第7話 囚人番号612 魔術師

これは囚人番号612の正式な記録ではない。


「場所を自由に指定していいなら、一時にここに来てほしい」と依頼を受け、ぼくは中庭へと急いでいた。自由時間の刑務所の中は、心なしかいつもよりひとが少なく静かだ。

 仄暗い廊下を抜け、日の当たる中庭に出ると、三十人ほどの囚人たちの円ができていた。中にはトイカメラを提げた351の姿もあり、みな何かの期待に張り詰めた表情をして、何もない空間を囲んでいる。ぼくがそちらへ一歩踏み出した瞬間、円の中央から鳩が一斉に飛び立った。白い群れが割れ、囚人服のオレンジが現れる。囚人たちの悲鳴が歓声に変わった。中央で手を広げ、静かに頭を垂れる彼こそが612だった。


「あれを見せるために、カウンセリングの予約を入れたのですか?」

「とんでもない。ちゃんと相談したいことがある」

 歯を見せて首を振る612は、青色の目をした壮年だ。焦げ茶の髪を金属のように固くまとめるワックスは、差し入れで手に入れるのだろう。


 談話室に入り、向かい合って座ると彼は背もたれに頭を預けて言った。

「僕は誰も殺してないんだ、先生」

 ぼくは思わず溜め息をつき、額に手をやった。何度聞いた話だろう。

「あなたの自宅から見つかった二十七体の死体は?」

「覚えがない。いくらぼくに不利な証拠が揃ってもね」

 612が肩をすくめるのに、ぼくも片方の眉を上げて応える。

「御存知だとは思いますが、ここは刑務所だけでなく、不可解な事件をこれ以上増やさないよう、原因を隔離しておく場所でもあるんですよ」

「原因だって?」

「自覚の有無は関係なしに、ですね」

「それは、ひどいな」


 そう言って腕を組む612は、世界的に有名なマジシャンだった。通り名は魔法使い《ウィザード》。その名の通り、観客をステージに上らせての人体切断ショーや脱出マジックを得意とし、その場にいた者すべてを「魔法にかけられたようだ」と言わしめた。事故もなく、すべてが好調に進んでいたとき、講演ツアー中、彼の仕事道具を乗せたバスでボヤ騒ぎが起こった。すぐに消し止められたが、駆け付けた消防隊員と警察官はバスの中で信じられないものを見た。マジックの基本は確認、展開、偉業だという台詞で始まるのは、何の映画だっただろう。

 火は今さっき消えたばかりだというのに、中は冷気で満ちていた。ずらりと並ぶ小道具や大道具はすべて612のマジックで使われるものだ。そして、道具と同じ数だけ、死体があった。脱出に使う水槽には漂う水死体が、切断ショーで真っ二つにされる箱にはそれぞれ血が滴る上半身と下半身が、花火と共に消された観客が戻ってくるための発火装置の上には男女の区別もつかない焼死体が。

 612はステージ上で逮捕された。死体の死亡推定日時と使われた凶器は、彼のショーの演目と一致していた。


「僕がサクラを雇ってそのたびに殺してたとでも?」

 彼の言葉にぼくは口を噤む。毎日と言っていいほど手紙が届くのだ。魔法使いは無実だと。

 差出人は実際彼のステージに上がって何事もなく生還した観客たちだ。彼らは612のバスの中で見つかった死体とまったく同じ姿をしている。マジックで殺されたのがステージに上がった観客だとしたら、生きてショーから帰り、今まで通りの生活を営み、手紙を送る彼らは一体何なのだろう。


 あなたに関して再審を求める署名が集まっているそうです、とだけ答えると、612は満足そうに口元を吊り上げた。

「いいことを聞けたお礼に、何かお見せしなくちゃ。もちろんぼくは殺人犯じゃないが、先生を使うのは気が引ける。何か失くしていいものは?」

 ぼくは少し考えて、胸ポケットから煙草の箱を出した。612は受け取るが早いか、音を立てて両手の平を合わせ、箱を押し潰した。広げて見せられた手の中には何もない。

「どこへ消えたんです?」

 612は不敵に笑うとぼくの左胸を指す。ポケットには、固く軽い長方形の物体の感触が確かにあった。拍手を送るしかなかった。


 彼が部屋から出た後、ぼくはすぐに煙草を取り出し、火をつけた。見た目も味も、何も変わらない。それでも、今、612のツアーに使われたバスの中を探せば、ぼくの煙草のひしゃげた圧殺死体が見つかるのだろうか。

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