第43話

 『……?ねぇ、ナヴィ。何か飛んでない?』



 それは最近特に厳しくなってきたヘーリヴィーネの熱血指導でシゴキにシゴかれて若干グロッキー状態になっていたライラの気分転換にと、久々に飛行箒に乗せて空の散歩を楽しんでいた時分であった。


 現在位置は秘密基地から南西に約80km程度の高度約2,000ft約600m付近。

 朕たちから見て西南西255の方位の低空を滑るように飛ぶゴマ粒よりも小さな影が、青空とのコントラストでかろうじて認識できる程度にうっすらと朕にも見えていた。距離は3マイル程度だろうか。



 『確かに、何か飛んでおるのぉ』



 『あれ、飛行箒かな?』



 額に翳した左手で日差しを避けながら、遥か彼方に居るソレに目を凝らすライラの呟きを聞きながら、朕もその機影を視線で追った。


 速度は120kt220km/h程度は出ているのではなかろうか?

 地上世界の飛行箒としては中々の速度であったが、見たところ高度を落としている最中にも見えるのを鑑みるに、高度を速度に変換パワーダイブして速度を稼いでいるようにも見えた。


 で、あるならば、他にも居る・・・・・



 『うわっヒャアッ!どうしたのナヴィ!?』



 飛行箒の後部、主機を懸架するメインフレーム上に設えた荷台にも使えるよう平らになったパッセンジャーシートに座る朕がいきなり放った強力なスキャニングウェーヴ走査波を背中に浴びて、飛び上がらんばかりに驚いたライラが素っ頓狂な悲鳴を上げるが、しかして、朕の放ったスキャニングウェーヴは朕の予想通りの結果を返してきた。



 『ライラ!ターンレフト左旋回しながら&クライム高度を取れ!目視できているボギー機影の後ろに2つ、他の反応がある!ヴィジュアルアイディ見えている奴をコール・エコー1エコー1とするネガティヴ・VID見えていない奴らをコール・ホスタイル敵性と仮定する1・2!』



 『えぇ?!何でホスタイル敵性なの?!』



 ライラが朕のチャントに驚きつつも、機体を左に旋回させて進行方向をボギー見えている不明機と平行に合わせつつ、ピッチアップして高度を稼ぐ。


 ライラのライディング技術はまだまだなれど、確実に上達してはいた。今も当初とは比べ物にならない程、殆ど垂直に近いバンク角を取りながら、カナードを器用に操作して綺麗な上向きの螺旋を描きながら上昇している。


 飛行時間はまだ百時間にも満たないが、子どもの吸収力は押し並べて凄いという事なのか、それともライラが持つ天性の勘とも言うべきもののおかげなのか、長い時間をかけて大勢が知恵を絞って編み出した戦術や理論を、ライラは大抵一度体感してしまえば大まかには理解できてしまう様であった。


 本人の自頭の良さも影響していよう。聡い子だからな。

 ライラが今やって見せているように器用に上向きの螺旋を描いて飛ぶのもそうであったが、朕の「高度を取るように」との指示に素早く反応してみせたのも、ライラが空という空間において、位置エネルギーが生み出す優位性、何らかの形に変換して常にエネルギーを保持する事が如何に重要な事であるかを理解しているからこそ、咄嗟に緊急事態に備えて位置エネルギーを蓄えておく事を意図した朕の指示に、彼女はなんの疑問も抱かないのだ。

 まぁ、まだ経験的には一人前には程遠いのだが。



 『見た所、見えている機影エコー1主機出力を上げて降下パワーダイブしておる。普通はそんな機動マニューバはせん。基本的に降下する際には、重力加速度による増速分を加味して主機出力を絞るものだ。であるならば、逆に降下中に主機出力を上げているという事は、それは何かに追われていて、少しでも速度を上げて相手を振り切りたい、という様な時だけだろう。という事は、エコー1とホスタイル1・2は敵対している可能性が高い。エコー1が朕たちに敵対的でない保証はないが、ホスタイル1・2に比べれば敵対的である可能性は低いと言えよう。逆に言えば、追いかける側の攻撃性は疑いようがない、という事だ。だから敵性と仮定ホスタイルとするのだよ』



 ライラが幼少期特有の高い声で得心したように喉だけで唸る。



 『ホスタイル1・2、ヴィジュアルアイディ目視で確認



 一気に上昇したライラは眼下を右に左にジンキング蛇行して飛行する不明機ボギーから伸びる見えない線でもなぞるように視線を動かして、2機一組ツーマンセルでボギーを追いかけるように飛行している敵性不明機ホスタイル1・2を視認した様であった。



 『あっ!何か撃った!』



 すると、ライラの視線の先で、空間を歪ませる波のような何かがホスタイル1・2から同時に撃ち出された。



 『ライラ、あの術式、見た事があるか?』



 朕は見た事がある。というより、とても初歩的な攻撃性碩術式で、朕の生前はワァールウィンドなどと呼ばれておった。正直、碩術としては大道芸レベルの術式ではあるが、当たりどころによっては大出血させることもできる殺傷能力がある。


 朕の問いに、ライラは「多分」と前置きした上で「ヴィルヴェルヴィントだと思う」と答えた。

 ライラ曰く、彼女は使えないが攻撃術式の授業で見せてもらった事がある、との事だった。その時と同じ不気味な音が聞こえたらしい。


 ふーむ。地上世界ではそんな名前で呼ぶのだな。まぁ、言語が違うだけと言う問題でもあるが。

 などと朕が感心していると、ライラが悲鳴を上げた。



 『あれ!ボギーのヒト、死んじゃうよ!』



 見ればホスタイル1・2が逃げるボギーを執拗に追い回してヴィルヴェルヴィントを乱射していた。

 ワァールウィンド、この国ではヴィルヴェルヴィントと呼ばれるその碩術は、威力も高くなければ誘導性も殆どなく、更に射程も極端に短い。


 長くとも50ショークも加害性を保っていられない。だが、それでも屁の匂いが嗅げるほど超至近距離で乱射されたら命に関わる程度には攻撃力がある。



 『あれ、助けないと!』



 ライラが朕を振り返ってそう訴えるが、朕としてはあまり気乗りがしない。

 相手がどこの誰かはわからないが、アリアドネの情報によれば今現在テルミナトル帝国は戦争状態にある。と言うことは、状況的に見て追いかけている方ホスタイル1・2はテルミナトル帝国軍所属の可能性が濃厚である。


 追われている方ボギーがどこの誰かは知らないが、今のこの状況に介入すると言う事は、戦争行為に介入する事になる可能性があった。とても危険な行為である。物理的に、ではなく法的に。


 大抵の法規には『個人が戦争に介入してはいけない』などと言う条文は存在しないだろうが、同時にそれは『反逆罪』を始めとするかなり適用範囲の広い理不尽な法令を行使される口実になってしまう。


 具体的に言えば、今あのボギーを助けると、『敵の友は敵』とか『裏切り者』として犯罪者のレッテルを貼られる恐れがある。

 まぁ、実際そうなったらライラを連れてどこかに高飛びすれば良いのだが、できるならば避けるべき事態である。



 『ナヴィ!』



 ライラが視線で朕に訴えかけてくる。その視線は幼少期に特有の、往々にして齢を重ねるごとに忘れてしまいがちな、口嵩の無い者は単に「青い」と吐き捨てるような、とても純粋な感情に突き動かされておるようであった。


 うーん。しかし気が進まない。だが、その感情はとても尊いものであり、いたずらに否定すべきものではない。

 ライラの視線に気圧される様に、朕はライラに指示を出した。



 『とりあえず高度を下げて双方を見極めねば』



 とても年寄り特有の曖昧な回答になってしまったが、こればかりは致し方ない。

 ライラは朕が言うが早いか、機首を下げて主機出力を絞りながら高度を急速に落とす。そのままボギーとホスタイル1・2の間に突っ込んでいきそうだったので、彼らの左側50ショーク程の位置に着くよう指示。

 辛うじて、彼らの服装やら風貌が視認できる距離である。


 突如、上空から急降下で降って沸いた朕達の姿を認めて、ホスタイル1・2が編隊を崩さないまま一度距離を取るように旋回を始めた。その間に彼奴らの正体を見極めばなるまい。



 『ライラ、少し寄せろ』



 遠目に見た限りではホスタイル1・2は鉄兜に軽装の鎧を身に纏った明らかな軍属であった。あれがテルミナトル帝国軍の制服なのかは朕にはわからなかったが、軍属であることに間違いはない。


 であれば、彼らの行為は軍務の一環という事になるし、こちらの行動如何によっては敵対視される可能性は非常に高かった。

 が、そんな理屈を吹き飛ばしたのはボギーの身なりだった。



 『ライラ、状況が変わった。ボギー不明機アレイ味方機に変更。助けるぞ!』



 朕の言葉にライラが表情を輝かせて頷いた。


 ボギーの格好はライラとそう大差ない全身を覆う革製のツナギ服だったが、その腕に巻かれた腕章には大きな赤い五角形に白抜きで正十字が描かれていた。


 色の違いはあれど、『帝国』法では正十字は医療・衛生を意味するマークであり、それを身につけた者は、例え戦時下にあっても保護対象に認定している。

 嘗て朕が制定したのだから間違いない。特に人道支援組織には赤と白でそのマークを明示するように定めた。

 まして、その対象に対する攻撃などを『帝国』法は固く禁じている筈であった。


 ボギーが何処の誰であれ、人道支援組織に所属している事は明らかであり、ホスタイル1・2の行為は明らかに『帝国』法に違反している。例え、法で定められていなくとも、その行為は明らかにヒトの道に悖る。


 であるならば、ボギー改めアレイ元・不明機を助けることに何憚ることはない。



 『二機編隊ノ碩術師二問フ。貴機ノ攻撃セシ目標、正十字着用ヲ認ム。攻撃禁止対象也。貴機ノ行為ハ、明確二『帝国』戦時法ヲ犯セリ。貴機ノ意図ヲ問フ。繰返スリピート……』



 朕が二機編隊のホスタイル1・2にチャントで呼びかけると、即座に応答。



 『我、テルミナトル帝国陸軍所属、識別呼称コールサイン防人八番ボーダーガーズエイト。当空域ハ現在飛行禁止也。我、違反機ヲ追跡セリ。然レド、逃走セル為、敵性ヲ認メ迎撃行動ヲ取リキ』



 『我、テルミナトル帝国陸軍所属、識別呼称コールサイン防人十番ボーダーガーズテン。貴機ハ、我国ノ飛行禁止空域ヲ飛行セリ。タダチ二、貴機ノ所属和、目的ヲ開示シ、我ノ指示二従フベシ。繰返ス――』



 ホスタイル1・2改め、ボーダーガーズの8と10が交互にチャントを発信しながら、こちらの尻に着く位置に遷移しようと、編隊を崩さずに大きく旋回してくる。

 が、朕たちはそれどころではなかった。

 ライラが飛行箒をアレイに寄せながら息を呑んだ。



 『ライラ、もっと寄せろ。朕が跳び移ってあの飛行箒を制御する。其方は朕が跳び移ったら、散開して回避行動ブレイクせよ思いっきりロケット引き起こしながらランチフルスロットルで彼奴らを振りきれ』



 ライラが見開いた瞳で見つめる視線の先には、グッタリと飛行箒の柄に絡まるようにして辛うじて飛行を続ける見知らぬ碩術師の姿があった。


 性別も年齢もここからでは判らないが、何か大きなバックパックを背負っていたのか、ボーダーガーズの攻撃で弾け飛んだらしい布製の残骸の下、上体後背部の右の肩甲骨から左の脇腹にかけて大きな裂傷が走るのが見えた。明らかな出血も認められる。


 多分意識は既に無い。

 今は最早慣性のみで飛行しているような状態であった。いつ墜ちても不思議ではない。



 『ナヴィはどうするの?』



 『心配ぜずとも良い。あの程度の輩に遅れは取らん』



 啖呵を切りながらライラでも手が届きそうな程に寄せられたアレイの飛行箒に飛び移る。

 箒に乗っていた碩術師は、朕が背中に飛び乗ったにも関わらずピクリとも反応を見せない。


 やはり意識がない様である。飛行箒の制御を手早く奪取して、箒の碩術回路サーキットにオドを流し込むと、咳込んだような噴射音と共に、箒の推力が幾分回復するが、ここまで随分無理をしたのか、木製のその箒の先は焼け焦げてざんばら様になっていた。


 その碩術師の背中を具に観察してみれば、革製のツナギ服は弾け飛び、皮が破れ肉が裂け、その下に薄っすらと白い何かが覗いている。


 いかん。もしかしたら脊髄まで傷が達しておるかも知れん。

 朕は医者ではないので詳しい事は判らんが、それでも素人目に見ても危険な傷である事は判った。



 『ライラ!止血に必要だ!マフラーをくれ!』



 ライラが躊躇うことなく首元から外した防寒用の毛糸のマフラーを印付した砂入り革手袋マジックハンドで受け取り、空いたマジックハンドで飛行箒に名も知らぬ碩術師アレイの体を固定しながら、マフラーを折り畳んで傷口に押し付ける。

 効果があるかはわからんが何もしないよりはマシであろう。


 ライラに行け、とチャントで合図する。

 ライラは機体を朕の飛び移った飛行箒から離しながら、心配そうな視線を朕に寄越したあと、意を決したようにスロットルを開けた。


 小気味良いブレイキング破裂音サウンドバリアと共にベイパーコーンリング状の雲のみを残して垂直にライラはかっ飛んでいった。


 さて、ライラの退避が完了した訳だが、状況は朕が当初考えていたよりも頗る悪い。

 見れば、大きな弧を描いて旋回を続けていたホスタイル1・2が機首を回してコチラアレイの後方への遷移を完了しようとしていた。


 横一列に並んで、攻撃のために距離を詰めてきたその二機は、それぞれが片手に短めの直剣を握ってこちらに突き出すように構えている。


 あの短剣アレが多分、地上世界の『碩術式自動軌道ラン再現装置シェ』であろう。今世のものは朕も初めて見た。


 ホスタイル1・2改め、ボーダーガーズ8・10との距離が近づくに連れ、彼らが突き出すように構えたその短剣が、ゆっくりとハイライトされた様に俄に輝きを放ち始めたのが見て取れた。


 彼らが編んだオドの軌道を読む。

 彼等が構築している術式は『ファールウィンド』、この国で言えば、『ヴィルヴェルヴィント』で間違いがない。


 が、正直そんな事よりも、朕の足下の名も知らぬ碩術師を早く医者に見せねばならない。医者のアテは、生前ならまだしも、今の朕には無いから一刻も早く秘密基地に戻るのを優先させるべきだろう。


 迫るボーダーガーズ8・10が不可視の何かを放つのに、取り敢えず煩いので攻撃的対抗碩術式オド・リークをぶつけて黙らせる。



 『ライラ!先に秘密基地に戻ってヘーリヴィーネに事の次第を話せ。朕はこのままアレイの飛行箒で秘密基地に向かう。朕が戻る迄にヘーリヴィーネに怪我人アレイを手当する準備をさせよ』



 『わかった!』



 術式の発動直前で急激にオドを失って制御が乱れたのか、ボーダーガーズ8・10が空中でたたらを踏むようにフラフラと、飛行箒の機動を乱しながら慌てて散開するのと同時、上空、厚目の雲の上を轟音と共にライラが飛び去ってゆく。


 大分主機にダメージが出ているアレイの飛行箒の機首をゆっくりと回してライラの後を追う様に旋回すると、ボーダーガーズ8・10がオド・リークの影響急速なオドの漏洩から立ち直って、再度編隊を組み直してこちらを追尾するように朕たちの後方に遷移する素振りを見せ始めた。


 攻撃的対抗碩術式オド・リークは相手が制御しているオドの軌道に外部から過負荷をかける事で、オドをマナへと還して雲散霧消させる術式であり、オド・リークを仕掛けられた者は急激にオドが不足する事により、下手をすれば意識を失ったりもするのだが、根性があるというか、何というか、軍隊は鍛え方が違うということなのか。至極面倒くさい。


 彼らを叩き落とすのは簡単なのだが、防空隊に損害が出たりしたら、彼らの所属する部隊は血眼で朕たちを探しまわるかもしれない。


 そんな事になったら、もっと面倒くさい。せっかく造った秘密基地が露見することもあるかも知れない。できればそれは避けたいところであるの。


 仕方ない。悪意ある精神攻撃マインド・クラックで彼らの記憶を消し飛ばしてしまおう。地上世界の人間は思考迷宮マインドラビリンスを持っていないらしいので、下手をしなくても洗脳する事になるが、仕方あるまいて。


 朕はぐるり・・・と丹田でオドを廻し、第二世界確率の海を通して、彼らに干渉を開始する。

 案の定、彼奴ら思考迷宮マインドラビリンスを持っておらん様であった。


 正直、正気を疑うが、今度ばかりは手間が省けて助かると言うもの。

 パパッと二人をマインドクラック洗脳して、今日飛行箒に乗ってから後の記憶を思い出す事が出来なく再生禁止にする。


 途中、微かに垣間見えたボーダーガーズ10の記憶によると、どうやら彼は先日勃発したカデン高原での大会戦だいかいせんにおいて、かなりの戦功を上げて何やら大層な勲章を授与され、つい先日後方転属と相成ったらしい。


 まぁ、司令部にとってみれば、受勲者の存在は味方の士気を上げることは間違いないが、下手に戦場に置きっぱなしにしたままにすると、流れ弾に当たって勝手に死んだ挙句に敵の士気を爆上げしかねない諸刃の剣だからな。


 そうなる前に受勲の褒美ということで一定期間安全な後方に下げられる事になったのだろう。数カ月後には呼び戻されると思うがの。


 だが彼はそれが不満だったらしい。昨日も酒場の最近チョット気になっているウェイトレスを捕まえて、延々とそのことを愚痴っていたようである。ウェイトレスの娘の表情が切って貼ったかの様な笑顔から微動だにしていなかったのは彼にとって救いであったのか否か。


 まぁ、彼らは今日は飛行箒に乗った後の事を朕が全て綺麗さっぱり忘れさせてしまったので、基地に帰ったあとに上官への報告に困る事請け合いな訳だが、戦時下で飛行禁止区域における違反者に対する対応が無差別排除キル・ゼム・オールに設定されていて、彼らは命令に従っただけの可能性が高いとは言え、人道に悖る行為の代償は常に当人が支払う事になると言うのが世の常であるから、叩き墜とされ無かっただけラッキーと思って欲しいものである。強く生きろ。


 記憶を思い出せなくなった消された彼らは、それ迄の直線的な機動とは打って変わって、まるで紐の切れた風船が如く、フラフラと各々明後日の方向へと飛び始めたが、意識を失っているわけではないはずなので堕ちはせんであろう。


 彼らの行く末を確認する事なく、朕は力なく飛行箒に凭れる様に伏した碩術師アレイに負担をかけないよう、ゆっくりと素早く飛行箒を操作して秘密基地へと急いだ。


 アレイの飛行箒はかなり限界が来ていて、高度を維持するのも一苦労の有り様であり、速度も上がらないので秘密基地までアレイが保つかどうかが心配であったが、途中、ヘーリヴィーネに事の次第を伝えた後、とって返して舞い戻ってきたライラとの合流に成功し、ライラの飛行箒で曳航して速度を稼いだおかげで、かなりの短時間で戻れたお陰で、朕たちが秘密基地に降り立った時にまだ確かにアレイは息をしておった。


 のだが。



 「ライラちゃん!輸液もっと持ってきて!」



 偶々?秘密基地に居合わせたアリアドネが、彼奴が何処からか持ってきてこっそり秘密基地のリビングに置いていたと言う『帝国』製救急救命キットを使ってアレイの治療を開始したのだが、いかんせん血液を失いすぎていたようで、アレイはすでに失血性のショック症状を起こしておった。


 名も知らぬ碩術師アレイをリビングのオーガニックツリーテーブルに寝かせ、一番大きい背中の傷に血液凝固剤を使って出血を強制的に止めはしたのだが、アレイはグッタリと脱力したまま既に虫の息であった。


 アリアドネが救急救命キットに入っていた、免疫反応を起こさず全血液型対応の汎用人工血液をアレイに輸血し始める中、朕は衛生上の理由で見てるだけである。しかも透明なビニール袋を被せられて部屋の隅に追いやられておった。まぁ、猫の体では下手に傷口に触れないし、毛も抜けるからのぉ。


 ライラがアリアドネに言われた通り、一抱えもあるバッグ型の救急救命キットの中から人工血液が入った400ml入りの輸血バックを取り出してアリアドネに手渡すと、アリアドネは既に使い切った空の輸血バックと素早く交換してアレイに輸血を続けるが、アレイ――アレイは二十歳前くらいの小柄な女性であった――に取り付けられた簡易型の心電図が描く光線は力無く、今にも直線を描きそうである。



 「陛下、心臓マッサージ継続してください!」



 簡易式の体外人工心肺VADの調整をするアリアドネの指示に従って朕は印付した砂入り手袋マジックハンドに救急救命キットに入っていたシリコングローブを被せてアレイの慎ましやかな胸部の肋骨の結節点を一定の間隔で押す。

 衛生上、朕は近づけないが、テレキネシスを使えば離れた所から心臓マッサージくらいなら出来る。

 激しく上下するマジックハンドの動きをライラが青ざめた顔で食い入るように見ていた。



 「良いかライラ。失血性のショック症状を起こした場合、最初に行わなければならないのは止血だ。出血箇所を今回の様に凝固剤で止血するか、止血帯ターニケットで止血点を圧迫して止血する。止血帯が無ければ、布などに小石を包んで、その小石を止血点に当てる様にしてキツく縛る、という方法もある。怪我人が意識を失ったまま今回の様に呼吸・脈拍が弱まる場合は、この様に心臓マッサージや輸血を行って血圧を回復させる。血圧が上がらなければ全身の酸素供給が不足するから、多臓器不全を起こしてしまうからな。心臓マッサージは必ず止血処置の後にしなければならない。止血処置が完了していなければ更なる出血を引き起こして症状が悪化してしまうからな。心臓マッサージは、肋骨の結節点に掌の付け根の辺りを押し付け、一定のリズムで行う。……この様にな」



 朕も、人死ヒトジニを前にして、冷静ではいられなかった。緊張を和らげるために意味もなく応急処置の方法をライラに解説してしまう。

 ライラは青ざめた顔で歯を食いしばりながら朕たちが行う処置を具に目に焼き付けようとするかの様に、一心に凝視していた。


 そんな鉄火場のような秘密基地のリビングルームの中で一人、ヘーリヴィーネだけが、処置が始まってからツリーテーブルの側に仁王立ちして無表情にその意識のない碩術師アレイを睨んでおった。


 先程からアリアドネが再三に渡って邪魔だの手伝えだのと声をかけるが、彼女はその一切を無視して仁王立ちを続けている。

 その相貌は何かを見据えるように一点を見つめ続けており、その眼光は得も云われぬ威圧を放っていた。

 アリアドネも彼女のその威容に、諦めて彼女を棚か何かの様に扱うようになっていた。



 「陛下、この娘の体重とか判りませんよね!?」



 心電図を凝視していたアリアドネが慌てた様に救急救命キットをひっくり返して、ペン型の注射器のパッケージを開封しながら叫ぶが、朕も正確な数字はわからない。



 「わからんが、この娘の身長と乗っていた箒の性能から考えて、60kgは無いはずだ。」



 個人差があるが、彼女アレイの身長と体型から考えればその程度である。箒の性能もあまり良い物ではない様であったので、その上荷物を背負っていたことから考えれば、彼女の体重はその程度でなければあの飛行箒では重量オーバーで飛べないであろう。


 その時、けたたましいアラーム音が部屋に鳴り響き、遠目に眺めている朕は事態を察する。警告音は心電図からであった。血圧が上がらず心電図がフラットに近づいているのだ。

 アリアドネが用意しているのは昇圧剤、多分アドレナリンか何かであろう。



 「60kg弱……ええと投与量は……この人、結構小柄だから規定量の半分くらい?……いや、強い薬だからもっと少なめの方がいいのか?」



 アリアドネが自信なさげにブツブツと呟きながらペン型の注射器の投与量を調節し始める。



 「規定量投与せい。失血で既に心停止を起こしかけておるなら、数秒の遅れが命取りになる」



 過剰投与は非常に危険だが、薬剤の規定量というのは元々少し少なめに設定されているものだ。それでダメなら運がなかったと諦めるしかない。特に今の様な専門家が居ない上に一秒を争う様な場面では。


 朕の言葉に顔を上げたアリアドネが決心した顔で一つ頷くと、ペン型の注射器を寝かされた碩術師アレイの腕に押し付ける。

 が、暫くしても耳障りなアラームが鳴り止まない。



 「クソッ……どうすれば……」



 苦々しげに横たわる名も知らぬ碩術師を見下ろしながら、消え入りそうな声でそう溢し、朕も最善を尽くした皆に何か言葉をかけようと口を開きかけたその時だった。


 ヘーリヴィーネが鬼の様な形相で顔を上げたかと思うと、空を切る轟音と共に右手を突き出し、何も無い宙を掴んでいた。



 「――戻りなさい」



 ヘーリヴィーネは何かを掴んだらしいその右手を、顔を上げた時の形相とは一転して聖母の様な静かな表情でその掴んだ何かをゆっくりと、ゆっくりと横たわる碩術師アレイへと戻す様に彼女の胸を撫でた。


 途端、心電図のアラームが鳴り止み、小気味の良い電子音が一定のリズムを刻み出す。



 「ふぅ。もう大丈夫でしょう」



 何かを成し遂げた様な輝く笑顔でヘーリヴィーネが頷いたのを聞きながら、朕はどこかへ行ってしまった自身の顎をそっと探すのであった。

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