20s

キミナミカイ

第1話 原舞子

 原舞子は叫んだ。


 声は底のない井戸に石を落としたときのようにいつまでたっても進んでいくばかりだった。


 喉の奥がちりちりと痛み、これ以上は大声を出す気力もなかった。

 体力はなんの留保もなく奪われてった。まるでひびのはいったコップから水が一滴一滴確実に流れだすように。


 瞼を閉じると、昨夜の夕食が思い出された。瞼を閉じた方が明るく感じる。

 いつもと同じような食事だ。ご飯と味噌汁と豚カツとポテトサラダ。また太るわと言いながらおかわりしちまった。


 こんなことになるとは思わなかったけどおかわりしててよかった。と思っている場合じゃない。舞子は意識を集中した。するとコップのひびはきれいに消えた感じがした。


 ここはどこだろうか。真っ暗だ。奥行きがなく、眼球に黒い物が張りついているような感じでもあった。

 けれども眼球に異物感はなく、いつもと変りなかった。


 舞子は腕をでたらめに動かしたけれど壁にはぶつからなかった。けれども自由に歩くことはできなかった。

 人はいくつかの条件が揃って初めて歩行が可能となるのだと舞子は知った。


 なるほど。

 条件。

 重力があること。

 床か地面があること。拘束されていないこと。

 歩く意思があること。


 舞子には歩く意思はあった。拘束もされてはいなかった。舞子は昨日までと同じく、いや昨日よりも自由だった。けれども重力も床も地面もなかった。


 え? 浮かんでる?


 水中で停止しているのとは違った感覚だった。体が上下を感じていない。


 え? 宇宙?


 と舞子が思い当たるまでに時間はさほどはかからなかった。

 正解かどうかは別として。


 匂いはなく、埃っぽくもなく、寒くなく暑くなかったし、息苦しくもなく、風も吹いてこなかった。

 自分がいるところが宇宙だとは思えなかった。ロケットやスペースシャトルに乗った記憶はまったくなかったし、乗る予定もなかった。

 それに宇宙に行くのにどれだけの金額を支払わなければならないのか正確な数字は知らないけれども、誰がポケットマネーで女子高生を宇宙に連れて行くというのだろうか。


 ばかげてる。


 と舞子は思った。

 宇宙ではありえません。


 宇宙でなければどこだろうか。

 誘拐?

 あの家の子を?


 舞子の家はごく普通のサラリーマンの一家だ。貯金はない。家を買って十年経つ。

 父の給料もずいぶんと上がっていない、と母が愚痴をよくこぼしていた。間違っても金目的で誘拐などするわけない。


 たとえ誘拐であれば、廃墟と化した工場だとかの椅子にロープでぐるぐる巻きにされ、目はガムテープ、口はタオルで猿轡をされ、男が、

「おめぇじっとしとれよ、おとなしゅうしとれば、けがはさせんかんな」

 などと脅して舞子は泣いたりするわけだけれども。


 自由。

 いつもより自由度は高かった。


 あ、死んだ?


 天国。

 と舞子は思った。

 真っ暗だからもしかすると地獄か。地獄の門の近所か。門が開くのを待ってるわけか。

 と舞子。

 いやまて舞子、あたし。天国だの地獄だのは人間が創作した世界だ。

 少なくとも舞子はそう考えている。


 原始宗教が成熟し近代化を勧めるために合理化と集金システムと教徒を増やすためにいろいろと整備し、体系化し経営するためには必要な創作だ、と舞子は考えている。

 その中で天国と地獄の概念が作られた、とすればここは天国でも地獄でもない、また別の場所だ。

 と舞子は思った。


 ここはマジな死後の世界?


 わかった。

 と舞子は記憶を遡ることにした。


 最後の記憶はなにか?


 そこで事件か事故に巻き込まれていればここは死後の世界の可能性が高まる。やってみる価値はある。時間もたっぷりあることだし、どうやら自分は立っているようだけれども、疲れはなかった。

 呼吸のできるゼリーの中にとっぷりと沈んでいるような感じだ。

 まったく疲れない。

 お腹は空く。

 胃の中がからっぽになればお腹が空いたと脳が教えてくれる。


 最後の記憶は?


 高校の帰りだ。

 糸屋美波とバスに乗り合わせた。糸屋美波は同じクラスの友達であまりしゃべらないけれどもその日たまたま読んでいた文庫の題名を訊かれて渋々答えた。

 どうして渋々なのかといえば、読んでいる期間に邪魔が入る感じがするからだ。


「え?」

 と舞子。

「かなりぶっといけど、なに?」


 舞子は逆に質問を返す。

「糸屋さんは小説とか読むの?」


 糸屋美波は逆に質問されて顔を二ミリだけ歪め、

「美波でいいよ」

 と言った。「糸屋は好きじゃないから」


「う、うん、まぁ」

 と濁す感じでありありとわかる。

「ミステリーとか?」

 と美波は追撃する。

「まぁミステリーっぽくなってきた」

 と舞子はあくまで濁す自分が馬鹿な卑怯者に思えてきた。文庫の表紙をめくって見せた。


「カラマーゾフの兄弟」

 と美波は題名を読んだ。「へぇぇ」

「たまたまね兄貴が読んでたのを借りたら」

 と言い訳する理由が自分でもよくわからなかった。「どーなんのどーなんのって読んでんのよ、ねえねえところで美波さんはピロシキとちょうざめのスープのどっちが好き?」

 美波は「うーん」と考えた。

 なんて言ったっけ?

 と舞子は考えた。

 思い出せ、思い出せ、どっちでもいいことだけれども。


 そう、バスだ。

 バスがカーヴを曲がったところでドンと音がして、車内に衝撃と叫びが上がって、ピロシキとちょうざめのスープなんかどうでもいいくらいに乗客がぐちゃぐちゃに倒れたりしたことを舞子は思い出した。


 バス事故?


 ということはやっぱりここは死後の世界なのか?


 えぇぇぇぇぇぇぇ!


 いや待て舞子、と舞子は気がついた。


 その後の記憶があるぞ。


 バスは急ブレーキをかけて停まった。バスの前の方の乗客が「おいおい婆さん気をつけろよ」と叫んだから、バスの前に現れたお婆さんを轢きかけて事故にならずにすんだ、とわかった乗客の全員は体を起こしながら安堵し、「すんません」とか「大丈夫ですか?」とか「さあ座って」とか言い合っていた。


 舞子も美波が倒れているのを見て、手を差し伸べた。美波は照れ笑いしながら、

「ちょうざめってなに味?」と訊いた。


 なに味だろう?


 カラマーゾフの兄弟ってロシア料理に関しての本じゃないから情報がほとんどない。ピロシキはパン屋にもあるからだいたいあんなのだな、とわかるけれど、ちょうざめのスープはまったくわからなかった。


 アメリカ人が日本の小説を読んで、

「ほうれんそうのおしたしってなにー? ほうれんそうをどうするの?」

 とか思ってんだろうな、と考えると笑顔になった。

「申し訳ありませんでした。お怪我の方はいらっしゃいませんか?」

 と運転手がアナウンスした。


 バスの車内にけが人はいないようだった。よかったよかった。

 すぐにバスは出発した。


 ここは死後の世界じゃねぇ。


 その後、美波にカラマーゾフの兄弟の話をした。まず名前を覚えるのが大変。カラマーゾフ親父はとんちんかん親父だ。

 もうみんなよくしゃべるしゃべる、とか。

 文学的なことは一切話さなかった。

 そんなことはよくわからないし、昔の小説をおもしろいって読めるだけで素晴らしいことだと舞子は思うからだ。


「へぇ私も読んでみようかな」

 と美波が本気っぽく言ってくれたことが舞子にはうれしかった。


 美波さん買ったかなぁ?

 それともその場しのぎの単なるノリで言っただけなのかな。


 美波という子がどんな子なのかがわからないから、買うかどうか推測するためのデータが足りなかった。


 さて、最後の記憶は?


 その後、舞子は先にバスを降りた。窓から美波が手を振っていた。友達になれた瞬間だ、と舞子は感じた。


 ここで舞子は奇妙なことに気づいた。些細なことかもしれない。

 美波は違う方面のバスではなかったか。何度か別の方面のバスを待っているのを見たことがあった。記憶が違っているのか。

 誰かと間違っている?

 買い物にでも行くつもりだったのか。塾とか友達のところに行く、あるいは病院に。見舞いか診察に?


 今は確かめるすべはない。

 携帯電話も見当たらないし、鞄もなにもない。


 学校では本を読んでいる暇もない、といえば嘘だ。暇なんか作れる。それにカラマーゾフの兄弟なんて読んでいたら冷やかされるか真面目だと思われるか、メリットはない。


 舞子は学校での自分の立ち振る舞いを思い起こした。

 朝に始まり、授業中、休み時間や昼休み、学食での自分や友達といるときの自分を。自分はまるで人が買った服を毎日無理して着ているような感じがした。


 友達のグループでは率先して話題を提供する。盛り上がればさらに盛り上がる話題を差し出し、盛り下がりそうな寸前に話題を変える。その間、休みなく友達の表情や仕草を見、言葉に注意をはらう。


 そして下校。同じ方面のバスは自分だけだ。鞄から文庫本を出す。読み始める。物語に吸い込まれ、その中で呼吸する。自分を取り戻す感覚がする。恥ずかしいことじゃないとは思うけれど、隠してしまう。世の中にはそんなのと同じことってあると舞子は思った。


 美波は舞子の秘密を知ろうとした。美波からすればそんなことは秘密には入らないと思うかもしれないが、舞子にすれば秘密だった。家の玄関を通れば、文庫本を開く時間はまた限らてしまう。


 兄がカラマーゾフの兄弟を読むのは真っ赤な嘘だ。


 舞子がカラマーゾフの兄弟を読んでいると知れば、たぶん馬鹿にするだろう。母も父も舞子を茶化すだろう。父も母も兄も、原家には文化がない、と舞子は思っている。


 だから家で本を読むのは自分の狭い部屋だけだが、どうしても読む気にはなれない。部屋のせいなのかどうかわからない。原家の中に含まれているからだと舞子は考えている。


 さて、ここはいったいどこなのだろう?


 どれくらいの時間がたったのか、舞子には測るすべがなかった。


 腕をクロールのように動かしてみる。

 壁はない。

 なににも触れない。


 腕は動いているだろうけれど、見えないから脳味噌の中で、

 「腕、動いています」

 という情報だけがぐるぐると駆け巡っているだけなんじゃないかとすら思えてきた。


 え? あたしの体がないとか?

 脳味噌だけ?

 舞子は自分で自分に触れてみる。


 二つの情報が脳内に現出するのがわかる。


 一つ、「こちら腕ですが、自分の顔を触りました」

 二つ、「はい、こちら顔ですが、触られました」


 これで自分の肉体が存在すると結論してもいいのだろうか?

 舞子は頭を何度も激しく振った。


 こんなことを考えていてもしようがないじゃないの!


「もしもーし、誰かいませんかぁ!」


 と舞子は叫んだ。

 声はゲル状の暗闇にとぽんと落ちて消えてしまう。よしもう一度。


「こんにちはー! 誰かいませんかねー」


 なにごともなかったように舞子の声は破片も残さずに消えてしまった。


 反対にここで誰かの声がしたら、それはちょっと怖い、と舞子は思った。それは声の届くところで自分を監視しているということを意味しているし、それがどんな人間なのかを想像すると、あまりいい印象ではないからだ。道端で前を歩く人の千円札を拾って渡すくらいのことはするかもしれないが、助けを求める自分に「なんですか?」と返事する人は悪人だ。


 まだ未来のある女子をこんなよくわからない場所にぽつんと閉じ込めているのだから。閉じ込めているというよりも、ぶらさげている、だとか、浮かべている、といった方が正しい感じはする。


 どちらにしても日常からバリッと剥がして見知らぬ土塀にペタリと貼ってどこかからじっと見ているのだから変わりはない。

 まだ頭や顔や尻を殴られたわけではないし、服も脱がされてはいないから直截的な恐怖は感じてはいなかったけれども、暴力には変わりがない。


 これは暴力だ。たぶん今頃、夕食か夜食か朝食か昼食を食べている頃かもしれない。


 あれ、今、何時何分?


 埒があかないとはこのことだな。と舞子は実感した。


 向こうが黙ってんなら、こっちから動いてやろう。


 しばらく舞子はその場で壁にぶつかったりしなかったから、たぶん歩み続けた。

 足の裏にはなんの感覚もなかった。地面を踏みしめたり、段を登ったり、石を踏んだり、あの感覚が懐かしい。まるでどこにも進んでいないことがわかった。ここは歩けない場所なのだろう。

 たぶん自分が知らない間に世界のどこか、アメリカだと思うけれど、のどこかの州で地上にいながら無重力状態を再現できる機械が発明されてあたしが実験台に選ばれたのだろう。たぶん馬鹿な兄貴が応募葉書を送ったのだろう。


 な、わけない、それくらいわかりますわ。と舞子はつぶやいた。

 そのつぶやきもたぶん目の前あたりで消えた。


 また最後の記憶を探そう。


 バスを降りて美波さんに手を振ってバスが坂を下ってあたしは家に向った。

 商店街を通り、履物屋の黒いマルチーズがいつものように無愛想にし、和菓子屋のおじいさんがカステラの切れ端をくれ、コンビニに寄って唐揚げとグレープフルーツジュースを買った。


 いい調子だ。


 いつもの帰宅路で家に辿りついた。

 ポストをのぞく。

 鍵を出して扉を開け、施錠した。居間のソファに座って唐揚げを食べながらグレープフルーツジュースをそのまま飲んだ。

 誰もいなかった。

 母はパート、兄貴は大学。


 庭に雀が来ていたからあたしは数えた。母が鳥台を作って玄米やクスクスを置いといてやったら初めは一羽だったのが雀のネットワークで広がったのか現在二十羽がやってくるわけ。雀は喧嘩もするし、母が玄米とクスクスを置くと、遠くの電線でじっと見てて、母が家に入るとふぅぅーばさばさって降り立つ。

 好き嫌いもある。

 一番好きなのは玄米。次に白米。次にクスクス。

人気がないのは押し麦で、玄米がなくなって押し麦しか残ってなかったら怒っちゃってそこらへんに散らかしてしまって、しようがなく食べる雀もいるわけ。

 しゃーないな食うかって感じ。


 舞子は雀を数えているとき、電話が鳴ったのを思い出した。


 家の電話だ。

 そう電話が鳴って、もちろん出た。


 舞子は考え込む。


 えー、誰からだっけ?


 ちょい待てあたし。記憶はそこまでだ。


 舞子はいつものように電話に出た。相手が誰なのかは思い出せなかった。自分は立っていて、受話器を耳に当てている。


 相手は誰だ?


 舞子は眉間にシワをよせて脳にエールを送りながら思い出そうとする。えーとえーと。

 無言?

 間違い?

 知ってる人? 誰だ? 記憶にない。


立ち止まって受話器をにぎる自分の映像は停止し、輪郭が溶けるみたいにぼやけていく。溶解しながらあたしは、ここに現れた。

 と舞子はつぶやいた。

 

最後の記憶に痛みもしびれも恐怖もなく、家の中に潜んでいた怪しい人影も見なかった。まるで浴槽に浸かって「あぁ気持ちいいーわぁ」とうとうとしているうちに寝てしまったように心が穏やかな記憶はあった。


 寝たの? あたし?


 そんなわけない。と舞子は思った。


 だって唐揚げつまんだ指も洗わないで眠ることなんて考えられないから。

 受話器はたぶん左手で取った。

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