第5話

 明くる日。

 ライラは夜明けと共に起きた。彼女は昨日の下校時と同じ、踝丈の少し濃い目の煙草色のスカートを履き、白いブラウスに真紅のチョーカーを巻いて鉄黒色のフード付きクロークを羽織ると、大きな革製の肩掛けカバンに昨夜写本した羊皮紙綴と原本を入れ、朕を伴って部屋を出た。もちろん、朝食は無しである。



 「ごめんね。もう食べ物がないの。でも写本を売ればお金が入るから、今日は市場で朝ごはんを食べましょう」



 そう言って、ライラは少し嬉しそうに朕に微笑んだ。


 ぐぬぬ。ぐぬぬぬぬ。朕が喋れれば、直ぐ……とは言わぬが、数週間で必ず朝食とはいわず三食オヤツ付きの生活をさせてやれるというのに……。口惜しい。猫の体が口惜しい。


 ライラの足元を追うように小さな小道を右に折れ左に折れしながら歩いてゆく。多分向かう先は昨夜見た商館街であろう。写本が手仕事になっている所を見ると、この辺りには活版技術がまだ普及していないと思われる。本は貴重品であり、そんな物を下町の雑貨商などが扱えるはずもない。ちらりと見ただけだが、ライラの写本した原本は中々金の掛かった装丁を施されていた。扱えるとすれば商館街のそれなりの商人であろう。


 早朝の街路には何処かのパン屋から漂う香ばしい匂いに満ちていたが、ライラは脇目も振らずに商館街へと向かった。金がなければパンも買えないしの。


 半刻程歩けば、町並みが急に開けた。ギュウギュウに詰め込まれた庶民の住居から、それぞれが一区画を専有する立派な石造りの大きな建物が目立つようになる。商館街は既に活気づいており、交易船から降ろしたであろう積荷をチェックする番頭格や、彼らの一声で走り回る丁稚達、道幅ギリギリを猛スピードですれ違う交易船に載せる積荷を満載した馬車等で街は既に鉄火場のようになっていた。


 ライラはそんな商館街を人をかき分け馬車をすり抜けしながら、更に外壁方面へと暫く歩くと、大きなガラス張りのエントランスが特徴的な一軒へと入った。


 メリル・フィンチ・ブレンナー合同会社トシュケル支店。

 エントランス・ドアの上に掛かった自然木を利用した看板にはそう書かれていた。まぁ、見た通り、メリルさんとフィンチさんとブレンナーさんの商会のトシュケル支店の様である。


 店内に入ると商品棚のような物はなく、エントランスを入って直ぐの所に幾つかのカウンターが平行に置かれた向こうに店員と思われる者達が忙しそうに走り回っている。多分この店は客と直接取引をする小売業ではなく、卸の立ち位置に当たるのだろう。

 ライラは並んだカウンターの内、一番左側のカウンターへ向かうと、背伸びをして呼び鈴を鳴らした。


 直ぐに二十歳そこそこの女性がカウンターから顔を出し、ライラを覗き込んだ。



 「あらライラちゃん、早いのね。写本できたの?」



 「おはよう御座いますメリッサさん。昨日、出来ました。買い取りをお願いします」



 ライラは肩からかけたカバンから、原本と羊皮紙綴を出してカウンターに置いた。



 「少し待っててね」



 メリッサと呼ばれた店員は原本と羊皮紙綴を抱えると、奥へと引っ込む。出来栄えを専門の者に査定させるのだろう。暫くするとメリッサはトレーに一枚の木札を載せて戻ってきた。



 「はい、待合番号札ね。査定には少し時間がかかるけど、どうする?」



 「先に担保金を返していただけますか?市場で買い物をしたいので」



 ライラが番号札を受け取るとメリッサがまた奥に戻って、今度はトレーに数枚の紙幣と数十枚の黄銅貨を載せて現れた。



 「担保金3テール、確認してね」



 メリッサはそう言ってトレーをライラの前に置いた。どうやら通貨単位はエルメリア連邦と共通のようである。朕の記憶通りなら、この他に補助単位としてクラウン、ミル、等がエルメリア連邦では流通していた。1テールは18クラウン、6480ミルである。逆に1ミルは1/360クラウンとなる。他にもフィナールやターポ等も流通していた記憶があるが、フィナールは元々クロクッド首長国、ターポはキャール王国の通貨であったから、統廃合を経たであろうテルミナトル帝国での流通量は少ないと予想できた。

 因みにテールには紙幣と金貨があり、エルメリア連邦では金本位制を取っていた筈であるから、テール紙幣は兌換紙幣であったと記憶している。主に流通しているのもテールは紙幣の方である。


 しかし、メリッサが持ってきたのは紙幣と黄銅貨であった。朕は一足飛びでカウンターに登ると、メリッサの持ってきた紙幣を確かめた。



 「こらっ!ナヴィ、登っちゃだめ!」



 慌ててライラが朕を抱え上げる。



 「あら、可愛い。使い魔かしら?」



 「ええ、昨日の卒業の儀ケラヴゼナで」



 そう言ってライラの表情が少し曇る。ぬぅ。喋れればのう。喋れさえすれば朕の偉大さがすぐに示せるのにのぅ。

 トレーに置かれた紙幣には10クラウンと書かれていた。黄銅貨には50ミルと刻印された大きな硬貨と10ミルと刻印された中位の硬貨、それに1ミルと刻印がある小さな硬貨が有った。もしかしたら戦争の影響で直接価値のある金や銀、戦略物資でも有る銅を節約するために全て紙幣や黄銅貨幣に代替したのやも知れぬな。もしかすると金本位制も辞めた可能性すら有る。


 それにしても、貨幣を数えるライラに抱かれながら、朕は感心していた。このメリッサという娘、中々に気が利く。商人の礼節に支払いは持ち歩く数がなるべく少なくなるように、と言うものがある。その礼節に則れば、普通は1テール紙幣を3枚出せば良い。しかし、市井で1テール紙幣を使うなどナンセンスだ。特に露天商などの少額取引を主とする者には嫌な顔をされるであろうし、スリに会ってしまえば有り金全部失いかねない。その事を慮ったのか、これから市場で買い物をする小娘への支払いに小額貨幣を充てるのはとても理にかなっている。


 しかもご丁寧に10クラウン紙幣5枚に10ミル硬貨4枚ではなく、10クラウン紙幣4枚に500ミル硬貨8枚、100ミル硬貨8枚に50ミル硬貨4枚に10ミル硬貨4枚と言う配分で出してきている。これであれば市場の屋台でも買い物がし易い。この店の教育が行き届いているのか、それともこのメリッサの気質――面倒くさい計算と小銭を揃える労力を、このクソ忙しそうな時間帯でもライラのような小娘に惜しまない――なのかは解らないが、朕はこの娘を気に入った。


 ライラは担保金を数え終えると、札留に紙幣を挟み、硬貨は巾着に入れ別々のポケットへしまい込んだ。ほらな。こうすればどちらかをスラれても買い物が続けられるというものだ。


 見れば、メリッサは身形こそ庶民の物だが左胸にネームプレートを付けていた。この店では丁稚ではなく店員としての地位に有ると思われた。

 何か用立てる時はこの娘を指名しよう、と朕が決めたのは言うまでもない。まぁ、朕ではなくライラに指名させることになるだろうが。



 「査定は昼頃には終わってると思うわ」



 ライラはメリッサに礼を言うと、朕を抱きかかえたまま店を出た。



 「テーブルやカウンターに飛び乗っちゃだめよ。わかった?」



 ぬう。まぁ、些か無作法ではあったな。ここは大人しく謝っておこう。



 「ニャーーン」



 「解れば宜しい」



 そう言ってライラは朕を下ろしてくれた。言葉が喋りたいのう。喋りたいのぅ。


 ライラはそのまま市場へと向かった。市場は商館街とはまた違った活気があった。商館街のほうが殺気を多分に含んでいるとすれば、こちらは純粋な商魂の塊と言える。そこかしこで客寄せの声が飛び交い、少しでも購買欲を唆ろうと行き交う客達に商品を掲げてアピールする姿がそこかしこで見られる。


 ライラはまず最初に、家を出る時の宣言通り屋台で調理パンを買った。弱い酵母を使った棒状のパンに野菜やタレで焼いた味付き肉などを挟んだギロと言う食べ物だ。グレンコア大陸南部で主に食されている朕の生前にも在った料理である。


 ライラはチシャレタス小金瓜トマトの厚切りや千切りにしたアリウム玉ねぎパースニップ白人参、ほぐされた蒸鶏が挟まれた物を選んだ。屋台の親父に代金を払い――40ミルであった。屋台物としては少し値が張るが、鍋物でもないし仕方がないのかもしれんな。器を自前で用意すれば煮込みヌードルフーティウ煮込み鍋ポテなら10~20ミル程度である――屋台横に据えられた席に座ると、ギロを1/3千切って朕の前においた。


 丁寧に蒸鶏が多くなるよう、アリウムは取り除き、パースニップは少なめに調整してくれる。ウム。感心である。チシャは残し、アリウムなどの野菜を減らすのは高得点である。アリウムやパースニップは消化にあまり良くないが、パースニップなどは少量であればむしろ猫の健康には良いであろう。猫にも野菜は必要であるからな。実に心遣いのできる娘である。礼の言葉が述べられないのが口惜しい。口惜しいのぅ。



 「どうぞ、食べていいわよ」



 朕はせめて一言、ニャアと鳴いてからギロに齧り付いた。使い魔は主人との繋がりパスを通してオドを供給されていれば食事は必要がないが、空腹が無いわけではない。寧ろ、主人からのオド供給量を節約するためには食って寝て、その他様々な方法により自前でオドを生成する方が効率的なのだ。召喚されてこの方、何も食べておらんからの。


 うーむ。このベージュ色のソースがナカナカ……胡麻のソースのようだが、甘すぎず酸っぱすぎず、すべての食材と調和が取れておって……侮れん。

 早々に食べ終わってしまうが、それを見ていたライラが、自分の分からまた千切って朕の前に差し出す。いや、朕もそこまで餓えておる訳ではない。それはライラが食べて背の足しにするが良い、と思ったのが主従の繋りで伝わったらしい。



 「実はね、前からこのギロって食べ物を食べてみたかったんだけど、何処で売ってるのも大人一人前で私には多すぎて、でも残すのも勿体無いでしょ?だからナヴィが居てくれたから、今日初めて食べられたのよ。遠慮しないで」



 と、そのような事を言ってきた。

 ぬぅ。そこまで言われては致し方ない。有難く頂くとしよう。ありがとうが言いたいのぅ。



 「ニャーァ」



 今はこれしか宣えぬ。口惜しや口惜しや……。


 ライラはギロを食べ終えると、食料品の買い出しに向かった。

 革鞄から出した布の大きな肩掛けバッグを取り出すと、買った物を次々に放り込んでゆく。


 パタタガルバンソ、小金瓜、葉野菜アピウム、パースニップ、ベーコン、ソーセージ、大型汽水魚ハドックの塩漬けなどなどなど。

 見たところ鍋物を一気に作り、それに追加で食材を足しながら味を変えて一週間を過ごすつもりらしい。鍋は作り置きができる上に手間がかからないし、一品づつ作るよりもリーズナブルであるからな。


 見れば、食材が増えるに連れてバッグの肩紐がライラに食い込んでいく。どれ、少し手伝うてやるか。

 朕は遠隔操作テレキネシスを使って、そっとバッグを持ち上げてやる。やりすぎると気づかれるので、少しだけ持ち上げてやるのが中々に難しいが、遠隔操作テレキネシスの慣らしにはもってこいである。

 途中、ライラのバッグから顔を覗かせるハドックやソーセージに手を伸ばす不逞の輩が居たので、何度か朕の毛皮が帯びた静電気で伸びてきた手をパチリと一撃してやる。


 電気、とは電子の流れであり、振る舞いであるため、その振る舞いを制御してやるのは一人前の碩術師であれば制御できて当然の技術である。収束法シュレーディングと呼ばれる方法を使って粒子を捉え、遠隔操作テレキネシスによってその系を制御するのである。この術はハバード模型法等と組み合わせることにより、錬金術を行う上で非常に重要な術であるため、朕の生前はこの辺りを一通りマスターしてこそ一人前の碩術師と呼ばれたモノだった。


 ライラの肩掛けバッグもかなり膨らみ、買い物も終盤に差し掛かろうという頃、ライラは一軒の出店の前で立ち止まった。

 見れば革小物を売っている出店の様である。



 「これ、当てても良いですか?」



 店主が頷くと、ライラは所狭しと並べられた革小物の中から一つ、幅1フィンチ――1フィンチは人差し指の第一関節から先までの長さ――程の赤い鞣し革で作られたブレスレットを朕の首に当てた。真ん中に研磨された楕円の黒曜石オブシディアンが吊るされている物だ。確かに、首輪としても良いかもしれない。


 薄く青味がかったオブシディアンと朕を見比べてライラは満足そうに頷いた。



 「お幾らですか?」



 店主の告げた値段は6クラウンと20ミル。かなり、高い。むしろ、何の碩術的効果も持たないただの飾りに6クラウンと20ミルとは、明らかに吹っ掛けられている。オブシディアンなんぞ、その辺の火山に行けばゴロゴロ転がっているタダの天然石だ。希少石ではない。それが、このブレスレット一つで今日ライラが買った食材全てを足した額よりも高いとは。


 しかし、ライラは迷わず10クラウン紙幣と10ミル硬貨二枚を店主へと渡そうとする。値切りさえしない。食材を買った時は当たり前のように値切っていたのに。


 朕は慌ててブレスレットを当てている彼女の手に前足を置いた。こら待て。この様な奢侈品は朕には必要ない。其方の懐事情を鑑みればこの様な出費は控えるべきであろう、と朕はライラを窘めたつもりであった。


 見たところ、ライラの手仕事である写本は買い取り制の様であったし、この後鑑定が終わり写本の代金を満額貰ったとしても、次の原本を借りる為に最低でも3テールの保証金が必要であるはずだ。それだけではない。他にも羊皮紙やインク、ペン先だって自弁であろう。であれば、この後必要なのは3テールどころでは収まるまい。それに彼女の家の家賃やら何やらもこの写本代から出るのであれば、余裕など皆無なはず。なれば、不必要な出費は避けるべきだ、と。


 だがライラは朕の前足を見てクスリと微笑むと、店主に金を払ってしまった。



 「使い魔には誰が主人か分かるように、何か贈り物をするのが仕来りなのよ」



 そう言ってライラは朕の首にそのブレスレットを巻いた。


 確かにそう言う仕来りは有るには有るが、それならその辺の布辺りで良かろうに。朕は一向に気にせぬ。



 「それにね、これはお母さんから昔言われたのだけど、もし貴女が将来使い魔を持つようになったら、必ず貴女の持てる最大の贈り物をしなさい。それは使い魔への信頼の証であり、使い魔はそれにきっと応えてくれるから、って。期待しているわよ?」



 ぬぅ。このような物、贈られずとも朕は其方を立派なパーフェクトレディにしてみせるのに。だが、ここはライラのご母堂に免じて頂戴しておこう。


 店主がライラの言葉を聞いて、「良い主人を持ったな」等と言うが、糞店主めどの口が宣うか。貴様、ライラと朕を見た時からこれを見越して吹っ掛けたであろう。値切られたら「使い魔の価値を値切るのか?」とでも言って言いくるめる気であったであろうに。だからライラも値切らなかったのであろうが。次があったら糞尿を撒き散らして命乞いするまで値切ってやるからな。絶対にだ!

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