第3話 ブラックアウト

こんな血なんていらない。

これまでいくら思ってきただろう。

こんな汚れた血。


浮気して女をはらませ、愛だのなんだの嘯いておろさせもせず、いい加減邪魔になったら切り捨てる。その繰り返し。

あたしの体には、その血が半分流れている。


見知らぬ男に体を開いてはいくばくかの金と快楽を得る。そのために、夜から夜へと渡り歩き、合間にできた子供には見向きもしない。その繰り返し。

あたしの体には、その血が半分流れている。


この世界、「血」のつながりが絶対であるのなら、あたしはきっとろくでもない大人になるのだろう。どちらの血を引いても特に大差なく、明らかに誰かを不幸にする未来。


あたしはきっと疫病神だ。


そんなろくでもない血から生まれ、捨てられ、人様の税金を食い潰して生きている。

それなのに、自ら消える勇気もなくて、ただダラダラと生きている。


ああ、これは罪だ。

あたしが生きているということ。

こんな血でできているあたしが、今のうのうとここに存在し息をしているということ。


こんな血なんていらない。


あたしの周りには、事故などのために家族を皆亡くした子がたくさんいた。そしてその子たちは、家族を失った哀しみや痛みを抱えて生きていた。あたしは間近でそれを見て育ってきたから、その苦しみをよく知っていた。


その苦しみがうらやましかった、と言えば、あたしがどれだけ冷酷でダメな人間か分かるだろう。


だってあたしには、初めからなかったんだ。

失って哀しいと思える家族も、どんな手を使ってでもまた会いたいと思える家族も。


初めから空いている穴ぼこには、何を入れればいい?あたしの体中に空いた穴は、埋まることなくダラダラと体液を流し続ける。決して致命傷になることはなく、それでも治癒することもない中途半端さで、その穴はあたしを責め立てるのだ。


このくだらない血は、どうすればいい?


この穢れた血は、なんのためにあるの?


答えの出ない問いかけは、常にあたしの頭を回っている。ぐるぐるぐるぐる、まるで呪文のように。そしてそれは、あたしをギリギリと縛り付けるのだ。一生逃れられない。その汚れた血と同じように。



いつものようにあたしは外を歩く。

汚れた血を体中に巡らせながら、全身で呪文を唱えながら。

適当に横切ろうと入った公園には、目に入るもの全てが美しいものだと思っているような、そんな甘ったるい思想が渦巻いていて、苛立って仕方ない。

こんなところにあたしは似合わない。

少し歩くペースを上げる。


下ばかり向いて歩いていたけれど、なんとなく、緑が途切れた合間に差す光とか、土の道がアスファルトへと変わっていく境目とか、そんな景色が視界に入ってきた。

そろそろ出口に差し掛かってきたころだ。

幸せの象徴からやっと脱出できることに、どことなく安心して顔をあげた。


その時目に入ったのは、一台の薄緑色した献血車だった。

見た瞬間、これだと思った。

これであたしの血を減らすことができる。

そのうえ、あたしの中から汚い血を減らし、なおかつそれを不特定多数の人間に感染させることができるのだ。

何て素晴らしい!


性欲に汚れた血が、男におぼれた血が、ただ純粋に、生きるために血を求める人たちの体を蝕んでいく。だって命をつなぐのだ。それくらいの犠牲は構わないだろ?

ねえみんなであたしの血を奪って。

飲み干したってかまわない、この血を。そして生きて。汚染されたまま。

感染源はあたし。誰も気づかないけど。

みんなにこの穢れを、うつしてあげよう。


あたしは献血の列に並ぶ。初めてのことに少し緊張するけれど、毎日毎日頭を回っていた呪文は、いつの間にか止まっていた。こんなこと初めてで、献血への緊張なんてすっ飛んでしまった。


チクリと肌を刺す感覚が、妙に心地よかった。針の痛みなんて、鬱々とした日々にとってはほんの些細な刺激にすぎない。

スーッと血が抜かれる感覚。

暗い赤色が目に入り、少し落ち着かない。これがすべての元凶。今のあたしを造り出した素。

そしてこれが、これからこの穢れを感染させるための種となる。


「しばらくこちらで休んでくださいね」

アルコールの染みこんだガーゼで止血しながら、指示されたパイプ椅子へと移動する。

すぐ近くのはずなのに、なかなかたどり着かない。なぜか体が重たい。目の前がチカチカしてきて、目の前の景色から色がなくなる。

「顔色悪いな…気分悪いですか?」

気遣ってくれる声がだんだん遠くなる。


これは罰?

あたしの穢れにいろんな人を巻き込もうとした罪に対して。

みんなを汚そうとして。

ごめん、ごめんね。

やっぱりあたしは汚い。

何も考えず、あたしだけが消えればよかったな…

そこまで考えて、あたしの意識は完全にブラックアウトした。



『あおいはいい子だねぇ。先生の自慢だよ』

『大丈夫、お父さんもお母さんも忙しいだけだから。眠るまで、先生がご本読んであげるね』

『怖い夢みちゃったかな。さあ、先生と手をつなごう』

あたしの数少ないほわほわした温かい記憶。

なんでこんな夢見るんだろう。

あたし、何してたっけ…

ほんの少し、髪を風がなでていく。そんなふわふわした感覚に、ゆっくり目を開ける。

腰あたりに掛けられたブランケットはやさしくあたしを包んでくれて、なんだか安心する。

こんなやわらかな感覚にそぐわない消毒液の匂いに、あたしは今の自分の状況を思い出す。


あ。やらかした。


どうにもバツの悪い思いがして、ブランケットを引き上げる。

人類汚染計画に近いことを考えておきながら、そのしょっぱなでぶっ倒れるとは情けない。

しかもこんなに迷惑かけて。

あたしのバカな計画。

もう、どうにでもなれ。


「あ、目覚めた?」

優しい顔したおばちゃんの看護師さんが声をかけてくれた。

「はい…すみません。ご迷惑おかけしました」

「気にしないで。結構いるのよ、献血のあと倒れちゃう人。はい、これ飲んで」

渡されたのははちみつレモン。甘くてすっきりして、おいしい。

「ありがとうございます」

「でも、血を分けてあげようって思ってきてくれたんでしょ。本当にありがとうね」

違う、違う。

そんなこと、一度たりとも考えなかった。

あたしにはそんなやさしさはない。

あたしはあたしの欲望のためにこのバカな計画を進めただけだ。

優しいおばちゃんの声に、自分のあさはかさに、涙が出てきた。

「…うっ。ち、ちがう…」

違う、違うといって泣きじゃくるあたしに、おばちゃんはそっと寄り添ってくれた。

背中を撫でてくれる手が、数少ない温かい記憶を思い出させる。

さっき見た夢。

まるでブランケットのように懐かしく温かい出来事たち。

「何を思ってここに来てくれたのかは分からないけど」

おばちゃんはあたしを抱き寄せ、頭を撫でてくれる。

「でもね、あなたの分けてくれた血が、何人もの人の命を支えてるの。その事実だけは信じてね」


そっか。

あたしのこんな、大嫌いだった血液で、人を支えることができるんだ。

感染させてやる、なんてバカなこと考えていたのに、人を救ったかもしれないという事実は、冷え切ったあたしをあたためる。


「きっかけなんて、なんでもいい。血をくれたっていう事実があなたのやさしさなの」

そうなのかな。あたしはやさしくなれるんだろうか。

「体、もうツラくない?倒れるくらい辛い目に合わせてごめんね」

あたしは必死に首を振る。

「やさしい子なんだね。今日はありがとうね」

おばちゃんは、泣きじゃくってしまったあたしが落ち着くまで頭をなでて、ずっとそばにいてくれた。


心も体も落ち着いてきたころ、おばちゃんは立ち上がった。

「落ち着いたみたいね。じゃあ、あたしももうひと働きしてくるわ」

そうだ、この人仕事中だったんだ。

「すみません、お仕事の邪魔して」

「いいのいいの。休憩中だったから、気にしないで」

こちらが気にする間もなくカラッと言われてしまう。

「体調崩す人のお世話をするのが看護師の仕事だから、今日の事、全然気にしないでいいのよ。ただ、これから献血するなら、自分の体調をまず考えてね」

「はい」

どこまでもこちらのことを気にかけてくれる言葉に、心が温まる。

不思議だ。

あんなに荒んだ心でここに来たのに、今はこんなにほんわりしてる。

「じゃあ、気を付けて帰ってね」

「はい。ありがとうございました」

あたしはそっと、献血車の奥の部屋から外へと出た。


公園はまだ、幸せな雰囲気をまとっているけれど、今のあたしにはうざくない。

こんな血が、人を支えられた。

こんなあたしに、寄り添ってくれる人がいた。

それだけで、ただそれだけで、あたしはここにまだいられる気がするから。

「…看護師さん。あたしにもなれるかな…」

あたしは初めて、自分の足元ではなくこの足が進む先の方へを目をやったのだった。



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