高山テキスタイル株式会社 -シークレット-

 株式会社マンサービスクリエーションとは内容証明が効力を発揮し、これまで半年の拘束期間の条例を法の力を以って二週間で自主退職が成立した篤郎は、離職票が発行される間も開けず、高山テキスタイル株式会社の社員として第一日目、これまでは亀岡から山街道を抜けて高槻市内への出勤路を、今は老ノ坂峠を抜けて京都市内への出勤路に変えて車を走らせていた。

 亀岡市の土地柄は、四方に山に囲まれた盆地であり、大阪にも兵庫にも京都市内にもアクセスは出来るがすべては峠道を抜けての事だったため、大型台風や降雪、峠区間での事故があると車通勤には痛手となる。

 そのためもあって余裕を見ての出勤であったが、始業時間の三十分以上前に会社前に到着すると、体験時から利用している急坂の駐車場に車を停めた。

 地下一階の戸を開けた入り口に設置されたタイムカードを押しに入ると、すでに奥で紗張り作業に出てきている瀬田達夫と目が合った。

「おはようございます。今日から社員としてお世話になるのでよろしくお願いします」

 篤郎は元気よく挨拶すると、軽く会釈をした。

「おはよう」

 抑揚のない声で瀬田が返す。この時すでに還暦を迎えていた瀬田は、トラック運送から整備士、タクシー運転手と時代の荒波の中を転々と職を変え、ちょうど運転手が不足していると知人に誘われ入社してから、二十年以上もの勤続年数を重ねていた。誘った知人は遠い昔に辞め、出入りの多いこの会社で、気が付けば最長者となっていた。

 多くの入退社を見てきた瀬田にとって、若い世代の入社に心半分は喜び、もう半分はジェネレーションギャップの落差に辟易してもいた。打てば響くような若者はすでに存在せず、何かと口答えする徳田との口論にもすでに匙を投げていた。それでも会社には新しい風が必要で、年々廃れていく工場内の平均年齢に憂いでいたところへ経験者の篤郎の入社に、少なからずの期待も高まるのであった。

 一旦地下一階を出て横の階段を上がると理想の空間トレース室だ。扉を開けると誰もいない暗い部屋はしんと静まり、昨日の樹脂引き作業のシンナー臭がうっすら残っていた。

 新人の仕事とばかりに篤郎はさっそく遮光カーテンの下がった二つの窓ガラスを開け、すべてのパソコン、プリンタ、複合機の電源を入れて回る。掃除器具のレンタル紗で備え付けているモップで床を磨くと窓を閉め、自分に割り当てられた席、豪の隣に座ってモニタを眺めた。起動からようやくデスクトップ画面が表示され、FTPソフトを立ち上げて韓国のPT社からのデータ着信を確認する。まだPTも出社してきてないのかサーバーが繋がらない。

「おはようございます、あ、今日からですね!」

 いつもは栞里が一番にトレース室に入るのだが、今日は天井の電気が明るく迎えてくれる。中にいる篤郎に気付いて挨拶を交わした。

「ですです、気合い入れて家出たら早くに着き過ぎてしまったんですよ。一応掃除まではしときました」

「おっけーぃ、あとはやるわ」

 四十一歳の栞里は今ではこの部屋一番の年長者となり、生まれは関東出身であるが、両親とともに関西へ移ってきたため関西弁だけど関東のイントネーションと言う、少しきつい印象を受ける篤郎だが、会話の輪に入らない辻崎とは話にならず、席も隣同士もあってすぐに打ち解けることになる。

 栞里がやかんを火にかけて茶っ葉を入れる。しばらくして、やかんがカタカタと蓋を鳴らしだすとガスコンロの火を止めて、シンク内に用意したポットに茶を移し変える一連の作業を篤郎が眺めているところに、

「おはようございます」

 始業の五分前に辻崎が顔を出した。住まいは篤郎、栞里よりも近い会社から山道を下りたすぐのベッドタウンで一人暮らしをしているのだが、時間にきっちりなのか単に寝坊なのか、毎回出勤は五分前なのである。

「そのポットって、いつもどこ持って行ってるんです?」

「絵刷り場の溝内さんのところ。熱いお茶しか飲まないんだって」

 ようやく少し軽くなったやかんをガスコンロに戻しで栞里は答えると、今度はシンク内のポットをよっこらしょっと持ち上げる。身長百五十センチもいかない栞里にとっては重労働である。溝内という名前をどこかで聞いた気がする篤郎は、その姿に手を貸すついでに確かめてみたくなり

「僕が持って行ってきますわ」

 と席を立ってポットを受け取り、トレース室裏口から一段低くなった板床に置かれたサンダルを履いて、暗く埃っぽい資材置き場を抜けて絵刷り場へと向かった。

 体験中はトレースの仕事に集中し、他の作業場へ行くことのなかった篤郎は、工場見学よろしく目を忙しく動かしながら絵刷り場に入ると、そこは広い通路状の空間で、右手側の手前の絵刷り台でスケージを引く木原大介と目が合った。

「おはようございます」

「ん、おはよう」

 篤郎が挨拶するが、今は手元の方が大事なんだろう。すぐに目線を落としスケージの先を睨みつけながら摺り下ろす。

 奥の絵刷り台の上には白い紙が無造作に置かれているだけで、さらに奥の荷物置きのラックの端に椅子を寄せて座っている溝内徹がタバコの紫煙をくゆらせており、篤郎の姿に見向きもしていなかった。

 左側を向くと、トイレ、シャワー室、枠洗浄機が続き、枠洗浄機の動作に合わせて田村和則がホースの先に着いた噴射ノズルを握って勢いよく枠についた泡を流し落としていた。

 三人の見た目はこの工場の歴史に合わせて老いており、とてもこれからの会社とは思えなかった。

 染工業はかつての好景気からは見放され、徐々に後退へと突き進んでいる。それは篤郎が転職を考えている時から分かっていた事で、それでも定年までは十分に持ち存えるであろうと見積もってはいたが、世代交代は早急に必要だろうと危惧するのだ。

「ポットのお茶はどこに置いたらいいですか?」

 ポットを手にした右手を上げて目線を誘うと奥の溝内が手を挙げた。

「おう、こっち持ってきてくれ」

「すみません、後ろ通りますね」

 篤郎は木原と立てて並べられた枠の間を通り溝内の前の作業台にポットを置くと、溝内が歯の抜けた口元を綻ばせて、吸っていたたばこを空き缶の飲み口から中に落とし込んだ。

「あんた、景ちゃんとこの息子やろ?」

「はい、あ、やっぱり溝内さんって親父繋がりでしたか。どこかで聞いたことある名前やと思とったんですわ」

「あんたのお父ちゃんと一緒に仕事しとったんは儂の兄貴の方で、儂は亀岡んとこ辞めてこっちに拾ってもらったんや。」

 溝内は座ったままの姿勢で見上げると、嗄れた声で自己紹介しながら篤郎の様子を窺った。

「亀岡で」

 篤郎は頭の中で考えを巡らすが、どうしても繋がらない。名前は知っているのに自分との関係性が思い出せないでいた。

「はは、わからんやろ。辞めた言うても十何年も前の話や。あんたが亀岡でやっとったっちゅうんは景ちゃんからも聞いとったしな。今は仲のええパチンコ仲間や」

「親父とはたまに会うんですか?」

「最近は会わんけど、また歌謡ショーある時はチケットもろてくれって言うといてくれるか。空席作ったらあかんねや」

 獲物を得たりとばかりに眼尻に皺を寄せる溝内はすでに六十歳を超えており、短く刈り上げられた坊主頭は笑うと可愛いおじい様だが、一旦目を吊り上げると暴力団系のその顔だった。実際地元の暴力団系に属している溝内ではあったが、末端に近い立場であり、パーティ券を売って回っては身銭を稼ぎ、それでも生活が出来ないのでこうして会社勤めをするのである。

 篤郎は戦慄し、まさか「製作所」と通じる人間がこの会社にいるとは露知らず、しかも父景造とも繋がっているのは非常に都合が悪かった。

 「製作所」の面々に社長の兄弟関係の会社で働いている事を知られる自分を卑下し、実家の母にも心配を掛けまいと染工場関連の仕事に転職している事を知らせていなかった。夫に次いで長男までもを蟻地獄に落としいれたトレース業を、前回の騒動で母佳子が忌み嫌っていたのに、また踏み込んだのだからバレるわけにはいかない。

「溝内さん、それは直接言うてもらえますか。僕がここに居ることは親には内緒なんでお願いしますわ。あと、亀岡の方も頼みます」

 ここは先手で釘を刺すべく丁重に訴えると、ポットからマグカップへ湯気の上がったお茶を注ぎながら、溝内は首を振って

「わかったわかった、そういう事なら言わんとくわ。この業界で働いとるんも心配やからのぉ。おお、田村、ちゃんとピーンと紙貼れよ。シワ作んなよ」

 そう言って熱いお茶を啜りながら飲み、もう一服とばかりに新しくたばこを口に咥えたると、後ろの絵刷り台の上で台紙を用意している田村に向かって指示をだした、というよりは命令口調である。

「じゃあ、そういうことで、頼みますね」

 篤郎は軽く頭を下げてその場を去ると、深いため息とともにトレース室に戻っていった。

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