母音と子音の間の哀しみ

 言葉とは不思議なもので、意味とは別に音声によって拒否しようもなく湧き上がってくる感慨がある。作者の赤坂さんはイギリス在住の英語話者だが、かの国の言葉は出身階層、地域、歴史と個人史を言葉の中に容赦なく見せてくれる。発音そのものが個人史だ。
 私も英語圏の聖歌隊に所属したことがあるが1600年代のイギリス国教会の聖歌を1900年代のアメリカ南西部、2000年代のアイルランド。色んな留学先で身に着けた『英語』で歌われると、それはもう同じ言葉を歌っているとは思えないほど違うものなのだ。
 子音と母音。口腔の形と舌の位置。それだけの些細な違いから、音声に秘められた記憶がよみがえる。
 「コニー」がそっくり再現する「コンスタンス」との秘めた自分史の暴露に耐えられない夫は、コニーが使われる言語圏から逃れようとする。言葉は子音と母音で構成された音声であると同時に「息遣い」でもあるのだ。
 コニーの製品寿命は長いだろう。コンスタンスの記憶を持つ夫が亡くなった後、コンスタンスの声の記憶を持つ者が消えた後も、見知らぬ人のために奉仕し続ける。映像が伴わないのをまだよかったとすべきか、むしろ残酷なのか。それは東京に向かう若者にはまだわからないかもしれない。

「息」(プネウマpneuma)は生命原理の事を指す。
 品格ある文体の見事な短編。

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