存在(フィクション) 対 非存在(リアル)

 たとえば一人称で書かれた小説の場合、その視点人物の見るものは確かに存在しています。
 虚構であろうと――虚構であるからこそ、そこにそれが存在しなければ話が進まないからです。無論、それがただの妄想や幻覚、夢オチだったとしても、描写されている以上は存在していなければならないのです。
 では、存在しないと描写されている場合は? 非存在は非存在であると描写された時点で、存在しないのでしょうか。
 もしそうではないとした場合、ならば――と逆に切り返されます。存在すると描写されようと、存在しないという状態が起こるはずではないか、と。


 この小説は多数の人物の一人称視点が切り替わる形で書かれています。主人公はタイトルにある通り暮樫或人なのでしょうが、奇妙なまでにころころと視点人物が変転していきます。
 なぜなら、これまたタイトル通り怪異というものの非存在を書くことに主眼が置かれているから、なのではないでしょうか。

 或人は徹底して、怪異が全く見えないというポジションを崩しません。底抜けの鈍感さで時には呆れられ、相手の勘違いから厄介事を巻き起こし、それでも自分なりの解決を図ろうと或人なりに頭を悩ませます。
 ところが視点人物が変わると状況は一変。魑魅魍魎蠢く伏魔殿こそが舞台であり、そこに平然と立っている或人がいかに異常であるかと(勘違いも多分に含まれながら)わかってきます。
 或人の視点では描かれなかった存在が別の人物の視点では描かれるということが一貫されてきた話でしたが、ここにきてどうやらそれだけではないらしいということが明示され、存在側と非存在側はあっさり入れ替わることも暗示されています。
 存在するから存在せず、非存在であるから存在する――これは或人の視点と他の視点でも、容易に起こり得る現象なのでしょう。


 常時不穏な気配の流れる物語ですが、軽妙なやりとりや落ち着いた筆致で描かれる物語自体は、むしろ痛快爽快な気分にさせてくれる――というのがまた余計に不気味さを煽るのだから周到で秀逸です。ラブコメや「あやかしの宿」のようなジャンルの定石を踏まえながら、その裏をかき意表をついてきたかと思えば結局その通りの話として着地させてしまう手腕には舌を巻きながらゲラゲラ笑ってしまいます。

 いよいよクライマックスを迎えるとのことですが、まだまだ明かされていない重大なことが多すぎて大丈夫か? と不安に思う一方、この作者さんなら綺麗に畳んでしまうだろうという確かな安心感もあります。ここからさらにシリーズ化できるだけの設定やキャラクターを持っていますし、こっそり期待しておきながら続きを楽しみに待っています。