20:エイダン・マクスウェルの暗躍

 エイダン・マクスウェルは、現状に概ね満足していた。

 放課後の教室に残っている人影は、エイダンとメリエルの二人きりだ。高校進学を控えているだけあって二人以外にも同じように勉強しようとする者もいたが、エイダンの絞め殺さんばかりの一睨みに皆立ち所にその場を退散していった。

 教室に響くのはメリエルが一心不乱に動かしているペンの音だけで、二人を邪魔するものなどいない。エイダンが小論文を添削し終わった頃、メリエルもまた問題を一つ解き終わったようで、エイダンに輝かしい笑顔を向けた。


「マクスウェルっ! 解けた!」

「次は三つ目の問題解け」


 エイダンはメリエルの顔を直視することが出来ずに、外方を向いたまま素っ気なく言い放つ。

 メリエルは、はぁい、と素直に返事をしながらも唸って中々問題集を捲ろうとはしない。

 その態度にエイダンは苛立ちを覚えて、机の脚を蹴った。


「やんのか? やんねぇのか? ハッキリしろや」

「ううっやります……」

「じゃあさっさとやれこのクソノロマブスが」

「ひどい……」

「こんなポンコツに勉強教えてやってる聖人君子に対して言う言葉か、あぁ?」


 文句言うならやめにすんぞ、と脅しをかけると、メリエルは柳眉を八の字にして縋るようにエイダンを見詰める。


「ごめんなさい、やめないでください……」


 か細い可憐な声で懇願し急いで問題に取りかかるメリエルを見て、エイダンは溜飲を下げた。ふん、と鼻を鳴らして、先ほどメリエルが解いた問題の添削を始める。

 メリエルの元の学力が低かったせいで、指導が過酷を極めていることは、エイダン自身にも自覚はあった。朝早くから夜遅くまでスケジュールを詰め、休む暇を与えず勉強をさせ、正直なところメリエルは数日で音を上げてしまうのではないかと危惧していた。しかし蓋を開けてみれば、たまに死んだように居眠りしたり、泣きながら問題を解いたりすることはあっても、彼女は決して途中で投げ出すことはしなかった。

 エイダンはそのことに少しばかり驚きを覚えたが、幼稚舎の時に自分を言い籠めた強気さや、一人で勉強すると躍起になっていた意固地さを思い出して、すぐにその考えを改めた。彼女は中々強かなのだ。


 その日の特別授業を全て終えると、メリエルの体はふやけたように力が抜けて机に突っ伏した。


「あああ~きょうもありがとうございましたマクスウェルせんせ~」


 脱力の余り呂律が怪しいが、そんなことは珍しくないのでエイダンは放っておいた。添削し終えた小論文をメリエルの頭上に投げ置いて、さっさと帰宅の準備をする。


「今日もノルマ忘れんなよ」

「ふぁい」

「明日は確認テスト満点取れ。じゃねぇと分かってんな?」

「ええええ~……頑張ります……」


 メリエルの不満の声にエイダンが睨みを利かせると、彼女は即座にそれを引っ込めた。

 エイダンは鞄を左肩にかける。メリエルは暫く休んでいくつもりのようで、その場を離れる素振りどころか帰り支度をする気配すら見せない。催促することはプライドが許さなかったため、エイダンは一人で教室を後にした。

 今日の授業で使った体操服を回収するために、帰りしなにロッカーへ立ち寄ることにする。蛍光灯は点いているもののその数は疎らで人気の無い教室に面している廊下は、奥から歩いてくる人間の顔の仔細が窺えないほどには暗かった。

 ロッカーを目前にして、エイダンはふと違和感に気付く。エイダンほどではないにしろ長身でひょろりと痩躯の男の陰が、挙動不審にロッカーの前で蠢いていた。気持ち悪さを覚えたエイダンは、顔を顰めながら気配を殺してそれに近付く。

 不意に、男の手元に鋭い反射光が煌めいた。目にすると同時にそれが何かを理解したエイダンは、不愉快さを隠そうともしない柄の悪い声で男に脅しをかける。


「おい」


 肩を跳ねさせて振り向いたのは、オルセンだ。

 よくよく見ればロッカーはメリエルのものであり、その中に仕舞われてある今日の授業で使った教科書が刃物で切り裂かれている。メリエルのロッカーを探っているオルセンの手にはカッターが握られており、エイダンは犯人が誰であるかを察した。


「……見つかっちゃった」


 オルセンは振り向いて、やる気なく肘を曲げたまま両手を挙げた。降参のポーズを取っている。


「スチュワートさんに言うよね?」


 苦笑しながらそう確認するオルセンは、先ほどまで凶行に及んでいたとは思えない。しかしその手に握られているのは紛れもなく凶器であり、彼の背後の無残な教科書がそれを物語っていた。

 エイダンは何も言わずにオルセンへ歩み寄ると、その優男風な容顔に一発容赦の無い拳を入れた。オルセンがよろけたところで、ぼろぼろになった教科書を拾い上げる。そしてオルセンのロッカーを開けて無傷の教科書と取り替え、それをメリエルのロッカーへ仕舞った。


「え、ちょ……」


 目を白黒させているオルセンなど目に入っていないかの如く、エイダンは自身のロッカーから体操服を取り出して、オルセンの横を通り過ぎていった。


「あ、マクスウェル、おはよう!」


 翌朝、何も知らずに呑気に微笑んでいるメリエルから、いつものように挨拶をされる。その一片の曇りもない笑顔を見て、エイダンは昨夜のことを知り及んでいないことを察した。


「昨日のノルマは達成したんか」

「勿論、バッチリだよ! 今日の確認テストも自信ある!」

「なら難しくしたるわ」

「ええっ!?」


 焦って教科書を読み直しているメリエルの斜め後ろの席に、オルセンが座った。左目の目尻に絆創膏を貼り、頬骨辺りにある青痣をファンデーションで隠している。エイダンと目が合うと、彼はすぐさま俯いて目線を外した。

 エイダンはケッと吐き捨て、メリエルの隣に乱暴に座る。


「おら、確認テストすんぞ」

「ええっ待って!」

「ウゼェ却下」


 メリエルの教科書を取り上げ、エイダンは問題を出題する。

 エイダンの問題を読み上げる速度についていくのに必死らしいメリエルは、目を回しながらペンでメモを取り、解答を書き込んでいく。それを十題分終えた頃にはメリエルは灰となって撃沈していた。


「正解率七割。満点じゃねぇから罰な」

「ううっ頑張ったのに……」

「昼飯はテメェの奢りで調達してこい」

「はい……」


 しょんぼりと肩を落とすメリエルを見て、難しくしすぎたかという念がエイダンの頭を過ぎる。しかし、エイダンの視線に気付いたメリエルがにっこりと花が綻ぶように笑んだので、それまで考えていたことが彼方に吹き飛んでしまった。エイダンは外方を向いて、メリエルを無視する。

 彼女が微笑みかけてくると目を合わせられない理由など、今のエイダンには知る由もなかった。

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