第31話

「……?」


 何をされたのか、すぐには理解できなかった。確かなのは、俺の肩にエリンが頭を載せ、腕を伸ばして俺の背中に回しているということだ。

『どうしたんだ?』と尋ねたかったが、上手く喉が動かない。微かに甘い香りがする。

 だが、それが僅かな時間であったことは確かだ。俺たちは、理事長を止めなければならないのだから。そして、葉子の願いを伝え、理解させなければならないのだから。

 しかし、視線を遣ると、体育館倉庫の隠し扉は再び閉め切られていた。そのそばでコンソールだけが、展開したまま淡い光を放っている。


「どう? 美玲」

「駄目ね、エリン」


 いつの間に呼び捨てできる仲になったのか、二人は腕を組んだり顎に手を遣ったりして、並んでため息をついている。

 俺は自分の顔を挟むように、掌でバチンと頬を叩いた。少しは感覚が戻ってきた……だろうか?


 美玲はスマホを取り出したが、どうやら通じないらしい。『森田先生? 応答してくださる?』と繰り返すが、聞こえてくるのは砂嵐のような雑音だけだ。


「今、どうなってるんだ……?」


 蚊の鳴くような声で、俺は美玲に尋ねる。


「あなたと隊長が戦い始めて、すぐにこの扉は封鎖されてしまったの。パスワードも変更されたみたいだし、他の先生方と連絡を取ろうにも通信障害が出ているわ」

「そうか……」


 俺は何とも言えない虚脱感に囚われた。これでは理事長に対して直訴も何もできない。打つ手がない。

 問題はパスワードなのだ。誰か知っている人物に心当たりがないか、自分の胸中を探ってみる。

 淳平はどうだ? いや、この混乱の中で情報を得られる生徒がいるとは思えない。

 先生方との通信は遮られ、言い方は悪いが役に立ってはくれない。

 他に関係者がいるとすればフォックスハンターの連中だが、今の俺たちは連中から追われる立場だ。とても情報をくれそうにはない。

 一体どうしたら――。


 その時だった。ガタン、と音がして、体育館の正面出入り口が開いた。そして、明瞭な声が響いてくる。


「お困りかしら? 皆さん」


 復旧した照明を逆光にして、白衣をまとった長身の女性がこちらに歩を進めてくる。


「あ……!」


 エリンは慌てて拳銃類をホルスターに収め、直立不動の姿勢を取った。右手を掲げ、ビシッと敬礼する。俺はまだ鼓膜がわんわんとなっていたが、この声には聞き覚えがあった。


「後藤先生……?」


 呟くと、その女性――後藤先生は、すらりとした足でツカツカと俺たちの元へやって来た。


「あら、荒木くん、血が出てるわよ。おでこ」

「え?」


 俺が額に手を遣ると、確かに、粘性のある液体が指先についた。色はよく分からないが。


「ほら」

「おっと!」


 無造作に放られたタオルを受け止め、額に当ててみる。この期に至って、ようやくツンとした痛みが意識に刺し込まれてきた。


「何か悩んでるの? はい。これ」

「え?」


 クラクラした俺をよそに、先生は一枚の紙きれを美玲に手渡した。


「一、二、三……十桁。もしかして、パスワード?」

「だって、この先にいる理事長を止めたいんでしょ? だったらこの隠し戸を開けなきゃ」

「で、でも……」


 俺の疑問を、エリンが口にした。


「後藤副長、何故です? どうして司令官の意に反するようなことを?」

「誰が誰の意に反してるって?」


 後藤先生は軽く首を傾げてみせた。


「話は後に。とにかくあんたたちは、理事長を止めなさい」


 緊張感を全く感じさせずに、先生は告げる。

 俺はその言葉に応えるべく、隠し扉に近づいた。しかし、そんな俺の胸の前に腕がかざされた。


「あんたは駄目よ、荒木くん。今のあなたに拳銃はかわせない」

「いや、俺が……」

「すぐに救急隊員を呼んで保健室に運ばせるから」


 しかし、俺は肩に載せられた先生の手を振り払った。


「俺と葉子は、昔から助け合って生きてきたんだ。どうしても俺は、彼女のそばにいなくちゃ……」


 それでも強引に引き留められるだろうと、俺は思った。が、意外なほどあっさりと先生は手を下ろした。


「荒木くん……」


 半歩後ろに下がる先生。


「どうしたんです?」

「あなた、今自分がどんな目をしているのか、分かってる?」

「……は?」


 先生は俺の後頭部に軽く手を当て、もう片方の手で顎を上げさせた。


「俺の目、怪我してるんですか?」

「逆よ」


 俺は先生の意図するところが全く分からない。しかし、先生はすぐに補足してくれた。


「医学的なことじゃないの。心理学的な何か、ね」


 それでもなかなか判然としない。何が言いたいのか。

 だが、自分でも目つきが険しくなっているのは分かった。

 

 かつて俺が助けてやった妖狐。俺を熊から救ってくれた妖狐の母親。そして、今こうして妖狐として俺の前にいる一之宮葉子。

 余命幾ばくもない彼女の願いを伝える様を見届けるのに、俺ほどの適任者はいないはずだ。

 しかし、確かに俺が拳銃を手にした理事長を相手にするには分が悪すぎる。どう出ればいい?


 その時だった。


「荒木が行くなら、私が盾になろう」

「エリン……」


 するとエリンは、背後からあるものを取り出した。電気銃だ。


「電圧は最低レベルにしてある。私が先行して、こいつを司令官……いや、理事長に叩き込んでやる」

「あ、あたしも!」


 ぴょこっと跳ねるようにして挙手する美玲。


「あたしを人質に使って。そうすれば、あの人だってすぐに撃とうとはしないはずだから」

「お前ら……」


 俺は目頭に熱いものを感じた。しかし、感慨にふけっている場合ではない。


「開けますわよ、二人共!」


 同時に頷く俺とエリン。それを、腕を組んで見つめる後藤先生。


「三、二、一!」


 直後、再びギシギシと音を立てて扉が開いた。俺は葉子を抱きかかえ、美玲、エリンに続いて走り込む。途中でふらついたが、わざと上腕を壁にぶつけ、反動で身体のバランスを取る。


「手を挙げなさい、高橋辰夫!」


 明快極まりない口調で、エリンが叫んだ。


「な、何だと!?」


 ぴたり、と固まる理事長。今の声がエリンのものであるということ、すなわち裏切り者が出たことに狼狽したようだ。


「ああ、お父様! 助けて! 電気銃を頭に当てられているの!」

「非殺傷武器とはいえ、頭部に喰らったら障害が残るぞ! 自分の娘をそんな目に遭わせたいのか!」


 迫真の演技を見せる二人の後ろで、俺は葉子を抱えて佇んでいた。そんな俺たちに向かい、理事長はがばっと振り返った。

 オールバックだった黒髪はところどころが乱れ、その額からは雨に降られたかのように汗が流れている。目は大きく見開かれ、焦点が合っていないように見えた。全身を震わせ、まるで幽霊にでも憑りつかれたかのようだ。


「お、おい桐山くん! すぐに美玲を放したまえ! クビにするぞ! 君はなんの金銭的支援もなく、路頭に迷うことになって――」

「心配不要」

「……は?」


 断言したエリンに、理事長は肩を落とした。


「ど、どういう意味だ?」

「私はあなたの庇護下を出る。そうしたら、荒木くんのお宅にでも養ってもらうから」

「ああそうだ。俺の家で――って、はあ!?」


 おいおい、聞いてないぞ、そんなこと。


「ちょっ、あなた、何を言っているの!?」


 美玲までもが呆気に取られている。

 だが、今この場で揺さぶりをかけるべき相手は理事長だ。これは咄嗟に出た一言だろう……な?


「このっ、小娘が!」


 理事長は、コンソールに置かれた拳銃に手を伸ばした。美玲がいても発砲するつもりなのか。しかし、その手が拳銃を握り込む直前、ドン、とエリンが美玲を前方に突き飛ばした。

 何の戦闘力も持たない美玲。彼女に何をさせるつもりなのか?


 と、思った直後、俺は思わず息を飲んだ。

 理事長に突撃した美玲は、彼の股間を思いっきり蹴り上げたのだ。


「!?!?」


 悲鳴も上がらなかった。ひでえことをしやがる……。まあ、その痛みを想像できるのは、今この場には俺しかいないのだが。


「さ、分かったでしょう? あんたの味方はここにはいないのよ、理事長。彼女の主張を受け入れて、反省なさい」


 うずくまる理事長に、冷たく語りかける美玲。これが実の父親に対する態度なのか? 恐ろしい……。

 そう思っていると、美玲は振り返り、俺の肩を叩いた。


「葉子さんを前に。きっと、もう一度伝えた方がいいと思うから」

「あ、ああ……」

 

 我ながら危なっかしい足取りではあったが、俺はゆっくりと理事長に近づき、ひざまづいた。葉子は目を閉じ、苦し気に息をしていたが、テレパシー能力はまだ発揮できるらしい。ゆっくり、はっきりと、葉子は理事長に呼びかけた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る