第一の殺人

 その日の夜。


 目を閉じると、瞼の裏に焼き付いた彼女の水着姿が鮮明に蘇ってくる。

 しっとりと汗に濡れた肌、上気してほんのりと染まった頬、すらりと伸びた長い脚。昼間見た彼女の水着姿が、まるで淫魔のように妖艶に微笑みながら、私の意識を支配しようとしている。


 昨夜は結局なかなか寝付けず、日中はずっと激しい眠気に襲われていたのだが、今夜はそれ以上に眠れる気がしない。ベッドに入ってもまんじりともできず、眠ることを諦めた私は、悶々とした気分で部屋を出た。この火照る体と昂った気分を発散するには、とにかく体を動かすしかないと考えたのだ。


 だが、こんな夜中に部屋を出たところで、どこか行くあてがあるわけもない。体を動かすといっても大きな物音を立てるようなことはできないし、そうかといって、このまま歩き回っていてもただの不審者である。足音を立てないよう注意しながら廊下をウロウロと歩き回り、朝までどう過ごそうかと考えた。

 そして、遊戯室にダーツがあったことを思い出した。あれならば大きな音も立たないし、一人でも時間を潰せるかもしれない。

 遊戯室に向かっていると、たまたま通りかかった部屋の前で、誰かの話し声が聞こえてきた。


「……だって、結構なセレブなんでしょ? なんか余裕っぽい感じがちょっとムカつくっていうかさあ」


 それは間違いなく嬰莉の声だった。

 何となく話の内容が気になった私は、少々罪悪感を覚えながらも、部屋の扉に近付き、耳をそばだてた。明瞭に聞こえるのは嬰莉の声だけ。誰か話し相手がいるようだが、相手の声は扉越しでくぐもってよく聞こえない。嬰莉の話し声は普段から常人の倍ぐらいのボリュームがあり、嬰莉の声だけが聞こえるのは、単純に彼女の声が大きいからだ。

 さて、ここは誰の部屋だったろう。嬰莉の部屋ではなかったような気がするが――。


「……つーかさあ、あたし24時間テレビとかも嫌いだし、ぶっちゃけ、障害者とかもどう接したらいいかわかんないしさ……変な空気になんじゃん? ああいう、障害者だから特別扱いしろみたいな態度、ムカつくんだよね。障害持ってるからって所詮パンピーなんだから身の程弁えろって思わない?」

「……」

「そうそう、それよりさ、あの錦野ってオッサン。仄香の前だからまあ言わなかったけどさ、ぶっちゃけ超キモくない? あれがあたしたち見ながらちんこ弄ってたってさ、マージで超~鳥肌立ったんだけど」

「……」

「いやいやマジでマジで。AVで一人寂しく抜いとけやハゲって感じ」

「……」

「てか、そもそもさ、高三にもなって、何が悲しくてスイカ割りなんかやらなきゃいけないんだっていうね。小学生かっつの」

「……」


 相変わらず相手の返事は聞こえないが、嬰莉の声だけは一字一句に至るまではっきりと聞こえてくる。誰にも聞かれていないと思って、九割がた陰口のぶっちゃけ愚痴トークに興じているようだ。もしここに通りかかったのが錦野だったらどうするつもりなのだろう。これだけ好き放題陰口を叩いているくせに、声のデカさに自覚がないのは致命的である。

 嬰莉の愚痴はそれからさらに数分間続いた。錦野や乙軒島に関することだけではない。クラスメイトのこと、親のこと、受験のことなど、その内容は多岐にわたった。


 一しきり話し終えたのか、嬰莉は大きく欠伸をする。欠伸まで扉越しに聞こえてくるとは、どれだけ声がデカいのだろう。


「ふぁ~、なんか眠くなってきたな。スマホ使えないとホント退屈。どんだけ田舎なんだよって感じ。ありえないわ~。んじゃ、色々聞いてくれてありがとね。また明日」

「……」


 会話はここで途切れ、嬰莉の足音がパタパタとこちらへ近づいてくる。私は慌てて扉の前から離れ、廊下の隅に身を潜めた。

 開いた部屋の扉から明かりが漏れ、嬰莉の姿が闇の中に浮かび上がる。白いタンクトップにショートパンツというラフな格好。すらりと伸びる細く長い脚。ブラジャーは着けていないようだ。悶々として部屋を出た私の目に、薄着の嬰莉の姿は否が応にも艶めかしく映る。


 そして、気付けば私は、背伸びをしながら自分の部屋に戻って行く嬰莉の背中を、気配を殺して追いかけていた。女として暮らしてきた数年間、ずっと心の奥底に深く沈み、眠り続けていたもの。それが突如として意識の表層まで浮き上がってきて、私を突き動かしている。

 私は嬰莉を性的な対象として見ていた。

 あの錦野と同じように。


 全く無警戒の嬰莉は、私が後をつけていることに気付く気配すらなかった。パタパタと暢気にサンダルを鳴らしながら、自分の部屋の前で立ち止まり、扉を開ける。

 自分でも何が何だかわからない。昂り始めた性的衝動を抑える術もなく、嬰莉の後ろ姿が扉に吸い込まれるその刹那、私は扉の隙間へ強引に体をねじ込んで、完全に無防備な嬰莉を床に押し倒した。


「きゃっ!?」


 いきなり床に叩きつけられた嬰莉は、一体何が起こっているのか理解できない様子だった。


「えっ、な、なに?」


 暗い部屋の中で鈍く光りながら私を見返す嬰莉の瞳には、困惑の色が強く浮かんでいる。既に理性を失っていた私は、飢えた犬が唸り声を上げるような、自分でも驚くほど低い声で嬰莉の耳元に囁いた。


「静かにしろ!」

「はっ? ち、ちょっと、誰アンタ! だ、だれか、たす……!」


 狂気を孕んだ私の声を聞き、これがイタズラでないことに気付いた嬰莉は、私の体の下で必死にもがきながら助けを求めようとした。今ここで大声を出されたら終わりだ――私は慌てて両手で嬰莉の口を強く押さえつける。

 嬰莉の抵抗は激しく、普段の私だったら容易く跳ね除けられていたかもしれない。だが、この時の私はもはや正常ではなかった。神経が昂り、体中の筋肉に力が漲り、血管は膨張し、狂った獣のように恐ろしい力で嬰莉を組み敷いていた。女子の中では体力のあるはずの嬰莉だったが、猛り狂う私の前では全く無力だった。

 私の体のどこにこれほどの力が宿っていたのか。戸惑いを覚えながらも、若い女体を前にして私の股間は激しく隆起しており、この瞬間私は、体だけでなく、自分の心までもが確実に男のそれへと変化し始めていることを自覚した。


「んーっ! んーっ!」


 私の手の指の間から嬰莉の必死の呻き声が漏れたが、窓を叩く激しい雨音にかき消され、隣の部屋までは届かない。

 そのままどれぐらいの時間が過ぎただろう。数分かもしれないし、数十分だったかもしれない。嬰莉の口を塞ぎ黙らせることに夢中で、この間の時間の感覚は完全に麻痺していた。


 そして、ふと気が付けば、嬰莉は全く動かなくなっていた。


 微動だにしない嬰莉を見下ろして私は、恐怖のあまり気絶してしまったのかと思った。だが、それにしてはどうも様子がおかしい。


「おい……おい!」


 声をかけ、肩をゆすぶっても反応はない。

 まさか、と思いつつ、口の辺りに手を翳してみる。


 嬰莉は呼吸をしていなかった。

 私は一瞬で我に返った。

 何故?

 どうして?

 胸に耳を当ててみたが、心臓も動いておらず、手首に触れても脈がない。慌てて照明をつけ瞳を覗き込んでみると、瞳孔も既に開いていた。


 死んでいる……。

 私が、この手で、殺してしまったのだ。

 

 どうして? 人間ってこんなに簡単に死んでしまうものなのか?

 混乱した頭で現状を理解するにはいくばくかの時間を要したが、やはりそうとしか考えられなかった。人一倍健康な女子高生の嬰莉が、私に襲われたタイミングでたまたま突然死するなんて有り得ないのだ。

 私は口だけを塞いだつもりだったけれど、体重をかけて押さえつけた私の手が、もし嬰莉の鼻まで塞いでしまっていたのだとしたら――。暗くて手元はよく見えなかった。鼻と口を塞がれ、酸素の供給を断たれた人間は、やがて窒息死する。小学生でも知っていることだ。


 そして私は、はたと気付いた。

 まだ死んだとは限らない。心停止してからまだそれほど時間が経っていないはず。今すぐ救命処置を行えば、息を吹き返すかもしれない。

 私は急いで嬰莉の唇から大きく息を吹き込み、それから、彼女の心臓のあたりを何度も強く押し込んだ。昔一度講習を受けたきりで、ほとんどうろ覚えだったけれど、迷っている暇はない。誰かを呼ぶこともできないし、私がやるしか……。


 だが、どれだけ人口呼吸をしても、どれだけ心臓マッサージを行っても、嬰莉の呼吸も心臓の鼓動も、蘇ることはなかった。


 蘇生を諦めた私の体を、急激な疲労と虚脱感が襲う。


 どうしよう。

 どうすればいい?

 何もかも……。


 途方に暮れ、心臓マッサージを止めた私の手の下に、二つの柔らかい感触があった。

 痩せ型の嬰莉のそれは決して大きな膨らみではなかったけれど、でも、私の男の体には存在しないもの。


 今、私の下には、魂の所有者を失ったばかりの、まだ温かい女の体が横たわっている。

 私をここまで誘いこみ殺人まで犯させた、私の中の男の欲望が、衰弱した私の意識の表層に再び浮かび上がってきた。


 彼は囁く。


 何のためにここまで来たんだ?

 ほら、お前が欲していたものはそこにある。

 やっちまえよ、なあ。


 下半身に急激に血流が集まり始める。

 憔悴しきっていた私には、この誘惑に抗うだけの精神力など残されておらず――。


 ついさっきまで、彼女を蘇生させるために心臓マッサージを施していたその手で、私は嬰莉の着衣を強引に剥ぎ取った。

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