愛猫との甘い生活

RomeoAlpha

第1話

 カラオケ屋でのアルバイトを終え、自宅へと帰ってきたアラタは、ポケットから鍵を取り出すと、鍵のかかった扉を開けて、玄関へと足を踏み入れた。

「ただーいまー」

 一人暮らし用に作られた狭いワンルームだから、屋内にいる誰かへの挨拶は不要なはずだ。だが、アラタの帰宅の挨拶に対し、明かりの灯された室内からの応えが戻る。

「アラター。ハラが減ったぞー」

 若い女性の声だった。

 お帰りの挨拶の前に、空腹を訴えられてしまったアラタは、深々とため息をついた。

 靴を脱いで玄関から廊下に上がりながら、室内で待つ女性に声をかける。

「ユキさん。僕、今日は授業の後はバイトだから、帰るの遅くなるよって言ったじゃないか。何か自分で作ってねって、朝、お願いしてたのに……」

 アラタの愚痴に近い言葉に、若い女性は、悪びれもせずに言ってのける。

「ワシは火が苦手なのでな。料理は無理じゃ」

 流しで軽く手洗いとうがいを済ませたアラタは、帰りがけに立ち寄ったスーパーで買い物した荷物を冷蔵庫に入れるべく、室内へと入ってきた。

 そこにいたのは、確かに女性だった。年齢は学生のアラタよりもさらに若く、十代半ばから後半にさしかかるあたり。といったところだろうか。だが、短く整えられた髪はすべて白く、外見から推測される年齢にはまったく見合わない。

 いや、その前に。

 彼女の姿をよくよく見ると、頭のてっぺんには、ヒトの頭であればありえないものがついている。

 三角形にとがった耳だ。

 形状はネコのそれと同じで、少し動いたりするところを見ると、どうやら髪飾りの類ではないらしい。

 さらに注目してみれば、ヒトなら耳がついている場所は、ただ髪の毛で覆われているだけで、耳らしきものの痕跡すらない。

 顔立ちはヒトとまったく同一であり、ぱっと見は美形の部類に入る。だが、その瞳は金色で、白目はほとんどない。瞳孔は今は若干縦長になっており、見た感じはネコの瞳のそれに等しい。

 服を着ているので、身体が体毛で覆われているかまでは見て取れないが、手や足は毛で覆われている。もっとも、胸元や首のあたりは肌が露出しているので、身体の一部が体毛で覆われているのだろうと推測はできる。

 また、爪はヒトとほぼ同じ形状をしているが、こちらはどうやらネコと同様に、収納することが可能なようだ。

 まあ、これらの特徴でも十分驚くべき内容だが、一番のポイントは、彼女のズボンと上着の間から伸びている二本の尻尾だろう。純白の毛並みに覆われたそれは、ゆらゆらと左右に揺れ動いている。

 そんな彼女は、今はゲームに夢中だ。反射神経と動体視力がいい方なのか、格闘ゲームでCPUを一方的に殴り倒している。

「で、ユキさんは何が食べたいの?」

 買い物袋からひたすら冷蔵庫へと物を収めているアラタに対し、CPUをフルボッコにしてコントローラーを置いたユキが、視線を天井にさまよわせながら何かを思案している。

 ようやく考えがまとまったのか、ユキはアラタに向かって話しかけた。

「……ベタですまんが、やっぱり魚かのう?」

「はい、はい」

 スーパーで買ってきた物の中から、わざわざ取りよけて台所に置いてあったパックを見ながら、アラタが答える。

「じゃあ、ブリの煮つけでも作りますか。帰りに寄ったスーパーで、天然ブリが割引されてたから、買ってきたんだよね」

「おお! 楽しみじゃ!」

 破顔して喜ぶユキを前に、アラタは服の袖をまくって、これから料理に挑むという姿勢を見せた。


 ユキは、アラタの実家で飼われていたネコだった。品種はおそらく雑種であろうと思われるが、もしかすると、日本猫に分類されるのかもしれない。アラタが生まれる少し前に、子猫として実家にもらわれて来たので、家族としてはアラタよりも先輩だ。

 そんな彼女が、実家から一人暮らしをしているアラタの家に来たのには、ちょっとした事情がある。

 実家からかなり遠い大学に通うことになったアラタは、大学からあまり離れていない場所にワンルームを借りた。そこで新しい生活を始めたアラタだったが、しばらくして、実家から思いがけない連絡をもらうことになる。

 ユキの様子がおかしい。と。

 ずっと家の中を探し回るかのように歩き回り、小さな声で鳴くのだという。さらに、アラタの部屋に入っていって、ハンガーにかかっていたアラタの服を器用に引っ張り出すと、それにくるまって寝てしまった。そんなユキの姿を見た両親は、彼女はアラタがいなくなったことで、かなり落ち込んでいるのだと考えざるを得なかった。

 アラタはアラタで、昔からずっと一緒に、それこそ姉弟のように育ったユキのことが気になってはいたので、両親と連絡を取り合った結果、彼女を新居へと連れて行くことにした。

 ネコは自分の住んでいる場所から離れるのを好まないと聞いていたのだが、ユキは実家を離れるのを嫌がるどころか、迎えにきたアラタにぴったりと寄り添い、さも当然のようにケージに収まって、アラタの暮らす部屋へとやってきた。

 まあ、ネコとしては超高齢であることもあり、これで最後になるかもしれないワガママくらい、聞いてあげようじゃないか。という気持ちもあったのは否めない。

 そんなアラタとユキの生活は、アラタが大学二年生になった時に、ひとつの転機を迎える。

 ユキが死んだのだ。

 かれこれ二十年近い時を過ごしてきたユキは、身体を満足に動かすことすらできず、日に日に弱っていく一方だった。アラタはネットや本で調べた様々な情報をもとに、ユキが苦しまないようにと、ずっと世話を続けてきたのだが。

 それでも、生あるものは、いつかは死ぬ運命にある。

 ほとんど動けなかったユキが、アラタに抱っこを求めてすり寄ってきたとき、アラタは迷わずユキを抱きかかえた。

 アラタの腕に抱かれ、ゴロゴロと喉を鳴らして喜んでいたユキだったが、最期の瞬間、アラタをじっと見つめてから、小さくひと声鳴いた彼女は、アラタの腕の中で息を引き取った。

 長年連れ添ってきた愛猫を失った悲しみは、アラタの涙腺を決壊させるのには十分すぎるものだった。ユキを抱きしめながら、両目に涙を浮かべてぼろぼろと泣くアラタは、抱きかかえていたユキの身体が急に重くなったことに、しばらくは気が付かなかったほど憔悴していた。

 何者かに頬をつつかれていることに気付いたアラタは、ユキを抱いていた腕のうち、左腕をはずすと、自分の目をぬぐって涙を拭いた。

 多少は鮮明になったアラタの視界にあったものは、一糸まとわぬ姿の少女だった。

 しかも、頭の上にネコミミをつけた。

 ユキの毛並みと同様に、その頭髪はつやのある純白だ。

 何が起きたか理解できず、呆然としているアラタに対し、アラタの腕に抱かれた少女は微笑みを浮かべると、その腕をアラタに伸ばし、彼の頬に触れる。

「ワシのためにそこまで泣いてくれるとは。ペット冥利につきるのう」

 アラタの頭の中は、完全に真っ白になった。


 しばらくして、ようやく落ち着きを取り戻したアラタは、目の前の少女といくつかの会話をした結果、彼女がユキであることを認めざるを得なかった。

 なにしろ、鍵のかかった部屋の中に、他人が侵入してこれるわけがない。そうなると、彼女は室内にいた誰かということになる。

 それに、彼女がヒトとしてはありえない姿をしていたこともある。特徴的すぎるネコミミと、二本の尻尾を目の前で動かされてしまっては、それが偽物だと言い張ることもできない。

 だが、何よりも、彼女をユキとして認めざるを得なくなったのは、彼女が語った昔話だった。

 彼女が最初に語ったのは、アラタとしては思い出したくもない過去だった。

 顔立ちがかっこいいよりはかわいいに近く、服装によっては男性とも女性とも取れる雰囲気のアラタは、まだ小学生だった頃に、自宅に押しかけてきた幼馴染の女の子とその友達に強要されて、女装をさせられたことがある。

 女の子たちが思わず息をのむほど可愛らしく変身したアラタだったが、彼自身は酷く落ち込んで、今にも泣きだしそうになっていた。

 そんなアラタを見たユキは、普段は大人しくて、人に対して威嚇したり爪を立てたりするようなことはしないのに、アラタがいじめられているとでも判断したのか、急に怒り出し、女の子たちに対して毛を逆立てて威嚇をすると、今にも噛みつかんばかりに襲いかかってきたため、押しかけてきた女の子たちがあわてて退散した。という事件があった。

 あまりにも恥ずかしかったために、両親にすら語っていない昔話で、このことを知っているのは、アラタの他には、あのとき押しかけてきた女の子たちと、ユキしかいない。

 さらに。

 アラタがまだ小学校に上がる前、自宅の庭で一人で遊んでいたことがある。

 その姿を窓越しにじっと見つめていたユキを見て、アラタの両親は思うところがあったのか、これまでずっと屋内で飼っていたユキを、初めて外に出してやったのだ。

 生まれて初めて屋内以外の世界を知ったユキは、初めて触れる物に対する驚きを隠すことなく、庭中を探索してまわり、最後に庭の真ん中にある樹に登り始めた。

 ユキもネコである以上、木登りは得意なはずだった。実際、ユキは爪を器用に使ってあっという間に上の方まで登ってしまった。

 家の二階のベランダよりわずかに高い位置へと登ったユキは、ちらっと下を見た瞬間、思った以上に高い場所に来てしまったことに、すっかり怯えてしまった。

 樹の上で助けを求めるかのように鳴くユキに気づいたのは、ひとり庭で遊んでいたアラタだけだった。

 アラタは木登りが得意ではなかった。だが、助けを求めて鳴くユキを放置しておけるほど、薄情でもなかった。

 アラタは意を決すると、黙々と庭の樹を登り始めた。

 かなりの時間がかかったが、アラタは、手を伸ばせばユキに届きそうな位置まで登ることができた。そして、ユキに声をかけると、アラタの胸元に飛び降りてきたユキをしっかりと受け止めたのだ。

 しかし、そこまでだった。

 ユキを抱いた状態では、樹から降りることはできず。樹の枝に身体を預けながら、ただ助けを待つことしかできなかったのだ。

 結局、異変に気付いた両親があわてて駆けつけ、脚立を持ち出してアラタとユキを救出してくれたことで二人は助かったのだが。あの後、アラタは両親からこっぴどく叱られた。

 まず、両親にユキの救助を頼むべく、声をかけるべきだったと。

 それは当然そうなのだが、アラタとしては、救いを求めるユキのもとに、一刻も早く駆けつけたかったのだから、致し方ない。

 この事件は、アラタは今でもはっきりと思い出せるほど、鮮明な記憶として残っていたので、先ほどの恥ずかしい思い出の次に、ユキとアラタの両親しか知りえないこの話を聞かされた瞬間、アラタは彼女をユキと認めたのだった。


 だが、そうなると、なぜユキがヒトに近い姿となって、一度は絶えたはずの命が再び蘇ったのかが疑問になるが、それはユキ自身から説明があった。

「そなた、猫又というものを知っておるか?」

 アラタに寄りかかりながら、ユキは続ける。

「ネコが長い時を過ごすと、猫又という妖怪になるそうじゃ。ワシもネコとしてはかなり長い年月を生きたからのう。もしかすると、その猫又なるものになったのやもしれぬな」

 アラタの胸元に頬を寄せながら、じっと見上げるユキの顔は、ヒトとしてはカワイイというよりは、キレイという範疇に入る。身体の方は発展途上の少女といったところで、控えめな胸と、はっきりとした腰のくびれが視線を吸い寄せる。女性ならではの見事な曲線だ。

「まあ、理解はできないけど、とりあえず君がユキだということは納得した。納得したからさ」

 アラタは、身体を寄せる少女をなるべく見ないようにしながら言った。

「何か、服を着てくれないかな?」

 一瞬、きょとんとした表情を見せたユキだったが、その言葉に隠された意味を悟って、急にニヤニヤと笑いだす。

「なんじゃ? アラタよ。そなた、ワシの姿を見て欲情しておるのか?」

 誇らしげに胸を張り、艶めかしく身体をくねらせてみるユキに対し、アラタは耳まで真っ赤にしながら答えた。

「してません!」

 とはいえ、顔は真っ赤だし、声もうわずってしまっていては、まるで説得力がない。

 そんなアラタの頬に手を伸ばしながら、ユキはつぶやく。

「ワシが猫又というものになったのは、この世に未練があるからやもしれんでのう」

 そう言いながら、ユキはさらにアラタの側に近づくと、彼の頬に触れんばかりに自分の顔を寄せた。

「その未練のひとつは、男を知らず、子を生すこともできずに死んでしまったということじゃ」

 ユキの唇は、今ではアラタの唇に触れんばかりの距離に近づいている。

 だが、アラタはそんなユキとの間にスペースを作るように手を入れ、彼女との距離を保ちながら言った。

「ダメだよ。絶対に!」

 その言葉はかなり強く、拒絶とも取れる内容だった。

 ユキの表情が曇っていく。二本の尻尾もだらんと垂れ下がった状態だ。

 そんなユキの表情の変化を敏感に感じ取ったアラタは、言い訳めいた弁解を始めた。

「だって、ほら。僕が、ユキくらいの年齢の女の子に手を出したら、犯罪者扱いされちゃうよ」

 たしかに、アラタの懸念は間違っているわけではない。

 なにしろ、現在のユキの姿は、ヒトとして見た場合、成熟した大人として扱うにはいささか問題がある。

 顔立ちはともかく、胸のふくらみは片手に収まるほどのささやかなものだし、腰から下の肉付きも、出産が可能なほどしっかりしたものには見えない。強いて述べるとするならば、大人へと成長しかけている少女の姿。とでも言えばよいだろうか。

 法律的にはギリギリ結婚できるかもしれないが、性的な対象としてしまったあかつきには、青少年保護育成条例が適用されるのは間違いない。少なくとも、彼女の外見はそのあたりの年齢に見える。

「それに、僕にとって、ユキはとても大切な、お姉さんのような存在だったんだから。そんな、僕の低俗な欲望のはけ口にするなんて、できないよ!」

 そんなアラタの言葉を聞いて、自分が拒絶されているのではなく、むしろ大切に扱われているのだということを悟ったユキは、アラタから身体を少し離して言う。

「そうか。それは残念じゃのう……」

 言葉ではそう言ったが、ユキは満足していた。

 ユキからしてみれば、アラタが顔を真っ赤にして恥ずかしがっている姿を見れただけでも楽しかったし、アラタはユキの事を性的な対象として見ているが、理性で踏みとどまっているという事実があれば、それでもう十分だったからだ。

 ネコからヒトの姿へと変わった自分を恐れるどころか、受け入れてくれているのだ。これで満足せずにいたら、罰があたるというものだ。

 ユキは、まっすぐアラタを見つめながら、つぶやくように言った。

「ワシは、アラタとなら、臥所を共にしてもよいのじゃがな」

 臥所という、一般的にはやや難解な言い方をしたものの、それが一緒に寝るということを意味することは、アラタには理解できた。

 理解できたがゆえに、アラタはさらに混乱する。

 そんなアラタの様子を楽しみながら、ユキは、アラタの頬を左手でそっと撫でた。

「なんじゃ。昔はよう一緒に寝ておったではないか。今さら恥ずかしがることでもなかろうに」

 口の端をわずかに吊り上げて笑ったユキは、照れに照れているアラタの肩に頬を寄せ、彼をちらりと見上げながら。

「それならば、この姿ならよいか?」

 そう言うと、ユキは実にあっさりとネコの姿に変身した。

 その姿は若いころのユキそのままで、ただ違いがあるとすれば、尻尾が二本に増えているという、ただその一点だけだ。

 いや、もう一点あった。

「これなら、昔と変わらぬじゃろう?」

 彼女が、ヒトの言葉をしゃべれるようになった。ということも。

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