

「ログハウス……後でそこも見て回る必要がありそうですね」


 懐中電灯の光を当てながら地下室全体を隈なく探してみたものの、不審なものは何も見つからなかった。それどころか、床に薄く積もったホコリに残された痕跡は、今朝様子を見に来た際につけられた錦野の足跡のみ。蓄電池、パワーコンディショナ、ディーゼル発電機はいずれも大きさだけなら中に人が一人隠れられそうなサイズではあるものの、分解されたような痕跡は見られない。パワーコンディショナも蓄電池も問題なく作動していたし、念のためディーゼル発電機も起動してみたが、特に異常は見られなかった。


 地下室を出た霞夜たちは、再度一階を念入りに探索してから、二階に上がった。マスターキーを使って仄香、霞夜、綸、望とそれぞれの部屋を順に見て回ったが、やはり異常は見当たらない。

 そのまま遊戯室へ向かうと、そこには望と、先程より少し落ち着きを取り戻した様子の綸がいた。部屋の片隅にある椅子に腰掛けながら、二人は何か話し込んでいる。二人の姿を認めると、霞夜は真っ直ぐそちらへ向かい、二人に声を掛けた。


「綸、どう? 少しは落ち着いた?」


 霞夜が問うと、綸は泣き腫らして真っ赤になった目で仄香たちを見上げ、ゆったりと頷いた。


「うん……ありがとう。まだちょっと心臓がバクバクしてるけど……さっきよりは、少し良くなったかも。霞夜は強いね、嬰莉とはあんなに仲が良かったのに」


 綸と望が去ってから、嬰莉の部屋の前で泣き崩れた霞夜を知っている仄香は、そのことを二人にも伝えようとしたが、霞夜は横目でやんわりとそれを制した。


「あたしだって辛いよ。でも、それよりも、犯人を許せない気持ちのほうが強いだけ。もし犯人がまだこの屋敷か島の中にいるなら、絶対に探し出して、あたしの手でぶっ殺してやる」


 霞夜はそう言うと、憎しみのこもった瞳で窓の外の暴風雨を睨んだ。

 望が眉根を寄せて尋ねる。


「そういえば、何か犯人に繋がるような手がかりは見つかった?」


 霞夜は小さくため息をつくと、力なく首を横に振った。


「……今のところ、全然。一階と地下室と……それと、二階のあたしたちの部屋も一通り回ってみたんだけど、犯人どころか、手がかりすら全然ない……あ、望と綸の部屋にも勝手に入っちゃったけど、ごめんね」

「いや、それは全然構わないけどさ……」


 その時、霞夜たちの後から遊戯室に入ってきた錦野の姿を見た綸が、キッと険しい視線をそちらに送った。錦野は一瞬ぎょっとしたような表情を見せ、そのまま遊戯室の入り口で立ちすくむ。昨日の件があるだけに、綸の錦野に対する疑いは、他の面々以上だった。

 おそらく、内心ではここにいるほぼ全員が錦野を疑っているのだが、昨日錦野が性器を露出させている姿を目撃したという綸は特に、犯人が錦野だとほぼ断定しているようだ。錦野が犯人だという物証はないし、何ら証拠がない段階でこのような態度に出るのは良くないこととは思いつつ、しかし誰も綸を咎めようとはしない。

 錦野もその空気を敏感に察知しており、昨日までの人好きのする笑顔はすっかり影を潜めている。昨日綸に目撃されていたことにはまだ気付いていないようだが、それを差し引いても尚、現在乙軒島にいる人間の中では最も疑わしい存在だという現状を、錦野自身も理解しているように見えた。錦野は男であり、尚且つ昨夜は全ての部屋のマスターキーを持っていた唯一の人物なのだから。


 錦野がやってきたことで気まずい空気が流れる中、望がふとした表情で言った。


「そういえば、嬰莉の部屋の中って、確認したっけ……?」


 灯台下暗し。霞夜は、目から鱗が落ちたと言わんばかりの顔で首を横に振る。


「確認……してない……あの時、嬰莉が亡くなったことを確認して、そのまま部屋を出て、鍵をかけて……」

「犯人がそのまま嬰莉の部屋の中に隠れているって可能性もあるんじゃない? もしくは、あの時は身を潜めていたけど、後になって脱出したとか……さっき霞夜たちが部屋を見て回ったとき、嬰莉の部屋の鍵は閉まってた?」

「……わかんない。行ってくる! 望、ありがとう」


 霞夜はそう言うや否や、踵を返して遊戯室を飛び出した。


「ちょっと、霞夜ちゃん! 一人じゃ危ないよ!」


 慌てて霞夜の後を追う仄香。錦野も少し遅れてそれに続く。

 嬰莉の部屋の前に着いた霞夜は、早速ドアノブを回し、鍵がかかっているかを確かめた。もしも今朝の死体発見時に犯人が部屋の中に潜んでいて、後に部屋を脱出しているなら、部屋の鍵は開いているはずだ。その場合、犯人がこの屋敷の中に野放しになっていることになり、大変危険である。

 だが、ドアノブはいくら捻っても回らず。最悪の可能性を回避できたことで、霞夜はほっと胸を撫で下ろした。


「鍵、かかってた?」


 仄香が後ろから声をかけると、霞夜は自らに言い聞かせるように何度も小さく頷いた。


「……うん。でも、まだ犯人が中にいる可能性もあるし、気をつけないと」


 マスターキーで鍵を開け部屋に入ろうとした霞夜は、ふと手を止めて、仄香の後ろにいる錦野に対して目配せをした。嬰莉の死体を見るな、という意味である。その意図を察した錦野は、大人しく嬰莉の部屋に対して背を向けた。

 ドアを開けると、玄関から覗く部屋の状況は今朝と全く変わっていなかった。嬰莉の死体にも変化はない。霞夜と仄香は、嬰莉の死体に『ごめんね』と声をかけながら、彼女の眠りを妨げないよう、足音を忍ばせてそっと部屋の中に入る。

 殺害現場となった嬰莉の部屋に足を踏み入れるなど、現場保存の観点からは避けるべき行為かもしれない。しかし、警察が呼べないこの状況では、現実的な殺人犯の脅威への対処が最優先だろう。


 部屋の中はよく整頓されており、一昨日の昼、錦野に中を案内された時とさほど変わっていない。荒らされた形跡も、犯人と格闘したような形跡も見られなかった。つまり、犯人が顔見知りだったか、抵抗する間もなく殺された、或いはその両方であると考えられる。

 仄香が声を震わせながら、ぽつりと呟いた。


「嬰莉ちゃん、一昨日ジャンケンに勝ったあと、あんなに喜んでたのにね……どうしてこんなことになっちゃったのかな……私が皆をここに連れてこなければ」

「それは言いっこなしだよ、仄香……悪いのは犯人。仄香は何も悪くないんだから」


 全ての部屋を確認してみたが、やはり不審人物はいなかった。何か犯人に繋がる痕跡がないかと、床からクローゼット、机の中まで探したものの、これといった成果は得られず。

 嬰莉の遺体に手を合わせてから部屋を出ると、廊下では錦野が相変わらず背を向けたまま待っていた。

 霞夜は再び嬰莉の部屋に鍵をかけ、施錠した音を聞いた錦野が振り返って言った。


「次は外のログハウスですかな?」


 これは、後でログハウスも確認する必要がある、との先程の霞夜の言葉を受けてのものだったが、霞夜は頷かなかった。


「……いえ、その前に、まだ確認しなければならない場所があります」


 錦野は怪訝そうな表情を浮かべる。


「まだ……? はて、屋敷の中はもう全て見て回ったように思いますが……」

「いいえ、まだありますよ……仄香のご両親の部屋と、屋根裏部屋です」

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